1 南米のサッカー名門国からキック・オフ

 今年(2022年)もまたサッカー・ワールド・カップ大会が開催されます。もう22回目で開催地はカタールになります。頑張れニッポン!

(早いもので,我が国で「感動」のサッカー・ワールド・カップ大会が開催されてから,既に20年です。http://donttreadonme.blog.jp/archives/1071112369.html)。

 このサッカー・ワールド・カップの最初の大会(1930年)の開催地となり,同国人のチームが当該第1回大会及び1950年の第4回大会で優勝した栄光に包まれた国はどこかといえば,南米大陸のウルグアイ東方共和国(República Oriental del Uruguay)です。今年の大会においては,我が邦人のチームもその栄光にあやかりたいものです。

 しかし,あやかるといっても,日本国とウルグアイ東方共和国との間に共通性・類似性って余りないのではないか,そもそも両国は,地球🌏上において表裏正反対の位置にあるんだぜ,とは大方の御意見でしょう。これに対して,いや,両国は実は同じなのだ,と力技で強弁しようとするのが本稿の目的です。

 

2 ウルグアイ東方共和国の国号の謎

 さて,ウルグアイ東方共和国(República Oriental del Uruguay. 英語ではOriental Republic of Uruguay)という国号の謎から本稿は始まります。なぜ「東方」という形容詞が入っているのか,不思議ですよね。

 この東方は何に対する東方なのかというと,どうも独立前の同国の場所にあったBanda Orientalという州名に由来するそうです。ウルグアイ東方共和国の西部国境線はウルグアイ川という同名の川で,スペイン領時代のBanda Orientalという州名は,そのまま(ウルグアイ川の)東方地という意味であったようです。現在「ウルグアイ」は国の名たる固有名詞でもありますが,独立後最初の1830年憲法1条にあるEstado Oriental del Uruguayとの国号は,国(estado: 英語の“state”)であってウルグアイ川の東方にあるものというように,普通名詞であるEstado(国)に地理的限定修飾句(Oriental del Uruguay)が付いた普通名詞的国号として印象されていたもののようにも思われます。当該憲法の前文は,神への言及に続いて,“Nosotros, los Representantes nombrados por los Pueblos situados a la parte Oriental del Río Uruguay…”(筆者のあやしい翻訳では,“We, the Representatives named for the Peoples situated in the Oriental part of the River Uruguay…”又は「我らウルグアイ川(Río)の東部(parte Oriental)所在の諸人民のために任命された代表者らは・・・」)と始まっているからです。

 ウルグアイ川の西は,アルゼンチン共和国です。スペイン領ラ・プラタ川副王領時代は,ウルグアイ川の東も西も同一の副王領内にあったところです。スペインからの独立後,後のウルグアイ東方共和国の地は一時ブラジル治下にありましたが,戦争を経て,ブラジルとアルゼンチンとの間の1828年のモンテビデオ条約によってウルグアイ(川)東方国の独立という運びになっています。すなわち,ウルグアイ東方共和国における「東方」の語は,アルゼンチン共和国から見ての「東方」という意味になりますところ,上記の歴史に鑑みると,同国とのつながりを示唆するようでもあり,断絶を強調するようでもあります。

 

3 普通名詞的国号

 ところで,普通名詞的国号といわれると,固有名詞抜きの国号というものがあるのか,ということが問題になります。実は,それは,あります。例えば,今は亡きソヴィエト社会主義共和国連邦が普通名詞国号の国です(19911226年に消滅宣言。こちらももう崩壊後30年たってしまっているのですね。)。「ソヴィエト」と日本語訳されている部分は,ロシア語🐻では形容詞Советских(複数生格形(ドイツ語文法ならば複数2格というところです。))であって,その元の名詞であるсоветは,会議,協議会,評議会,理事会等の意味の普通名詞です。会議式の社会主義共和国の連邦☭ということですが,何だかもっさりしています。更に社会主義☭仲間では,現在その首都の北京で冬季オリンピック競技大会⛷⛸🏂🥌が開催(202224日から同月20日まで)されている中華人民共和国🐼も,「中華」を固有名詞(China)又はそれに基づく形容詞(Chinese)と解さなければ(ただし,同国政府はどうもそう解するようです(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1077950740.html)。なお,「中華」をあえて非固有名詞的に英語訳すると,“center of civilization”又は“most civilized”でしょう。),同様の普通名詞型普遍国家です(「会議式」は,「中華」よりも謙遜ですね。)。

おフランスの国号も,フランス式なることを意味する形容詞によって固有名詞風の傾きが加えられていますが,普遍国家を志向するものでしょう。La République françaiseであって,la République de Franceではありません。後者であれば,フランスという国があってそれが共和政体であるということでしょう。しかし,前者は,共和国があって,それがフランス式であるということでしょう(la République à la française)。アウグストゥスのprincipatus以来力を失った古代ローマ時代における共和政・共和国の正統の衣鉢を継ぐのは我々であって,そもそもres publica(共和国,国家,国事,政務,公事)は,à la romaineよりも,à la françaiseに組織し,運営するのが正しいのだ,ということでしょう(他の共和国を称する国々との区別のための必要もあるのでしょうが。)。フランスの大統領は,Président de Franceではなく,Président de la Républiqueと呼ばれます。(更にla République françaiseの普遍志向を示す例としては,その1793年憲法4条の外国人参政権条項があります。)Die Bundesrepublik Deutschlandは,ドイツという国があって,それは連邦共和政体を採っているということでしょう。これに対して,1990103日に消滅したdie Deutsche Demokratische Republikは,ドイツ風の民主主義共和国ということですね。ドイツという国であるよりも,人類の普遍的理想の実現に向かって進む民主主義共和国(社会主義国☭)であることの方が重要だったのでしょう。

 さて,いよいよ我が国の国号です。

 

4 近代における我が国の新旧国号:日本国及び大日本帝国

 

