1 申命記:第22章第5節

 ユダヤ教等の聖典に次のような規定があります。紀元前13世紀のモーセが書いたものか,紀元前7世紀・ヨシヤ改革王治下のユダ王国において書かれたものか。

 

  Non induetur mulier veste virili,

      nec vir utetur veste feminea;

      abominabilis enim apud Deum est qui facit haec.

      (Dt 22,5)

  (女は男の衣裳を着せらるることなく,

  (男は女の衣裳を用ゐることなし。

  (何となれば,これらのことを行ふ者は,主において忌まはしきものなればなり。)

  (申命記第22章第5

 

筆者が「衣裳」と訳した後は,ラテン語ではいずれもvestis”(女性名詞。“veste”奪格形)ですが,TheTorah.comウェブサイトに掲載されているヒラリー・リプカ(Hilary Lipka)博士の論文“The Prohibition of Cross-Dressing / What does Deuteronomy 22:5 prohibit and why?”https://www.thetorah.com/article/the-prohibition-of-cross-dressingによれば,ヘブライ語ではそれぞれ別の語が用いられており,前者はkeli” (item),後者はsimlah” (garment)であるそうです。また,ラテン語では“uti”“utetur”は三人称単数未来形。目的語は奪格形をとる。)とされた元のヘブライ語動詞の意味は“to wear, put on”であり,“non induetur“induetur”induereの受動態三人称単数未来形)に対応するヘブライ語部分の意味は“there shall not be upon”であるそうです。女性に対して禁止されている行為の範囲(virile “garment”の着用禁止に限られない。)の方が,男性に対するそれよりも広い。

King James’s Versionでは,“The woman shall not wear that which pertaineth unto a man, neither shall a man put on a woman’s garment: for all that do so are abomination unto the LORD thy God.”と訳されています。

申命記第22章第5節の立法趣旨としては,①淫行(illicit sexual activity)をする目的で男(女)性が女(男)装して専ら女(男)性のグループに立ち交じることの禁止,②異性装は偶像崇拝教の儀式として行われるものであるからという理由による禁止(筆者の手許のHerder社のEinheitsübersetzung版には「衣裳交換は,カナンの固有信仰において一の役割を演じていた。」との註が付されてあります。),③分かれてあるべきものとして神が作ったものを混ぜ合わせることの禁止,④更に壮大に,神による一連の分離の業によって創造された世界がそれを支える各分界が不明瞭にされることによって混沌に陥ることを防止するための禁止,並びに⑤男女の区別及び性別による役割分担のシステムを保持するための禁止といったものが唱えられていることを紹介した上で,リプカ博士は,⑥女性に対する禁止の方が幅広いことから,同節前段の「女性に対する,男性性に結び付いたあらゆる物――恐らく,衣服,伝統的武器並びに男性の仕事及び活動に結び付いている道具が含まれる――を着用又は佩用することの禁止は,男性の(優越的な)社会的地位を守ろうとする努力の一環だったのではないか。男性性に係る附随物を女たちから遠ざけておくことは,女たちがその「適正な」社会的位地にとどまることを確保する一方法である。」とし,後段については,「この法の制作者らは,「女っぽい」と見られる衣裳を着用することを男たちに禁ずることによって,彼らが,その外見を通じて彼ら自身の男性性(masculinity)の土台を掘り崩すこと(undermining)を防止しようと試みているのである。」と述べています。男性性を保護するため(Protecting Manhood”)ということですから,女性からの(潜在的)脅威の前に,男性らは兢々として防備を巡らしていたということになるようです。

女神の男装及び武装を是認する我がおおらかな神話の世界に比べると,せせこましい。

 

