1 はじめに:一文字多いのは大違い
「一言多い人」は困った人で,また,一文字多いことによって言葉の意味が大いに変ずることがあります。例えば,「被告」と書けば穏便な民事事件であるところ,「被告人」と書けば剣呑な刑事事件となるが如し。
「国葬」と「国葬儀」との関係も同様でしょう。両者は似てはいるのですが,異なるものと解されます。(正確には「国葬儀」に対応するのは「国葬たる喪儀」なのですが,「国葬たる喪儀」を含めて「国葬」といわれているようです。しかして,「国葬」たらざる「国葬儀」はあるものかどうか。)
2 国葬令
まず,「国葬」の語義を確かめるべく,1926年10月21日付けの官報で公布された大正15年勅令第324号を見てみましょう。
(1)条文
朕枢密顧問ノ諮詢ヲ経テ国葬令ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム
御名 御璽
摂政名
大正15年10月21日
内閣総理大臣 若槻禮次郎
陸軍大臣 宇垣 一成
海軍大臣 財部 彪
外務大臣男爵幣原喜重郎
文部大臣 岡田 良平
内務大臣 濱口 雄幸
逓信大臣 安達 謙藏
司法大臣 江木 翼
大蔵大臣 片岡 直溫
鉄道大臣子爵井上匡四郎
農林大臣 町田 忠治
商工大臣 藤澤幾之輔
勅令第324号
第1条 大喪儀ハ国葬トス
第2条 皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃及摂政タル親王内親王王女王ノ喪儀ハ国葬トス但シ皇太子皇太孫7歳未満ノ殤ナルトキハ此ノ限ニ在ラス
第3条 国家ニ偉勲アル者薨去又ハ死亡シタルトキハ特旨ニ依リ国葬ヲ賜フコトアルヘシ
前項ノ特旨ハ勅書ヲ以テシ内閣総理大臣之ヲ公告ス
第4条 皇族ニ非サル者国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ヲ行フ当日廃朝シ国民喪ヲ服ス
第5条 皇族ニ非サル者国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ノ式ハ内閣総理大臣勅裁ヲ経テ之ヲ定ム
(なお,官報に掲載された文言には誤植がありましたので,御署名原本により改めました。①第1条の「国喪」を「国葬」に,②第3条の第1項と第2項との間に改行がなかったところを改行,③第3条の「勅書ヲ以テ内閣総理大臣」を「勅書ヲ以テシ内閣総理大臣」に)
大正15年勅令第324号には施行時期に関する規定がありません。しかしながらこれは,公式令(明治40年勅令第6号)によって手当てがされています。すなわち,同令11条(「公布ノ日ヨリ起算シ満20日ヲ経テ之ヲ施行」)により,1926年11月10日からの施行ということになります。
(2)枢密院会議
ア 摂政宮裕仁親王臨場
国葬令の上諭には枢密顧問の諮詢を経た旨が記されています(公式令7条3項参照)。当該枢密院会議は,1926年10月13日に開催されたものです。同日午前の摂政宮裕仁親王の動静は次のとおり。
13日 水曜日 午前10時御出門,宮城に御出務になる。神宮神嘗祭に勅使として参向の掌典長谷信道,今般欧米より帰朝の判事草野豹一郎ほか1名に謁を賜う。10時30分より,枢密院会議に御臨場になる。皇室喪儀令案・国葬令ほか1件が〔筆者註:当該「ほか1件」は,開港港則中改正ノ件〕審議され,いずれも全会一致を以て可決される。正午御発,御帰還になる。(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)542頁)
イ 審議模様