(1)日本国

 我が国の憲法は「日本国憲法」ですから,我が国の国号は,日本国なのでしょう。日本「国」が国号であって,単なる日本は国号ではないことになります。実は日本語における「日本」は形容詞なのでしょう。しかして,我が国の憲法の英語名はConstitution of Japan”です。そうであれば英語のJapan”は,国である旨の観念をそこに含み込んでいる名詞であるようです。「日本」に対応する英語の単語は,形容詞たるJapanese”でしょうか。

 

(2)大日本帝国

 

ア 明治天皇による勅定及び昭和天皇による変更

 現行憲法に先行する我が国の憲法の題名は「大日本帝国憲法」でした。したがって,19461029日の日本国憲法裁可によって(2023116日訂正:昭和天皇による日本国憲法裁可の日を194610「29日」とする例は,衆議院憲法審査会事務局「衆憲資第90号「日本国憲法の制定過程」に関する資料」(2016118にもありますが,宮内庁『昭和天皇実録第十』(東京書籍・201721919461029日条をよく読むと,その日にされたのは枢密院における「帝国議会において修正を加へた帝国憲法改正案」の全会一致可決までであって,天皇の裁可・署名がされたのは,翌同月30日(水)143分のことでした。),昭和天皇は,祖父・明治大帝が勅定し,1889211日に発布せられた大日本帝国という我が国号を,日本国に改めてしまったことになります。

 「大」が失われては気宇がちぢこまっていけない,例えば我が隣国はその国号に堂々「大」を冠し,しかしてその国民は,今や我々いじけた日本国民よりも豊かになっているではないか(購買力平価で一人当たり国内総生産を比較した場合),などと慷慨😡するのは,大日本帝国憲法案の起草者の一人である井上毅に言わせれば,少々方向違いかもしれません。

 

イ 「大」日本帝国

 実は大日本帝国憲法1条の文言(「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」)は,枢密院に諮詢された案の段階では,「大」抜きの「日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」との表現を採っていたのでした。

 これについては,1888618日午後の枢密院会議において,それまでに一通り審議が終った明治皇室典範1条の文言(「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」)との横並び論から,寺島宗則が問題視します。

 

  31番(寺島) 皇室典範ニハ大日本(○○○)トア(ママ)ヲ此憲法ニハ只日本(○○)トノミアリ故ニ此憲法ニモ()ノ字ヲ置キ憲法ト皇室典範トノ文体ヲ一様ナラシメン(こと)ヲ望ム

 

 当該要求に,森有礼,大木喬任及び土方久元が賛同します。

 これに対する井上毅の反論及びその後の展開は次のとおり。

 

  番外(井上) 皇室典範ニハ大日本ト書ケ𪜈(ども)憲法ハ内外ノ関係モアレハ大ノ字ヲ書クコト不可ナルカ如シ若シ憲法ト皇室典範ト一様ノ文字ヲ要スルモノナレハ寧ロ叡旨ヲ受テ典範ニアル()ノ字ヲ刪リ憲法ト一様ニセンコトヲ望ム英国ニ於テ大英国(グレイト,ブリタン)ト云フ所以ハ仏国ニアル「ブリタン」ト区別スルノ意ナリ又大清,大朝鮮ト云フモノハ大ノ字ヲ国名ノ上ニ冠シテ自ラ尊大ニスルノ嫌ヒアリ寧ロ大ノ字ヲ刪リ単ニ日本ト称スルコト穏当ナラン

 

  14番(森) 大ノ字ヲ置クハ自ラ誇大ニスルノ嫌アルヤ否ニ係ハラス典範ト憲法ト国号ヲ異ニスルハ目立ツモノナレハ之ヲ刪ルコト至当ナラン

 

  17番(吉田〔清成〕) 典範ニハ已ニ大日本トアリ又此憲法ノ目録ニモ亦大日本トアリ故ニ原案者ハ勿論同一ニスルノ意ナラン

 

  議長〔伊藤博文〕 此事ハ別ニ各員ノ表決ヲ取ラスシテ()ノ字ヲ加ヘテ可ナラン故ニ書記官ニ命シ()ノ字ヲ加ヘ本案ニ

 

大日本帝国の「大」の字は,議事の紛糾を恐れた伊藤枢密院議長がその場において職権で加えることにしてしまったもののようで,領土・人口・GDPをこれから大きくしようというような深謀遠慮があって付けられたものではないようです。

 

ウ 大日本「国」皇位 vs. 大日本「帝国」

ところが奇妙なことがあります。当時の関係者は憲法も皇室典範も「大」日本でそろったことに満足してしまい,明治皇室典範1条では「大日本国皇位」と「国」であるのに対し,大日本帝国憲法1条では「大日本帝国」と「帝国」であるという,残された相違については問題にしていないのです。

この点については,佐々木惣一が疑問視しており,後に『明治憲法成立史』(有斐閣・1960-1962年)を出版することになる稲田正次東京教育大学教授に問い合わせたりしたようですが,結論は「旧皇室典範と大日本帝国憲法とが我国を指示するのに,別異の語を用ゐてゐるの理由は,依然として明かでない」ということになっています(佐々木惣一「わが国号の考究」『憲法学論文選一』(有斐閣・1956年)47頁)。佐々木は,明治皇室典範1条で「大日本帝国皇位といふとせば,帝と皇との両語の位置に基き,其の語感調はざるものがあるとして,大日本国皇位としたのではないか」と推測しつつ,「稲田教授も私と同様の意見の如くである。」と述べています(佐々木49頁。稲田教授の佐々木への書簡には「削除の理由は御説の通り帝と皇と2字あるは聊か重複の感もあり語調宜しからざるが為と推察被致候(いたされそうろう)或は起草者としては大日本国は大日本帝国の略称位に軽く考へ典範憲法間別に国号の不一致無之(これなき)ものと単純に思ひ居たるものと被存候(ぞんぜられそうろう)」とあったそうです。)。しかし,語感の問題で片付けてしまってよいものでしょうか。