 天照大神〔中略〕(すなはち)(みかみを)(みづらと),縛(みもを)爲袴,〔略〕又(そびらに)千箭(ちのり)()(ゆきと)五百箭(いほのり)()(ゆき)(ひぢに)稜威(いつ)()高鞆(たかともを),振起(ゆはずを)急握劍柄(たかみを),蹈堅庭(かたにはを)而陷(むかももを),若沫雪(あわゆきの)蹴散(くゑはららかし),奮稜威(いつ)()雄誥(をたけびを),發稜威(いつ)()噴讓(ころひを)〔後略〕

 (日本書紀巻第一神代上〔第六段〕正文)

 

2 禮記:郊特牲第十一及び内則第十二

 ユーラシア大陸の東部に目を転ずると,禮記の郊特牲第十一には次のようにあります。

 

  男女有別。然後父子親。父子親然後義生。義生然後禮作。禮作然後萬物安。無別無義。禽獸之道也。

  男女別有りて,然る後に父子親しむ。父子親しみて,然る後に義生ず。義生じて,然る後に礼(おこ)る。礼(おこ)りて,然る後に万物安し。別無く義無きは,禽獣之道也。

 

 「男女有別」の意味は,正統的には,「男女は礼をもって交わるべきで,みだりになれ親しんではいけない。また,男と女とでは,守るべき礼式に区別があること」と解すべきもののようです(『角川新字源』(第123版・1978年)669頁)。しかし,原典においては続けて「然後父子親」とあるので,民法(明治29年法律第89号)などに親しんで,法律上の父子親子関係成立の難しさを知ってしまった法律家としては,ここでの「男女有別」を,「妻が婚姻中に懐胎した子は,夫の子と推定する。」との嫡出推定規定(民法7721項)が働く前提となる状態を示すものとひねって解したくなるところです。

我が民法7721項の嫡出推定規定の正当化根拠は「妻ハ稀ニ有夫姦ヲ犯スコトナキニ非スト雖モ是レ幸ニシテ例外中ノ例外ナル」ことだとされています(梅謙次郎『民法要義巻之四 親族編(第22版)』(法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1912年)240頁)。ということであれば,「男女有別」は妻による有夫姦を防止するための策ということになります。制度的にはどのように発現するかといえば,物理的隔離でしょうか。禮記の内則第十二にいわく。

 

  禮始於謹夫婦。爲宮室。辨外内。男子居外。女子居内。深宮固門。寺守之。男不入。女不出。

  礼は夫婦を謹むに始まる。宮室を(つく)りて,外内を辨じ,男子は外に居り,女子は内に居り,宮を深くし門を固くし,閽寺(こんじ)宮刑に処せられ門番をする者〕之を守り,男は入らず,女は出でず。

 

 またいわく。

 

  男不言内。女不言外。非祭非喪。不相授器。其相授則女受以。其無。則皆坐。奠之而后取之。外内不共井。不共。不通寝席。不通乞假。男女不通衣裳。内言不出。外言不入。

  男は内を言はず,女は外を言はず。祭に非ず喪に非ざれば,器を相授けず。其の相授くるには則ち女は受くるに()〔竹製の方形のかご〕を以てす。其の篚無きときは,則ち皆坐して,之を()きて而して后に之を取る。外内井を共にせず。(ひょく)浴〔湢は浴室〕を共にせず。寝席を通ぜず。乞仮を通ぜず。男女衣裳を通ぜず。内言出でず,外言入らず。

 

「不通寝席。不通乞假。男女不通衣裳。」の部分は,「寝るための筵を共用せず,物を貸し借りせず,衣裳を共用しない。」ということであるとされています(任夢渓「『礼記』における女性観――儒教的女子教育の起点――」文化交渉・東アジア文化研究科院生論集(関西大学)4103頁)。「不通」が,衣裳を共用しない,という意味であれば,男性が自己専用の女性用衣裳を着用し,女性が自己専用の男性用衣裳を着用することのみであれば,男女の出会いの機会を芟除(さんじょ)せんとするここでの禁止には直接抵触しないもの()(無論,男性が女装して女性の間に立ち交じり,女性が男装して男性の間に立ち交じるということは当然禁止でしょう。)。