当該枢密院会議における国葬令案審議の様子は,枢密院会議筆記によれば次のとおりです(アジア歴史資料センター(JACAR): Ref. A03033690300)。
(ア)伊東巳代治
まず,枢密院の審査委員長であった伊東巳代治が審査結果の大略を報告します。
国葬ハ国家ノ凶礼〔死者を取りあつかう礼。喪礼。(『角川新字源』(1978年(123版)))〕ニシテ素ヨリ重要ノ儀典ナルカ故ニ国法ヲ以テ其ノ条規ヲ昭著スルハ当然ノ措置ナリ則チ本案ハ〔天皇の勅定する〕勅令ノ形式ヲ以テ国葬ノ要義ヲ定メ以テ皇室喪儀令〔筆者註:こちらは大正15年皇室令第11号です。皇室令とは,「皇室典範ニ基ツク諸規則,宮内官制其ノ他皇室ノ事務ニ関シ〔天皇の〕勅定ヲ経タル規程ニシテ発表ヲ要スルモノ」です(公式令5条1項)。〕ニ承応セムトスルモノニシテ先ツ天皇及三后〔太皇太后,皇太后及び皇后〕ノ大喪儀〔皇室喪儀令4条・5条・8条参照〕並皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃及摂政タル親王内親王王女王ノ喪儀ハ国葬トスルコトヲ定メ其ノ他ノ皇族又ハ皇族ニ非サル者ニシテ国家ニ偉勲アルモノ薨去〔皇族・三位以上の人が死亡すること。(『岩波国語辞典第四版』(1986年))〕又ハ死亡シタルトキハ〔天皇の〕特旨ニ依リ国葬ヲ賜フコトアルヘク此ノ特旨ハ勅書ヲ以テシ内閣総理大臣之ヲ公告スヘキモノトシ皇族ニ非サル者国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ヲ行フ当日廃庁シ国民喪ヲ服スヘク其ノ喪儀ノ式ハ内閣総理大臣〔天皇の〕勅裁ヲ経テ之ヲ定ムヘキモノトス
以上述ヘタル所カ両案〔皇室喪儀令案(これの説明部分は本記事では省略されています。)及び国葬令〕ノ大要ナリ之ヲ要スルニ皇室ノ喪儀及国葬ハ倶ニ国家ノ式典ニシテ儀礼ヲ修メテ瞻望〔あおぎしたう。(『角川新字源』)〕ニ具ヘサルヘカラサルモノナリ本案皇室喪儀令及国葬令ノ2令ハ則チ之カ要義ヲ昭著スルモノニシテ洵ニ允当〔正しく道理にかなう。(『角川新字源』)〕ノ制法ナリト謂ハサルヘカラス今ヤ帝室ノ令制漸ク整頓シテ典章正ニ燦然タルニ方リ更ニ之ニ加フルニ皇室喪儀令ヲ以テシテ皇室喪儀ノ項目ヲ明徴ニスルハ蓋シ前来規程ノ足ラサルヲ補ヒテ皇室制度ノ完備ヲ図ラムトスルモノニ外ナラス又国葬令ヲ以テ皇室喪儀令ト相俟チテ国家凶礼ノ大綱ヲ昭明ナラシムルハ蓋シ国法ノ完璧ヲ期スルノ所以タルヘキコト言ヲ俟タサルナリ更ニ本案2令ノ条文ヲ通看スルニ孰レモ事ノ宜シキニ適シテ特ニ非議スヘキ点ヲ認メス仍テ審査委員会ニ於テハ本案ノ2件ハ倶ニ此ノ儘之ヲ可決セラレ然ルヘキ旨全会一致ヲ以テ議決シタリ
(イ)江木枢密顧問官vs.山川法制局長官
江木千之枢密顧問官が,お金に細かい質問をします。
35番(江木) 国葬令ニ付当局ニ一応質問シタキ事アリ国葬令第3条ニ依リ国家ニ偉勲アル者薨去又ハ死亡シタルトキ特旨ニ依リ国葬ヲ賜フ場合ニハ先ツ以テ其ノ勅書ヲ発セラルルヤ又ハ国葬ニ関スル費用ニ付帝国議会ノ協賛〔筆者註:大日本帝国憲法64条1項参照〕ヲ経タル後該勅書ヲ発セラルルコトト為ルヤ
山川端夫法制局長官はさらりとかわそうとしますが,江木枢密顧問官は,しつこい。
委員(山川) 国葬令ニ於テハ国葬ノ行ハルル場合ノ大綱ヲ示セルニ止リ愈〻其ノ実行セラルル場合ニ於テハ予算等ノ関係ヲ生スヘシ其ノ際ニハ一般ノ例ニ従ヒ夫々必要ナル手続ヲ尽シタル上ニテ実行セラルヘキナリ
35番(江木) 国葬ヲ行フ場合ニハ先ツ以テ帝国議会ニ其ノ予算ヲ提出シ協賛ヲ経タル上ニテ勅書ヲ発セラルルヤ其ノ辺ノ御答弁明瞭ナラス
委員(山川) 既定予算ニ項目ナキ事項ニ付テハ別ニ予算ヲ立テテ議会ノ協賛ヲ経サルヘカラス然レトモ緊急ノ場合ニハ予備費支出等ノ途アリ其ノ孰レカノ方法ニ依リ先ツ支出ノ途ヲ講セサルヘカラス