 ということで,起草者らの意図を何とか探るべく,伊東巳代治による大日本帝国憲法及び明治皇室典範の英語訳に当ってみると,大日本帝国はthe Empire of Japanであり,大日本国皇位はthe Imperial Throne of Japanであることが分かります。確かに,「大日本帝国皇位」=“the Imperial Throne of the Empire of Japan”では長過ぎますし,語調というよりも語義の点で,「“The Imperial Throne of Japan”といっておけば,Imperial ThroneのあるJapanEmpireであることは,当然分かるじゃないか」ということになります。発生的にも,具体的な人(king)ないしはその地位(royal throne)が先であって,かつ,主であり,その働きに応じて制度(king-dom)は後からついて来るものでしょう。The King of Englandがいて,それからthe Kingdom of Englandがあるのであり,the King of the Kingdom of Englandでは何やら語義が内部で循環した称号になってしまいます。なお,大日本帝国憲法1条によって当時の我が国の正式名称が定められたことに関し,そこでの帝国=Empireの意味については,「外交上の用語としては,それ等の西洋語に於いての総ての差異〔Emperor, King, Grand Duke, etc.〕に拘らず,日本語に於いては,苟も一国の君主である限りは,等しく「皇帝」と称する慣例である。若し此の外交上の用語の慣例に従へば,帝国とは単に君主国といふと同意語であつて毫も大国の意を包含しないものである。わが国の公の名称を大日本帝国といふのも,亦その意に解すべきもので,敢て大国であることを誇称する意味を含むものではなく,唯天皇の統治の下に属する国であること,言ひ換ふればその君主国であることを示すだけの意味を有つものと解するのが正当であらう。」と説明されています(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)79頁)。

The Empire of Japan(大日本帝国)は,日本国(Japan)という国であって君主政体をとっているものを意味することになります。なおここでは,大日本=形容詞,帝国=名詞であるとして,ヨーロッパ語で“the Japanese Empire”となるのだと解してはならないことに注意しなければなりません。“The Japanese Empire”ということになれば,普遍的なものたるthe Empire(原型は古代ローマ帝国)に日本風(à la japonaise)との形容詞が付いただけのものとなり,その版図は必ずしもポツダム宣言第8項流に本州,北海道,九州及び四国並びに附属の諸小島に限局される必要のないものとなるのだと解し得ることになり,なかなか剣呑です。

The Imperial Throne of Japanは素直に,日本国の皇位ということになります。

「大日本帝国皇位(the Imperial Throne of the Empire of Japan)」が不可とされた理由は,またうがって考えれば,断頭台の露と消えたルイ16世と,痛風等に悩みながらも王位にあって天寿を全うしたその弟であるルイ18世との運命の違いに求められ得るかもしれません。フランスの王(Roi de France)の称号を保持していたルイ16世は,1791年憲法により,フランス人の王(Roi des Français)とされています。しかしてその後の経緯は周知のとおりです(1791年憲法は「王の身体は不可侵かつ神聖である。」とも規定していましたが(大日本帝国憲法3条参照),フランス人の憲法規範意識は当てにはなりませんでした。)。他方,ルイ18世は,王政復古後,伝統的なフランスの王(Roi de France)として統治しました。統治の当の客体に支えられる王権は危うく,統治の正統性は抽象的な国体に求められるべしということにはならないでしょうか。しかして,大日本帝国憲法1条にいう帝国は,突き詰めれば,天皇にとっての統治の客体たる領土内の臣民でした。『憲法義解』の第1条解説は天皇の大日本帝国統治につきいわく,「統治は大位に居り,大権を統べて国土及臣民を治むるなり。」と。更に美濃部達吉はいわく,「天皇が帝国を統治したまふと言へば,日本の一切の領土が天皇の統治の下に属することを意味し,更に正確に言へば,その土地の上に在る一切の人民が天皇の統治したまふところたることを意味する。統治とは領有と異なり,土地を所有することを意味するのではなく,土地を活動の舞台としてその土地に住む人々を統括し支配することの意である。」と(美濃部76頁)。“The Imperial Throne of the Japanese country and subjects”では,地方人民主権政体の国の元首のごとし,となります。

 

エ 「日本帝国」使用の勅許

しかし,以上の屁理屈を吹き飛ばすような表現が,明治天皇によって明治皇室典範に付された上諭にあります。いわく,「天祐ヲ享有シタル我カ日本帝国ノ宝祚ハ万世一系歴代継承シテ以テ朕カ身ニ至ル」云々。何と「日本帝国ノ宝祚」です。宝祚とは,天子の位の意味です。

この上諭の起草に井上毅が関与していたのならば,「大」日本帝国ではなく日本帝国であることは,「大」不要論者である井上による,寺島,大木,土方,吉田及び伊藤に対する当てつけかもしれません。しかし,当てつけ以前に,同一の明治天皇が作成する文書間での表現の不統一はいかがなものでしょうか。うっかりすると,とんでもない不敬事件になりそうです(とはいえ,伊藤博文名義の『憲法義解』の第1条解説文は,「我が日本帝国は一系の皇統と相依て終始し」云々といい,「大日本帝国」の語を使用していません。伊藤は「大」を付さぬことを認容していたのでしょう。)。しかしとにかく,いろいろ考えるに,この辺についての調和的解釈は,国家の法たる大日本帝国憲法と皇室の家法たる明治皇室典範とはその性質及び適用対象が全く異なるのだ,という理論(井上毅の理論ですが,後に公式令(明治40年勅令第6号)の制定によって破られます。)によるべきもののようでもあります。つまり,臣民並びに外国及び外国人に対するところの(したがって外向きかつ正式のものである)我が国の国号は憲法の定める大日本帝国である一方,身内の皇族を対象とする皇室の家法たる明治皇室典範及びその上諭においては,国家の法によるその縛りに盲従するには及ばないというわけです。「大」日本帝国といわなかったのは,臣民らとは違って,皇室内ではやたらと誇大表現は使わない,ということになるのでしょう。