なお,余談ながら,男女有別であるから,男女の性別に係る性を表わす英単語は,人に生まれながら備わっている心を表わす趣旨のもの(「性」を分解すると,「生」及び「心(忄)」となります。)ではなく,sexであるのでしょう。sexはラテン語のsexus(第四変化の男性名詞)に由来し,“sexus”は,「切る,切り分ける」という意味の動詞である“secare”(一人称単数直説法現在形は“seco”)に由来するものです。したがって,合体というよりは,別居している様子(「男子居外。女子居内。」)がむしろふさわしい単語です。

 

3 東京違式詿違条例62条等

 我が国では,「ざんぎり頭の唄」(ザンギリ頭をたたいて見れば,文明開化の音がする)がはやった風俗変動期の1873年(明治6年)に至って,その年8月に出された法令に次のようなものがあります。

 

  ○第131号(812日)〔司法省〕

  今般違式罪目左之(とおり)追加(そうろう)此旨(このむね)及布達(ふたつにおよび)候事(そうろうこと)

  第62条 男ニシテ女粧シ女ニシテ男粧シ或ハ奇(かい)ノ粉飾ヲ為シテ醜体ヲ露ス者

   但シ俳優歌舞(ママ)等ハ勿論女ノ着袴スル類此限ニ非ス

  ○第138号(827日)〔司法省〕

  当省第131号ヲ以テ相達候(あいたっしそうろう)違式罪目追加第62条文中粉飾ハ扮飾ノ誤ニ(そうろう)為心得(こころえのため)此旨(このむね)及布達(ふたつにおよび)候事(そうろうこと)

 

18738月といえば,その17日の閣議で西郷隆盛の朝鮮国派遣が決定されるという征韓論の盛んな時期でした。司法卿・江藤新平は,まだ下野していません。

 

  翌日,〔江藤新平は〕妾の小禄を屋敷によびよせた。小禄は婦人のくせに羽織をきてやってきた。

  〔江藤新平正夫人〕千代は,彼女の居間で小禄を引見したとき上座からひたい越しに小禄を見て,なによりもそのことにおどろいた。

 (女が,羽織を)

  ということであり,羽織とは男の用いるものだと千代は信じこんでいたが,東京はどうなっているのであろう。やがてのちに千代は例外があることを知った。江戸ではよほど以前から深川芸者が羽織を着ていたという。それをまねて他の場所の芸者や素人のあいだでもそれを着ることがあるという。しかし,このときは知らなかった。

 (司馬遼太郎『歳月』(講談社・1969年)129-130頁)

 

なお,明治6年司法省第131号布達で第62条が追加された先は,明治五年「十一月八日〔1872128日〕東京府布達ヲ以テ来ル十三日〔同月13日〕ヨリ施行」された明治五年十一月の司法省の違式詿違(かいい)条例です(施行地は東京府限りということになります。)前月の明治6年(1873年)719日太政官布告第256の違式詿違条例ではありません。当該明治6年太政官布告の違式詿違条例は布告文で「各地方違式詿違条例」であるものとされており,かつ,その第62条には詿違罪目の一として既に「酔ニ乗シ又ハ戯ニ車馬往来ノ妨碍ヲナス者」が掲げられていました。