35番(江木) 然ラハ帝国議会開会ノ場合ニ於テハ先ツ以テ国葬費ノ予算ヲ提出シ其ノ協賛ヲ経タル後勅書ヲ発セラルルモノト了解シテ可ナルカ
委員(山川) 然リ
(3)国葬令3条による国葬の例
いやはや議会対策は大変そうだねと思われますが,その後国葬令3条に基づいて国葬を賜わった者の薨去が,帝国議会開会中に生じてしまうということはありませんでした。
1934年6月5日に国葬たる喪儀があった東郷平八郎は同年5月30日に薨去したもので,当時,帝国議会は閉会中でした(第65回通常議会と第66回臨時議会との間)。1940年12月5日に国葬たる喪儀があった西園寺公望についても同年11月24日の薨去と当該喪儀との間に帝国議会は開かれていません(第75回通常議会と第76回通常議会との間)。1943年4月18日の山本五十六戦死と同年6月5日の国葬たる喪儀との間も閉会中でした。(第81回通常議会と第82回臨時議会との間)。ただし,閑院宮載仁親王薨去の1945年5月20日とその国葬たる喪儀の同年6月18日との間には,同月9日に開会し,同月12日に閉会した第87回臨時議会がありましたが,載仁親王が午前4時10分に薨去したその日の午後4時30分には早くも「情報局より,親王薨去につき,特に国葬を賜う旨を仰せ出されたことが発表される。」という運びになっており,かつ,当初は同年5月28日に斂葬の儀までを終える予定でした(宮内庁『昭和天皇実録 第九』(東京書籍・2016年)671頁)。宮城までも焼失した5月25日夜から26日未明までの東京空襲で,日程が狂ってしまったものです(実録九682頁)。第87回帝国議会召集の詔書に係る上奏及び裁可は,6月2日のことでした(実録九687頁)。
(4)国費葬
ついお金の話になってしまうのは,天皇及び三后並びに直系皇嗣同妃及び摂政並びにその他の皇族にして国家に偉勲あるものの大喪儀ないしは喪儀を皇室限りの事務とはせずに,国葬として国家の事務とするのは,そもそも皇室費ではなく国費をもってその費用を負担することとするのがその眼目であったからでしょう。
美濃部達吉いわく,「皇室ニ関スル儀礼ノ中或ハ国ノ大典トシテ国家ニ依リテ行ハルルモノアリ,即位ノ礼,大嘗祭,大喪儀其ノ他ノ国葬ハ是ナリ。即位ノ礼及大嘗祭ハ皇室ノ最モ重要ナル儀礼ニシテ其ノ式ハ皇室令(〔明治〕42年皇室令1登極令)ノ定ムル所ナレドモ,同時ニ国家ノ大典ニ属スルガ故ニ,国ノ事務トシテ国費ヲ以テ挙行セラル。〔略〕国葬モ亦国ノ事務ニ属ス〔略〕。此等ノ外皇室ノ儀礼ハ総テ皇室ノ事務トシテ行ハル。」と(美濃部達吉『改訂憲法撮要』(有斐閣・1946年)217-218頁。下線は筆者によるもの)。
1926年9月13日付けで一木喜徳郎宮内大臣から若槻内閣総理大臣宛てに出された照会書別冊の国葬令案の説明(JACAR: A14100022300)にも「恭テ按スルニ天皇及三后ノ喪儀ハ国家ノ凶礼ニシテ四海遏密〔音曲停止。鳴りものをやめて静かにする。(『角川新字源』)〕挙テ喪ヲ服シ悼ヲ表スル所則チ国資ヲ以テ其ノ葬時ノ用ニ供スルハ亦我国体ニ於テ当然ノコトニ属ス皇嗣皇嗣妃及摂政ノ喪儀ハ身位ト重任トニ視テ宜ク国葬トスヘキナリ又近例国家ニ偉勲アル者ノ死亡ニ当リ之ニ国葬ヲ賜フコトアルハ蓋其ノ偉蹟ヲ追想シ之ヲ表章スルニ国家ノ凶礼ヲ以テスルノ特典タルニ外ナラス既ニ皇室服喪令ノ制定アリ今又皇室喪儀令ノ制定セラルルニ当リテハ国葬ノ定義ヲ明ニシ兼テ其ノ条規ヲ昭著スル所ナカルヘカラス是レ本令ノ制定ヲ必要トスル所以ナリ」とあります(下線は筆者によるもの)。