明治皇室典範1条の「大日本国皇位」にいう「大日本」は,瓊瓊杵尊が降臨し,ないしは神武天皇がそこにおいて即位すべき対象であった(したがって帝国ではまだない)「蛍火(ほたるびなす)(ひかる)神及蠅声(さばへなす)(あしき)神」を「(さはに)有」し,また「草木」が「(みな)(よく)言語(ものいふこと)」ある葦原(あしはらの)中国(なかつくに)(『日本書紀』巻第二神代下)をもその対象に含み得る,皇室が原始的に有する我が国の統治権の根源に遡っての表現でしょうか。他方,上諭における「日本帝国ノ宝祚」は,神武天皇以来の「万世一系歴代継承」してきた歴史的な皇位を指すもので,その間の我が国は確かに帝国であったわけです。

なお,明治皇室典範上諭の前記部分の伊東による英語訳文は,“The Imperial Throne of Japan, enjoying the Grace of Heaven and everlasting from ages eternal in an unbroken line of succession, has been transmitted to Us through successive reigns.”です。英語では,大日本国皇位も日本帝国ノ宝祚も,同じ“the Imperial Throne of Japan”なのでした。

 

オ 下関条約における用法

1895年の下関条約においては,明治天皇は「大日本国皇帝」,光緒帝は「大清国皇帝」と表現され,本文では「日本国」及び「清国」の語が用いられ,記名調印者の肩書表記は「大日本帝国全権辨理大臣」及び「大清帝国欽差全権大臣」となっていました。皇帝(天皇)の帝国であって,大臣は当該帝国に属するものの,帝国の皇帝(天皇)ではないわけです。

 大と帝国との間の,日本ないしは日本国の語源探究が残っています。

 

5 「日本」の由来

 

(1)「日本」国の国号採用の時期

 まず,日本国の国号が採用された時期が問題となります。

 

ア 天智朝(670年)説

ひとまずは,天智天皇によって670年(唐の咸亨元年)に採用されたものと考えるべきでしょうか。

 

ところでこの〔668年に大津で即位式を挙げた天智天皇の制定に係る〕『近江令』で,「日本」という国号がはじめて採用されたものらしい。唐は663年に百済の平定を完了したあと,668年,ちょうど天智天皇の即位の年に,こんどは平壌城を攻め落とし,高句麗国を滅ぼしたのだったが,唐の記録によると,翌々670年の陰暦三月,倭国王が使を遣わしてきて,高句麗の平定を賀した,という。だからこの遣唐使が国を出た時には,国号はまだ倭国だったのである。

ところが朝鮮半島の新羅国の記録では,この同じ670年の年末,陰暦十二月に「倭国が号を日本と更めた。自ら言うところでは,日の出る所に近いので,もって名としたという」と伝えられている。これはその書きぶりから見て,この時に日本国の使者が到着して通告したことのようだから,この遣新羅使が国を出た時には,国号はすでに日本国に変わっていたことになる。だから日本という新しい国号が採用されたのは670年か,早くても669年の後半でなければならない。

  (岡田英弘『倭国』(中公新書・1977年)151-152頁)

 

 咸亨元年の倭の使いに関しては『新唐書』巻二百二十列伝第百四十五東夷に「日本,古倭奴也。〔中略〕咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,悪倭名,更号日本。使者自言,国近日所出,以為名。或云日本乃小国,為倭所并,故冒其号。使者不以情,故疑焉。又妄誇其国都方数千里,南,西尽海,東,北限大山,其外即毛人云。〔後略〕」とあるところです。当該咸亨元年の遣唐使の発遣の時期については,『日本書紀』巻二十七天智天皇八年条(翌天智天皇九年が唐の咸亨元年です。なお,天智天皇の即位年は天智天皇七年です。)に「是年,遣小錦中(せうきむちう)河内(かふちの)(あたひ)(くぢら)等,使於大唐。」とあります。

670年(早くとも669年後半)説は,〔(いにしえ)の倭が〕高〔句〕麗を平らげたことを賀する遣いを咸亨元年(670年)に遣わしたが,〔倭は〕その「後」に(やや)夏音を習って倭の名を(にく)み,更めて日本と号した,ということから,唐の高句麗平定を咸亨元年に唐で賀した遣唐使の発遣時には我が国の国号は依然として倭国であっただろうとするものでしょう。これに関して1339年成立の『神皇正統記』において北畠親房は,「唐書「高宗咸亨年中に倭国の使始てあらためて日本と号す。其国東にあり。日の出所に近きをいふ。」と載せたり。此事我国の古記にはたしかならず。」と書いています(岩佐正校注『神皇正統記』(岩波文庫・1975年)18頁)。北畠は,『新唐書』にある「後」の字を省いて読んだものでしょうか。

『新唐書』は,北宋の欧陽脩・宋祁らが勅命を受けて11世紀に作ったものです。

唐の咸亨元年に係る新羅の記録は,『三国史記』巻六新羅本紀第六文武王上の同王十年条に「十二月,〔中略〕倭国更号日本,自言近日所出以為名。」とあります。我が国の記録には,同年「秋九月辛未朔〔一日〕,遣阿曇連頰垂(あづみのむらじつらたり)於新羅。とあります(『日本書紀』巻二十七天智天皇九年条)。

『三国史記』は,高麗の金富軾らによって12世紀に作られたものです。

 

イ 孝徳朝説

しかし,日本国の国号は,もっと早く孝徳天皇の時代に採用されたものだとする説があります。

 

  「日本」という国号の成立は,推古朝より少しのちになるようだ。大化改新(645年)のころ,たぶん大化の年号とともに制定されたのではなかろうか。『隋書』には「日本」という語はみえず,『旧唐書』日本伝には,貞観二十二年(648・大化四)に日本から使いがきたことを記したあとに,

  「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるをもって,故に日本をもって名と為す」

 とある。つまり,隋への国書にみえる「日出処天子」の「日出処」をいいかえたものである。『新唐書』日本伝には,「後稍〻夏音を習い,倭の名を悪み,更めて日本と号す」とある。〔略〕