ところで,東京の違式詿違条例の第62条は,規定の場所からは一見すると詿違罪目への追加であるかのようですが(同条例の原始規定においては,第29条から最後の第54条までは詿違罪目でした。),その追加の布達文を見ると,違式罪目となっています。「違式」と「詿違」とは何が違うかといえば,前者の方が後者よりも刑が重いのでした。すなわち,違式の刑は75銭より少なからず150銭より多からざる贖金の追徴(同条例1条)であったのに対して,詿違の刑の贖金の追徴額は655毛より少なからず125釐より多からざるものとされていました(同条例2条。ただし,1876613日の太政官東京警視庁宛達によって,5銭より少なからず70銭より多からざるに改められました。)。贖金は,18781021日の明治11年太政官布告第33号によって科料に改められています。無〔資〕力の者に対する「実決」は,違式の場合は10より少なからず20より多からざる笞刑であったのに対し,詿違の場合は1日より少なからず2日より多からざる拘留でした(同条例3条。ただし,1876914日の明治9年太政官布告第117号によって,違式については8日より少なからず15日より多からざる懲役に,詿違については半日より少なからず7日より多からざる拘留(ただし,適宜懲役に換えられることあり。)に改められました。その後明治11年太政官布告第33号によって,違式は5日より少なからず10日より多からざる拘留に,詿違は半日より少なからず4日より多からざる拘留に更に改められています。)。1876613日の前記達で加えられた第6条は弾力条項で「違式ノ罪ヲ犯スト雖モ情状軽キ者ハ減等シテ詿違ノ贖金〔科料〕ヲ追徴シ詿違ノ罪(ママ)ヲ犯スト雖モ重キハ加等シテ違式ノ贖金〔科料〕ヲ追徴スヘシ其犯ス所極メテ軽キハ()タ呵責シテ放免スル(こと)アルヘシ」と規定していました。

違式詿違条例の執行については,明治五年十月九日司法省伺同月十九日(18721119日)正院定に係る太政官の警保寮職制の第1条において,少警視・権少警視について「各大区ニ派出シ区中警保ノ事ヲ督シ警部巡査ヲ監視シ違式以下ノ罪ヲ処断ス其決シ難キモノハ決ヲ大警視ニ取ル」と,大警視・権大警視について「各府県ニ派出シ管下警保ノ事ヲ監督シ少警視及警部巡査ヲ総摂シ違式以下ノ罪決シ難キヲ処断ス」と定められていました(下線はいずれも筆者によるもの)。187541日から施行された行政警察規則(明治8年太政官達第29号)の第2章「警部勤務ノ事」の第7条には「違警犯人ハ其犯状ヲ按シ違警条目ニヨリ処断シテ後長官ニ具申シ其疑按アルモノハ長官ノ指揮ヲ受ケテ処分スヘシ」と規定されていました。裁判所を煩わすまでもない,ということでした。後の有名な違警罪即決例(明治18年太政官布告第31号)の(さきがけ)です。

東京の違式詿違条例62号の罪に該当する罪は明治6年太政官布告第256号にはなかったのですが,当該太政官布告の布告文には「但地方ノ便宜ニ依リ斟酌増減ノ(かど)ハ警保寮ヘ可伺(うかがいい)(づべく)(かつ)条例掲示ノ儀モ同寮ノ指揮ヲ可受(うくべき)(こと)」とされていたので,各地で追加が可能でした。例えば,大分県では1876年の警第35号違式詿違云々達により187711日から女装・男装行為が詿違の罪に加えられています(春田国男「違式詿違条例の研究―—文明開化と庶民生活の相克――」別府大学短期大学部紀要13号(1994年)46-47頁)。京都府では,1876102日の明治9年京都府布達第385号違式詿違条例52条において,東京の違式詿違条例62条の罪に相当する罪(ただし,「歌舞妓」ではなく「舞妓」)が違式の罪として定められていました(西村兼文『京都府違式詿違条例図解』(西村兼文・1876年))。187861日から施行の明治11417日栃木県乙第104号布達の栃木県違式詿違条例の第11条は,違式罪目の一として,「奇怪ノ扮装ヲ為シテ徘徊スル者」を掲げていました(平野長富編『栃木県違式詿違条例図解』(集英堂・1878年))。

東京の違式詿違条例(明治五年十一月・司法省)も各地方の違式詿違条例(明治6年太政官布告第256号)も,旧刑法(明治13年太政官布告第36号)の施行(188211日から(明治14年太政官布告第36号))によって消滅しました。旧刑法には東京の違式詿違条例62条の罪に相当する罪を罰する旨の規定は設けられていませんでした。