(5)国葬令(勅令)と皇室喪儀令及び皇室服喪令(皇室令)と
国葬令と皇室喪儀令及び皇室服喪令(明治42年皇室令第12号)とには密接な関係があるわけです。実は,法令番号と第1条との間に「国葬令」との題名が記載されていないので,厳密には,「国葬令」は,大正15年勅令第324号の題名ではなく上諭の字句から採った件名にすぎず,その理由をどう理解すべきか悩んでいたのですが,単なる立法ミスによる欠落でなければ,皇室喪儀令及び皇室服喪令の附属法令として,ことごとしく題名を付けることは遠慮した,ということでしょうか。
皇室喪儀令及び皇室服喪令は皇室令ですが,国葬令は勅令です。これは,経費の国庫負担を定める法形式として皇室令はふさわしくないからでしょう。共に天皇が総覧する皇室の大権と国家統治の大権との相違点の一つとして,美濃部達吉いわく,「其ノ経費ノ負担ヲ異ニス。国ノ事務ニ要スル経費ハ国庫ノ負担ニ属スルニ反シテ,皇室ノ事務ニ要スル経費ハ皇室費ノ負担ニ属ス。皇室ノ財産及皇室ノ会計ハ国ノ財産及国ノ会計トハ全ク分離セラレ,国庫ハ唯毎年定額ノ皇室経費ヲ支出スル義務ヲ負フコトニ於テ之ト関係アルニ止マリ,其ノ以外ニ於テハ皇室ノ財産及皇室ノ会計ノ管理ハ一ニ皇室ノ自治ニ属シ,国ノ機関ハ之ニ関与スルコトナク,而シテ皇室事務ニ要スル一切ノ経費ハ皇室費ヲ以テ支弁セラル。」と(美濃部215頁)。国葬令の副署者には,ちゃんと大蔵大臣が含まれています。
なお,1909年の皇室服喪令16条2項には「親王親王妃内親王王王妃女王国葬ノ場合ニ於テハ喪儀ヲ行フ当日臣民喪ヲ服ス」と規定されており(下線は筆者によるもの),国葬の存在を既に前提としていました。ちなみに,皇室令をもって臣民を規律し得ることは,「或ハ〔皇室令が〕単ニ皇室ニ関スルニ止マラズ同時ニ国家及国民ニ関スルモノナルコトアリ,此ノ場合ニ於テハ皇室令ハ皇室ノ制定法タルト共ニ又国法タル効力ヲ有ス。」というように認められており(美濃部104頁),それが可能である理由は大日本帝国憲法に求められていて,「憲法ノ趣意トスル所ハ皇室制度ニ関スル立法権ハ国法タル性質ヲ有スルモノニ付テモ之ヲ皇室自ラ定ムル所ニ任ジ議会ハ之ニ関与セズト謂フニ在」るからであるとされていました(美濃部102頁)。
(6)国葬の定義を明らかにする必要性
なお,一木宮相照会書にいう「国葬ノ定義ヲ明ニシ」に関しては,帝室制度調査局総裁である伊藤博文の明治天皇に対する1906年6月13日付け上奏(JACAR: A10110733300)において「而シテ近例国家ニ偉勲アル者死亡ノ場合ニ当リ之ニ国葬ヲ賜フコトアルハ蓋其ノ偉蹟ヲ追想シ之ヲ表章スルニ国家ノ凶礼ヲ以テスルノ特典タルニ外ナラス然ルニ其ノ本旨動モスレハ明瞭ヲ缺キ宛モ国葬即チ賜葬ノ別名タルカ如ク従テ其ノ制モ亦定準ナキノ観アリ殊ニ皇室喪儀令及皇室服喪令ノ制定セラルルニ当リテハ国葬ノ定義ヲ明ニシ兼テ其ノ条規ヲ昭著スルモノナクハ両令ノ運用ヲ円滑ニシ憲章ノ完備ヲ期スルコト能ハス是レ本令ノ制定ヲ必要トスル所以ナリ」とありました(下線は筆者によるもの)。1906年の当時,天皇が国葬を賜う(あるいは天皇に葬式をおねだりする)基準が弛緩していると感じられていたわけです。
(7)逐条解説
一木宮相照会書別冊の国葬令案には,次のような逐条解説が付いていました。
ア 第1条及び第2条
第1条及び第2条に関して。
恭テ按スルニ此ノ両条ハ大喪儀並皇嗣皇嗣妃及摂政タル親王内親王王女王ノ喪儀ノ国葬タルコトヲ昭章ス而シテ摂政タル親王内親王王女王ノ喪儀ヲ国葬トシタルハ重ヲ摂政ニ繋クルカ故ニ摂政ヲ罷メタル後ニ及ハサルコト論ヲ竢タス皇太子皇太孫7歳未満ノ殤〔わかじに。(『角川新字源』)〕ナルトキ其ノ喪儀ヲ国葬トナササルハ皇室服喪令〔7条・16条1項〕ノ主旨ニ従フナリ