  それにしても,日本とはなかなか壮大な国名である。中国にまけまいとする新興国のもえあがるような気魄が,この国号にもあらわれている。

 (直木孝次郎『日本の歴史2 古代国家の成立』(中央公論者・1965年)112-113頁)

 

しかし,この説における『旧唐書』の読み方は少々不思議です。『旧唐書』巻百九十九上列伝第百四十九上東夷においては,倭国の伝と日本国の伝とが別に立てられているのです。倭国伝は「倭国者,古倭奴国也。」から始まって,その最後の部分が「貞観五年,遣使献方物。太宗矜其道遠,敕所司無令貢,又遣新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才,与王子争礼,不宣朝命而還。至二十二年,又附新羅奉表,以通起居。」です。貞観二十二年(大化四年)に新羅に附して表を奉り,もって起居を通じたのは,倭国であって,日本国ではないようです。なお,貞観二十二年には,前年(大化三年)に我が国の孝徳朝を訪問していた新羅の金春秋(後の同国太宗武烈王)が,唐に使いしています。

『旧唐書』では倭国伝の直後が日本国伝ですが,日本国伝の冒頭部分は次のとおりです。

 

日本国者,倭国之別種也。以其国在日辺,故以日本為名。或曰:倭国自悪其名不雅,改為日本。或云:日本旧小国,併倭国之地。其人入朝者,多自矜大,不以実対,故中国疑焉。又云:其国界東西南北各数千里,西界,南界咸至大海,東界,北界有大山為限,山外即毛人之国。

 

 飽くまでも日本国は倭国とは別種であるものとされています。

 『旧唐書』は,五代の後晉の劉昫が,勅命を奉じて10世紀に著したものです。

 

ウ 702年の対唐(周)披露

なお,日本国の国号が採用された時期に関しては,8世紀初めの周(唐もこの時国号を変えていました。)の長安二年(我が大宝二年。702年)に武則天に謁見した我が遣唐使が「日本国」から派遣されたものであることについては,争いはないようです(『旧唐書』東夷伝には長安三年とありますが,長安二年でよいようです(神野志隆光『「日本」 国号の由来と歴史』(講談社学術文庫・2016年)14頁)。)。『三国史記』による670年説をどう補強するかが問題になるのでしょう(同書は評判が余りよくないようです。いわく,「『三国史記』文武王咸亨元年に,倭国を改めて日本国と号したという記事は,『新唐書』によったものである。〔略〕『三国史記』は信ずるに足りず,そもそも,中世文献である『三国史記』を根拠とすることはできない。」と(神野志235-236頁)。)。

これに関しては,『旧唐書』も『新唐書』も共に,倭国が倭の名を嫌った結果その号を更めた,という話のほかに,「或いは云ふ」ということで,倭国と小国である日本国との並立から併合へという動き,すなわち争いがあった話を伝えていることが注目されます。しかも,その間のことについては,唐への我が国からの使者はどうもいい加減な受け答えをしていたようです(『旧唐書』では「実を以て対へず,故に中国は疑ふ。」,『新唐書』では「使者情を以てせず,故に疑ふ。」)。外国に積極的に話したくない我が国のこの頃の内紛といえば,咸亨三年(672年)の壬申の乱でしょうか。天智天皇の正統を継ぐ大津朝廷側が日本国という国号を採用していたとすれば,『新唐書』の「日本は(すなは)ち小国,倭の幷せる所と為る,故に其の号を冒す。」という記述が,壬申の乱及びそれ以後の経過をうまく表しているように思われます。天智天皇は日本国という新しい国号を採用したが,新国号派は少数にとどまり,その死後,守旧派(倭)を率いた大海人皇子に大津朝廷(日本国)は滅ぼされた,しかし結局,新国号の理念が天武=持統=文武朝において最終的には貫徹するに至った(冒其号),ということでしょうか。明治から大正にかけてもっとも強力であったとされる壬申の乱原因論である「天智天皇の急進主義にたいする大海人皇子の反動的内乱とするみかた」(直木334頁)には,確かに分かりやすいところがあります。

以上,日本国という国号の採用時期に関する議論はこれくらいにして,一応670年に天智天皇が採用したとの説を採り,国号変更の原因及び「日本国」採択の理由について考えましょう。

 

(2)「日本」国の国号採用の原因:白村江敗戦の衝撃説

日本国の国号採用670年説論者は,次のように説いています。

 

  ところで国号を変えるということは,国家の内容に重大な変化があったことを意味する。ことに7紀までの東アジアでは,中国で革命があり,新しい王朝が興ったとき以外には,国号の変更はほとんど例のないことだった。倭国という名前が雅でないので改めた,などという単純なことではなく,何か新しい名前が必要な理由があったものと考えるべきである。その理由は,やはり白村江の敗戦後の危機に対応するため,日本列島全体の住民を一つの国家に結集する必要だったのである。

 (岡田152頁)

 

 国号変更=易姓革命という発想の唐(周)人から「倭国から日本国への移り変わりに当たって,それでは易姓革命的争乱があったのだね。」と問われ,前記の倭国・日本国並立論的説明が出てきたのかもしれません。しかし,天智天皇が日本国の国号を採用したとする場合,国号変更の理由付けとしては,母である斉明天皇の崩御後に易姓革命的情況があったのだという説明も,確かに必要となるのでしょう。斉明天皇の崩御から天智天皇の即位まで,6年半ほどの空位=中大兄皇子称制期間がありますが,これはそのような情況のゆえだったのでしょうか。

 「倭国という名前が雅でないので」云々ということについては,『旧唐書』に「倭国は自ら其の名の雅ならざるを(にく)み」と,『新唐書』には前記のとおり「後稍夏音を習ひ,倭の名を悪み」とあります。

663年(天智天皇二年,唐の龍朔三年)の「白村江の敗戦後の危機」とはどのような状態か,といえば,次のごとし。

 