しかしながら,18778月に大木喬任司法卿から元老院に提出された旧刑法の法案においてはなお,異性装の罪が違警罪の一つとして全国的に処罰されるべきものとされていました。

 

 478. Seront punis de 5 sens à 50 sens d’amende:

  ………

  16° Les hommes ou femmes qui, hors des théâtres, se seront montrés en public avec des vêtements d’un autre sexe que le leur;

(第478条 左ノ諸件ヲ犯シタル者ハ5銭以上50銭以下ノ科料ニ処ス

  〔略〕

(十六 演劇外ニ於テ異性ノ者ノ衣裳ヲ着シテ公然現レタル男又ハ女)

  (Projet de Code Pénal pour l’Empire du Japon présenté au Sénat par le Ministre de la Justice, le 8e mois de la 10e année de Meiji. (Kokubunsha, Tokio, 1879) pp.158-159

 

 これは,ボワソナアドのフランス語でしょう(大久保泰甫『日本近代法の父 ボワソナアド』(岩波新書・1998年)114-115頁)。

 ボワソナアドは,旧刑法施行の4年余の後に印刷されたProjet Révisé de Code Pénal pour l’Empire du Japon accompagné d’un Commentaire” (Tokio, 1886)(「大日本帝国刑法典の註釈付き再訂草案」)において,なおも異性装の罪を設けるべきものとしています。しかも18778月案におけるものよりも刑が重くなっています。

 

  486. Seront punis de 1 à 3 jours d’arrêt et 50 sens à 1 yen 50 sens d’amende, ou de l’une de ces deux peines seulement:

    ………

    4° Les hommes ou femmes qui, hors des théâtres ou des fêtes autorisées, se seront montrés en public avec des vêtements d’un autre sexe que le leur;

  (第486条 左ノ諸件ヲ犯シタル者ハ1日以上3日以下ノ拘留及ヒ50銭以上150銭以下ノ科料又ハ両刑中一方ノミニ処ス

    〔略〕

(四 演劇又ハ公許ノ祭礼外ニ於テ異性ノ者ノ衣裳ヲ着シテ公然現レタル男又ハ女)

  Boissonade, pp.1269-1270

 

品位及び良俗に反する(contre la Décence et les Convenances Publiques)違警罪に分類されています(Boissonade, p.1269)。

司法省レヴェルではともかくも,その上部での,「男ニシテ女粧シ女ニシテ男粧シ或ハ奇(かい)ノ扮飾ヲ為シテ醜体ヲ露ス者(但シ俳優歌舞妓等ハ勿論女ノ着袴スル類此限ニ非ス)」ぐらいの行為は,やっぱりいちいち罰しなくてもよいよ,との我が国政府のさばけた判断に対して,フランス人ボワソナアドは随分生真面目に頑張っていたわけです。