イ 第3条
第3条に関して。
恭テ按スルニ皇族及臣僚ノ国家ニ偉勲アル者ノ喪儀ヲ特ニ国家ノ凶礼トシ賜フニ国葬ヲ以テセラルルコトアルハ維新ノ後其ノ事例一再ニ止マラス本条第1項ハ即チ之ヲ明文ニ著シ以テ其ノ異常ノ特典ナルコトヲ明ニス而シテ国葬ヲ賜フ場合ニハ従来ノ例勅令ヲ以テ之ヲ公布スト雖既ニ本令ノ制定アルニ於テハ其ノ特旨ハ勅書ノ形式ヲ以テシ内閣総理大臣之ヲ公告シテ知悉セシムルノ途ニ依ルヘキヲ至当トシ第2項ヲ置ク
(ア)官尊民卑
「皇族及臣僚」ですから,一般人民が国葬を賜わるということは想定されていなかったようです。「国家ニ」偉勲をもたらすには,それなりの地位が必要であるということです。官尊民卑ということになるのでしょう。
(イ)「偉勲」の大きさ
「偉勲」はどれくらいの大きさでなければならないかについては,明治維新後に前例があること及び「異常ノ特典」であることが記されているばかりです。しかし,国葬たる喪儀となれば,天皇は別格として,三后並びに直系皇嗣同妃及び摂政の大喪儀ないしは喪儀と同格ということになることが国葬令1条及び2条との対比で分かりますから,この辺が判断の一つの目安となるのでしょう。
(ウ)勅書
勅書は,公式令において「文書ニ由リ発スル勅旨ニシテ宣誥セサルモノハ別段ノ形式ニ依ルモノヲ除クノ外勅書ヲ以テス」るものとされており(同令2条1項),天皇が親書し,御璽が鈐され,宮内大臣又は内閣総理大臣が副署しました(同条2項)。ただし,国葬を賜うの勅書に副署をするのは,宮内大臣ではなく,内閣総理大臣でした(昭和9年5月30日内閣総理大臣決定閣甲第33号「国葬令第3条第2項ノ手続」(JACAR: A14100412900))。国葬は国家の事務であって「皇室ノ事務」ではないことが示されたわけです。
(エ)国葬を賜う勅令の前例:山縣,貞愛親王,松方及び李王坧の場合
国葬を賜う勅令(「・・・薨去ニ付キ特ニ国葬ヲ行フ」との文言になります。)の前例としては,皇太子裕仁親王の摂政就任後には,
1922年2月1日薨去の山縣有朋の国葬について大正11年2月3日勅令第18号(同3日,山縣の国葬費8万円に係る大正10年度歳入歳出総予算追加(当時は第45回通常議会開会中)と共に裁可された上で,共に公布されています(予算の公布については公式令9条参照)。当該予算追加が帝国議会によって協賛されたその日(第45回帝国議会衆議院議事速記録第10号150頁,同議会貴族院議事速記録第9号159頁)のうちのことでした。),
1923年2月3日薨去(公表薨去日は同月4日(宮内庁『昭和天皇実録 第三』(東京書籍・2015年)790頁))の伏見宮貞愛親王の国葬について大正12年2月6日勅令第35号(同6日,貞愛親王の国葬費10万円に係る大正11年度歳入歳出総予算追加(当時は第46回通常議会開会中)と共に裁可された上で,共に公布されています。),
1924年7月2日薨去の松方正義の国葬について大正13年7月5日勅令第155号(同5日,松方の国葬費4万円に係る大正13年度歳入歳出総予算追加(当時は第49回特別議会開会中)と共に裁可された上で,共に公布されています。摂政は同月4日裁可の署名だけはしていたところ,同月5日に議会に提出された予算追加案が同日中に協賛されるのを待って日付が入ったものでしょう(実録四100頁参照)。)及び
1926年4月26日薨去の李王坧の国葬について大正15年4月27日勅令第87号(議会閉会中)が制定公布されています。