 〔前略〕倭国が百済と結んで,唐と新羅を敵に回し,しかも敗れたという事態は,日本列島が中国大陸・朝鮮半島から政治的に絶縁したことを意味した。当時の日本列島の住民にとって,事実上,中国と朝鮮だけが世界だったから,倭国は文字通り世界の孤児となってしまったのである。

  心理的な衝撃だけではない。経済上の問題はさらに大きかった。紀元前4世紀に燕人がはじめて朝鮮半島の南部の真番の地に達し,ここに拠点を築いてから一千年のあいだ,日本列島の開発は,まったく半島経由で流れこむ中国の人口と物資と技術に頼り続けた。さらにこの一千年間の後半期には,倭人のほうからも積極的に半島に進出し,新しい文明を吸収してきた。それが今や唐朝のもとで生まれ変わった中国の巨大な実力と敵対関係に立つことになったばかりではない。新たに半島を統一した新羅王国は,もちろん倭人と中国との接近を喜ばず,警戒していた。〔後略〕

 (岡田197-198頁)

 

 白村江の敗戦が我が国に与えた衝撃は,先の大戦のそれに匹敵するものであったとの評価が,昭和天皇によってされています。ポツダム宣言受諾から1年たった1946814日,「午後715分より,花蔭亭に元内閣総理大臣稔彦王・同鈴木貫太郎・前内閣総理大臣幣原喜重郎・内閣総理大臣吉田茂・内務大臣大村清一・大蔵大臣石橋湛山・農林大臣和田博雄・商工大臣星島二郎・厚生大臣河合良成・国務大臣膳桂之助経済安定本部総務長官・前宮内大臣石渡荘太郎・元皇后宮大夫広幡忠隆・宮内大臣松平慶民・侍従長大金益次郎をお召しになり,終戦1周年を迎えての座談会を催される。最初に天皇より日本の敗戦に関し,かつて白村江の戦いでの敗戦を機に改革が行われ,日本文化発展の転機となった例を挙げ,今後の日本の進むべき道について述べられる。〔後略〕」ということがあったところです(宮内庁『昭和天皇実録第十』(東京書籍・2017年)173頁)。

 1946年当時の昭和天皇の臣民に対するまなざしは,「わさはひをわすれてわれを出むかふる民の心をうれしとそ思ふ」,「国をおこすもとゐとみえてなりはひにいそしむ民の姿たのもし」という御製に詠まれたようなものでしたが(実録第十221頁),白村江の敗戦後,天智天皇を出迎える蒼生の状況は,ばらばらと茂るばかりで余り頼もしくはありませんでした。

 

 〔略〕7世紀までの日本列島の実情は,倭人の聚落と,秦人,漢人,高句麗人,百済人,新羅人,加羅人など,雑多な系統の移民の聚落が飛び飛びに散在する,文化のモザイクのような地帯で,倭国といっても判然たる国境を持つ国家ではなく,倭王があちこちに所有する直轄地というか私領の総和が倭国なのである。つまり倭王というものが先にあって,その支配下にある土地と人民が倭国なのである。倭国という国家があって,それを治めるものが倭王だというわけではない。こういう状態のまま,日本列島の住民たちは,663年の白村江の敗戦を迎えたのであった。

 (岡田195頁)

 

 どうも現在の我が国の情況からは想像しにくい有様です。しかし,古代の日本列島の状況は,上記のようなものだったと,一応納得して先に進みましょう。

 

(3)「日本」国の国号採択の理由:国内説明及び対唐(周)説明並びに対新羅説明

 

ア 情勢

 確かに,雑多な諸民族をまとめるための国号に,有力ながらもそのうちの一民族にすぎない倭の名を使い続けるわけにはいかなかったのでしょう。

また,新しい国号は,国外において戦勝大唐(周)帝国様から,生意気だ,と怒られないような謙遜なものでなければならなかったことでしょう。反唐的なものであってはならなかったのでしょう。670年の前年の情況につき『日本書紀』巻二十七の天智天皇八年(669年)条を見ると,同年に「大唐遣郭務悰等二千余人」とあります。郭務悰率いる二千人の文化交流大使節団でしょうか。しかし,同じ天智天皇十年(671年)十一月条を見ると,唐からの使節団が二千人もいれば船47隻で,それだけの大人数・大船団が「忽然到彼」となれば「恐彼防人驚駭射戦」ということになるそうで,我が国の防人らがびっくりして矢を射て防戦してくるかもしれないとの心配が唐側からされていますから,少なくとも平和で優しい外見の人々ではなかったようです。日本国の国号採択の際,戦勝大唐帝国の圧力はなお十分に感じられていたのではないでしょうか。

 

イ 「日本」の字義

 『旧唐書』には日本国の国号について前記のとおり「其の国日辺に在るを以て,故に日本を以て名と為す。」とあり,『新唐書』には「国は日の出づる所に近く,以て名と為す。」とあります。

 

ウ 国内説明(案)

国内の諸民族(そのうちの漢字を理解する大インテリ)に対しては,「我々は東アジアの孤児になってしまった。この断絶を痛切に自覚し,かつ,大陸・半島から見て海を越えたその東(日の出の方角)に孤立してある国であるという地理的事実を直視した国号にしよう。もはや,倭人か倭人でないかの区別などは問題にならない。我々はこの東方の地で団結して生きていかなければならない。しかしながらまた同時に,自らが東方であることを意識するということは,西方の他者を意識することでもある。新国号は,西方にある唐土の文明を拒絶し去って未開野蛮の状態に退行してしまおうという意味のものでは全くない。西方にある文明の中心地には我が東方から引き続き注目を続け,その文明水準に追いつくべく今後もたゆまず努力して行こうではないか。」という説明にでもなったのでしょう。