異性装規制は,そもそも,我が国の伝統に根ざしていなかったということでしょうか。西洋人辺りから言われてつい導入しただけのものだったのでしょうか。

確かに,東京違式詿違条例62の構成要件をよく見ると,「(A)(α)男ニシテ女粧シ,(β)女ニシテ男粧シ,或ハ〔又は〕(γ)奇恠ノ扮飾ヲ為シテ,〔その結果〕(B)醜体ヲ露ス者」ですから,Aのみでは不足で,AかつB(醜体)でなければならず,更にAのうちα及びβは,あるいはγの例示にすぎないもののようにも思われます。(「醜体」は,警察犯処罰令(明治41年内務省令第16号)32号の「醜態」に係る大判大2123刑録191369号によれば「公衆ヲシテ不快ノ念ヲ抱カシムヘキ風俗即チ醜体」(伊藤榮樹(勝丸充啓改訂)『軽犯罪法 新装第2版』(立花書房・2013年)161頁(注2)における引用による。)ということになるようです。なお,東京違式詿違条例中の「醜体」仲間には,いずれも違式罪目として「裸体又ハ袒裼(たんせき)〔かたぬぎ・はだぬぎ〕シ或ハ股脚ヲ露ハシ醜体ヲナス者」(第22条)及び「男女相撲並蛇遣ヒ其他醜体ヲ見世物ニ出ス者」(第25条)がありましたが(註1),これらも旧刑法の違警罪からははずれています。ただしその後,警察犯処罰令32号で「公衆ノ目ニ触ルヘキ場所ニ於テ袒裼,裸(てい)〔裎も「はだか」〕シ又ハ臀部,股部ヲ露ハシ其ノ他醜態ヲ為シタル者」の形での復活があったわけです(すなわち,「醜態」であれば,「袒裼,裸裎シ又ハ臀部,股部ヲ露ハ」すもの以外の行為でも該当する建前である構成要件です。)。)要は見苦しさ(醜体)の有無の問題であって(脱衣の場合は東京違式詿違条例22条,着衣の場合は同条例62条),申命記22章第5節的な深刻な背景はなかったようでもあります(井上清『日本の歴史20 明治維新』(中央公論社・1966年)213頁においては,違式詿違条例の罪目は「およそ考えつくかぎりの,当時の役人の感覚で無作法あるいは見苦しい,他人の迷惑となる事項の禁止条項」であると評されています。)。これに対して,旧刑法18778月フランス語案47816号及びボワソナアド案4864号では,Bの要件抜きに,かつ,異性装と関係の無いγは排除して,α又はβのみの充足で直ちに犯罪成立ということになっていますから,異性装の端的な禁止規定としては,こちらの方が純化されています。(註2)(註3


(中)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078601795.html(セーヌ県警視総監命令等)

 (下)http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078601799.html(東京地方裁判所令和元年12月12日判決)


註1:東京違式詿違条例25条の「男女相撲」がどういうものかは何やら分かるようですが,「蛇遣ヒ」とは何でしょうか。東京都公文書館の「時代の中で史料を読む~生類憐み政策と都市江戸」ウェブページには「朝倉夢声『見世物研究』によれば,「蛇遣いの多くは女子で,笊に大小の蛇十数疋を入れ,それを摑出(つかみだ)しては,首や両手に巻付かせて見せたのである」と記されています。」とあります。多くの蛇の絡みついた女体は「醜体」であるということになりますが,悦んで鑑賞する者も多かったのでしょう。


(

:自然法論者ボワソナアドの思想は,宗教的性質のものでした。すなわち,「ボワソナアドの全思想の根底には,クリスト教の信仰,もっと正確にいえば,カトリック的な,全知全能の神に対する揺るぎない信仰が存在するといえる。そしてその自然法思想の全体的基礎的な枠組をなしているのは,聖トマス・アクィナスの神学と哲学であると考えられる。」と伝えられています(大久保58頁)。

)


187711月に刑法編纂委員である鶴田皓司法大書記官から大木喬任司法卿宛てに上申された確定「日本刑法草案」47716号においては,同年8月のフランス語案47816号の直訳とは異なり,「男ニシテ女装シ女ニシテ男装シ其他奇怪ノ扮装ヲ為シテ徘徊シタル者」を5銭以上50銭以下の科料に処するものとしており(西原春夫等編『旧刑法(明治13年)(2)-Ⅱ 日本立法資料全集31』(信山社出版・1995年)803頁,850-851頁。下線は筆者によるもの),日本側の理解では,異性装は異性装であるから(宗教的に)罰せられるのではなく,要は「奇怪」であるから罰せられるものであると考えられていたらしいことが分かります(当然フランス語案は読まれていたはずです。)。当該確定「日本刑法草案」は,同月28日に大木司法卿から太政官に上申されています(西原春夫等編『旧刑法(明治13年)(2)-Ⅰ 日本立法資料全集30』(信山社出版・1995年)8頁)。