日韓併合以後の王公族は,皇族に等しい礼遇を受けることになっていました。王公家軌範(大正15年12月1日皇室令第17号)184条は王公族の喪儀が国葬である場合を想定していますが,当該国葬は,国葬令3条1項に基づき天皇から賜わるものだったのでしょう。
(オ)栄典授与大権
なお,1934年の齋藤實内閣総理大臣の決定書(昭和9年閣甲第33号)附属の想定問答を見ると,国葬を賜うことは,天皇の栄典授与大権に係る大日本帝国憲法15条の「其ノ他ノ栄典ヲ授与ス」中に含まれるものとそこにおいて解されていました(前田修輔「戦後日本の公葬――国葬の変容を中心として――」史学雑誌130号(2021年)7号61頁も「旧憲法の栄典の一種たる国葬」といいます。)。(そうであるとすると,勅書には国務大臣たる内閣総理大臣の副署がありますから,他の栄典授与大権の行使が国務大臣の副署・輔弼を受けないものとして(公式令16条から21条まで参照)非難されていたところ(美濃部199頁参照)に対し,その例外をなすことになるようです。)
ウ 第4条
第4条に関して。
恭テ按スルニ国家ニ偉勲アル者ニ国葬ヲ賜ヒタル場合ニ於テ其ノ喪儀ヲ行フ当日廃朝シ国民喪ヲ服スルコトヲ規定スルハ之ヲ重シテ国家ノ凶礼トシタルノ本旨ニ副ハシムル所以ナリ皇族国葬ノ場合ニ於テ其ノ喪儀ヲ行フ当日臣民喪ヲ服スルハ皇室服喪令〔16条〕ニ廃朝ノコトハ皇室喪儀令〔13条・15条〕ニ明条アリ
廃朝とは,「昔,喪や日食時などに臨時に,天子が朝廷の政務につかないこと」です(『岩波国語辞典第四版』)。
しかし,1922年2月9日,国葬たる山縣有朋喪儀の日における摂政宮裕仁親王の動静は次のとおり。
9日 木曜日 午後,武彦王・恒憲王と御一緒にテニスをされる。
(実録三579頁)
無論,テニスは摂政の政務ではあり得ません。
🎾
故元帥海軍大将侯爵東郷平八郎国葬当日通常服又ハ之ニ相当スル服以上ノ服ヲ著用スル者ノ喪章ハ他ニ別段ノ定アル場合ノ外其ノ服ノ様式ニ従ヒ左腕ニ黒布ヲ纏ヒ又ハ左胸ニ蝶形結ノ黒布ヲ附ス
通常服より悪い服を着ている(ないしはそもそも着る服が無い)者であれば,喪章を付けるまでもない,ということでもあったようです。
なお,皇室服喪令では「臣民」が喪を服しますが(同令15条・16条),国葬令4条では「国民」が喪を服することになっています。天皇・皇族ならぬ者に対しては,臣民としてへりくだるには及ばないということでしょう。
皇室における服喪については,1951年5月の母・節子皇太后(貞明皇后)崩御に当たっての昭和天皇の服喪について,「御服喪期間中は,宮中祭祀においては御拝礼・御代拝のことなく,掌典職限りにて行われる。また勅祭社への勅使参向,節折の儀・大祓の儀,及び翌年1月4日の奏事始は行われないこととされる。恒例行事についても,この年歳末の祝詞言上,翌年の元日拝賀及び参賀,1月の講書始・歌会始,3月6日の皇后誕生日拝賀,4月29日の天皇誕生日拝賀及び参賀はお取り止めになる。」との記述があります(宮内庁『昭和天皇実録 第十一』(東京書籍・2017年)220頁)。
エ 第5条
第5条に関して。
恭テ按スルニ国葬ノ制従来一定スルモノナシ其ノ皇族ニ係ルモノハ皇室喪儀令ノ定ムル所ニ依ルト雖臣僚国葬ノ場合ニ於ケル喪儀ノ式ハ内閣総理大臣時ニ臨ミ勅裁ヲ経テ之ヲ定ムヘキモノトシタリ
(8)身分上の国葬対象者以外の者に係る国葬の5要素
(中)日本国憲法下の国葬令:
http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079865197.html
(下)吉田茂の国葬儀の前例及びまとめ:
http://donttreadonme.blog.jp/archives/1079865200.html
コメント