(なお,678年に死んだ袮軍(でいぐん)唐に仕えた百済人の軍人)の墓誌(西安で発見)において,顕慶五年(660年)に百済が唐によって平定された旨の記述に続いて「于時日本餘噍拠〔扶〕桑以逋誅」との文字(「時に日本餘噍は扶桑(ひがしのくにのき))拠って誅を(のが)る」)があるところ,ここでの「日本餘噍」は,百済人の生き残り(「(しょう)物を食って生きているという意味になります。を指すものと解されるそうです(神野志218-220頁参照)。すなわち,「日本」人であれば,少なくとも百済人は包容し得たわけでしょう。『日本書紀』天智天皇十年(671年)一月条に,同月にあった百済人への大量冠位授与に対して「橘は己が枝々()れれども玉に貫く時同じ緒に貫く」との童謡(わざうた)があったと報告されています。多様性ある人材登用を賛美したものと素直に解さずに,百済人なんぞが我々倭人と同じように扱われるのは面白くないぞ,という意味であるものとこの(うた)を解せば,そのような不満に「我々は皆日本人じゃないか」と言って対応するためにこそ「日本国」の国号が採用されたものとも考え得るようです。)

 

エ 対唐(周)説明(案)

唐(周)に対しては,「「日本国」とは,御帝国の東方の僻陬にあ(って天子様を遥かに憧れ,ひたすらお慕い申し上げ)る衛星国という意味でございます。」というような説明をして,納得を得たものでしょう。

我々は倭の名を(にく)んでいるのです,との追加説明が必要であったのは,そもそも従前の国号に満足しているのであれば,新国号を採用する必要がないからでしょう。この場合,悪んでしまった理由は――「お前ら,倭なんていう人を馬鹿にした字を選びやがって。」とは当の大唐(周)帝国様には言えなかったでしょうから――「白村江における御帝国の大威力の前に,昔からの倭の名には,敗戦民族・劣等民族という烙印が押されてしまったのです。いまや倭は恥にまみれた差別用語なのです。我々は偉大なる天子様の御慈悲の下,倭臭を去り,新しい名と共に文明に向けて再出発したいのです。新しい国の建設の礎を定めたいのです。」などと言っておくのが無難だったのでしょうか。そもそも,「倭」をヰと読めば「順ふ貌」という意味ですが,ワと読む場合は地名たる倭国の倭でしかなく,唐土においてもその意味はよく分かっていなかったそうで,「したがって,「倭」の改称が何を忌避して成されたかということもわからないというしかない」ところです(神野志58-65頁)。

それじゃ何で簡単に「東国」にしなかったのかねと更に問われれば,「御帝国の東には,厄介なことに新羅国がまだ残っております。「東国」では正に簡単に過ぎて,特定性が不足して紛らわしゅうございますので,少々雅趣を取り入れました。また,華ならざる東夷の国ですから一文字ではなく二文字名前にいたしました。」というような返答ででもあったものでしょうか。


オ 対新羅説明(案)

 唐(周)に対する日本国の国号の正式披露が大宝二年(周の長安二年。702年)であるのに,新羅に対する通告が天智天皇九年(唐の咸亨元年。670年)であるのは早過ぎるようです。その辺が670年説に人気のない理由でしょう。そこで,咸亨元年には何か特殊な事情があったのかと調べれば,その年六月に新羅王は,唐に対して反乱を起こした高句麗の遺民を受け容れて,百済の故地である金馬渚に新たな高句麗王政権の成立を認め,唐・新羅間に戦争が始まっています。唐人は横暴じゃないですか,昔がよかったじゃないですか,懐かしい高句麗は復活させることにしました,さあ白村江の前の昔に戻りましょう,というような,同盟に誘う熱い口説きが新羅から我が国にあったのではないかと想像すれば,「いいえ金(新羅の王家)さん,私の苗字は倭から日本に変わってしまったのよ。お日さまの出る海の東の遠いところにおうちがあるの。もう昔には戻れないわ。」という返しもなかなか有効であったのではないかと思われます。メロドラマ的妄想というべきでしょうか(なお,婚姻して片方配偶者の氏が変わると言う設定は,現在の民法(明治29年法律第89号)750条を前提にしています。)。

 

6 日本国=東方国

 日本の名に「壮大」さ及び「新興国のもえあがるような気魄」を感ずるのは,最初の東京夏季オリンピック競技大会を前年に了えた高度経済成長期の我が国においてはさもありなんです。しかし,新型コロナウイルス問題ですっかり疲弊してしまった現在の我が国においては,どうでしょうか。何でも人(まか)せの国になってしまってはいないでしょうか。

そもそも,東の意味で日の出にちなんだ表現をとるのはよくあることであって,そう力んで考える必要はないのでしょう。大智度論巻十には「如経中説日出処是東方日没処是西方日行処是南方日不行処是北方」とあります。ラテン語では,東の意味でカエサルはoriens sol(昇る太陽)と書き,リウィウスはortus solis(日の出)と書いたそうです。フランス語では,levantに東の意味があります。Soleil levantは朝日です。ドイツ語では,Morgen(朝)に東の意味もあります。ラテン語の動詞oriri((天体が)昇る)の現在分詞であるoriensからフランス語,英語,そしてスペイン語のorientalは派生しています。

むむむ,お話はやっとウルグアイ東方共和国に戻ってきたようです。

ウルグアイ東方(oriental)共和国も日の出の地(terra orientis solis vel orientalis),すなわち日本的な地にある国家であって,ただし海ではなくて川の東にあるものということになるのだ,また,ウルグアイ東方共和国の人は南米ではOrientalとも言われる一方,東洋人とは漢土では日本人を意味するのだ,ということを筆者は結局言いたかったのでした🌞

更に余計なことを言うと,日本国も,原義によれば東方国ということであれば,実は普通名詞国号の国であったのか,ということになりそうです。Oriental Landだと千葉県浦安市のディズニーランドになってしまいますので,el Estado Oriental又はthe Oriental Stateですか。しかしこれではどこの東かわかりませんね。The Oriental-to-China Stateでしょうか。The Oriental State against Chinaでは剣呑でしょう。勝手に自国関係の地名を使うなと言われて,ギリシア共和国(Hellenic Republic)と北マケドニア共和国(Republic of North Macedonia)との間の紛争のような国際紛争に巻き込まれても困ります。The East-of-Civilization Stateだと,『エデンの東』みたいでかっこいいですかね。

 

7 「日本」への物語追給

しかし現在の日本人は,「日本」は純粋に方角の東を意味するものにすぎないとは思ってはいません。「大日本()神国(あまつ)(みおや)じめて(もとゐ)ひらき(ひの)(かみ)ながく(とう)(つたへ)ふ。のみあり異朝にはたぐひなし。神国といふなり。との宣言始ま神皇正統記において北畠親房大日本ともとも(かく)とは漢字(つたはり)国のくに大日本しかも耶麻土(やまと)よませたるなり大日孁(おおひるめ)のしろしめす御国なれば,其義をもとれるか,はた日のいづる所〔に〕ちかければしかいへるか。義はかゝれども字のまゝ日のもと()よまず。ぜり述べています岩佐15頁・16頁。下線は筆者によるもの)。大日孁は,天照大神のことです。

「日本」の字義に「東方」の意味以上の内容を込めようとすれば,日の字に着目せざるを得ません。日は太陽であって,太陽といえば太陽神です。それでは日本国の国号採択に伴い,それにちなんで太陽神=天照大神を祀る伊勢神宮に対する大津朝廷(天智天皇ないしは大友皇子)による優遇が直ちに篤くなっていたのかといえば,そうではないようです。壬申の乱において,伊勢神宮は大津朝廷側についていません。

 

  〔6世紀前半ころの〕この時期の伊勢神宮はまだ皇室の祖先神の社にはなっていなかったであろう。しかし,東方に海をのぞむ伊勢では早くから太陽神信仰がさかんで,地方神である伊勢大神も神格は太陽神であり,その点では皇祖天照大神と共通の性格を持っていたのではなかろうか。そのため時とともに,伊勢大神の社が天照大神をまつる社と考えられるようになってきたのであろう。

   こういう状態のときに壬申の乱がおこった。大海人皇子は伊勢国に入ったとき,()()川辺から天照大神したことが記されている。天武天皇伊勢神宮協力こうたのである。

   伊勢神宮が天武側についたことは,壬申の乱をうたった柿本人麻呂の歌に,

     ゆく鳥の 争ふはしに

     渡会(わたらい)の 斎宮(いつきのみや)

     神風に 伊吹きまどはし

  とあるので察せられる。「渡会の斎宮」はいうまでもなく伊勢神宮のことである。そして天武天皇がこの戦いに勝ったことが伊勢神宮の地位を決定的にした。〔略〕伊勢神宮は皇室の手厚い信仰をえて,皇祖神天照大神をまつる社,すなわち天皇家の氏神の社の地位をえた。天皇家からすれば,伊勢神宮を天皇家の社とすることで東国地方を安定するうえに大きな効果がある。

  (直木357-358頁)

 

遠く(四日市市あたり)からの望拝とはとってつけたみたいだし(いずれにせよ,ありとあらゆる効験あり気な神々に大海人皇子は神頼みしていただろうから,one of themの可能性はあるよね),風が吹いたことをわざわざ特筆しなければならないのは実は実物的援助が不足していたからじゃないのかな,などとの感想を懐くことは,不敬でしょう。

現政権の対外宥和姿勢を軟弱だと攻撃して新たに政権を取っても,結局現実の力の前に文明開化策を継続増進しなければならなくなるのは,明治の時代の出来事に限られないはずです。大津京の日本国政権を倒してはみたが,やっぱり古臭い倭国のままではやっていけない,しかし抽象的地理名称である日本(エスタード・)(オリエンタル)では国民統合専ら,漢字を解する少数インテリ間においあるにしても不足そもそもそこに物語なければ自分使っても面白くないブラジル闘争の志士たるLos Treinta y Tres Orientales(三十三人の東方人(オリエンタレス)のような建国伝説なければ神頼みということにところかかわる有り難い神様我が国にないかと探してみれば何とうまいことに伊勢に太陽神神社あるじゃないかということで天武持統による太陽皇祖祀る伊勢神宮重視政策が創始されという作るのはというものでしょうか。(なお,太陽神=天照大神=皇祖神という観念の発生時期に関しては,神野志137頁の引用する吉田孝『大系日本の歴史3 古代国家の歩み』(小学館・1988年)に「(「日本は」)7世紀後半のころから使われ始めた可能性がある。(中略)天皇は天照大神の子孫であるという記紀の神話の骨格が最終的に定められたのも,おそらくこの時期である。(中略)「日本」という国号が撰ばれた背景には,このような神話があり,まさに「日の御子」の()らすとして日本という国号定められたのであるという記述があるそうです。ちなみに,このよれば不思議なことに日本書紀には天智天皇によるこの新国号採用について一言かいてない。との苦情岡田152頁)に対しては,神代の巻を読め,と回答することになるのでしょう。)

 日本国=太陽神の国という観念が発明されたとしても,偉大なる天子様に対しては不遜であるという忖度がもちろんされて,唐(周)に対してはそれに基づく我が国号の説明はされなかったことでしょう。新旧の『唐書』を含む漢籍漢文に精通した我が国の知識人らも,日本国の国号の由来が外交的なものであり,したがってその解義も当該外交上の共通理解に基づいてされるべきことを認識していたことでしょう。しかし,太陽の国であるぞ,と東夷に胸を張られても,唐土の天子は微苦笑しただけであったかもしれません。陶唐氏帝堯は,10個も出て来て迷惑な太陽中9個を退治するのに,弓の名人(であると同時に女房に逃げられ🌛,弟子に裏切られる(「逢蒙学射於羿,尽羿之道,思天下惟羿為愈己,於是殺羿。孟子曰,是亦羿有罪焉。」『孟子』離婁章句下二十五)冴えない男であるともいわれている)羿(げい)ただ一人任せて十分だったからです。いわん不肖なれども一の東海太陽国御するにおいて