1 教科書的説明とそれに対する感想

 

(1)教科書的説明

 民法(明治29年法律第89号)399条は,次のように規定しています。

 

  (債権の目的)

  第399条 債権は,金銭に見積もることができないものであっても,その目的とすることができる。

 

何となく読み飛ばしてしまう条文です。標準的民法教科書の一つにおいて次のように説明されても,「はあ,そうですか。」というだけで,さして印象に残らなかったところです(少なくとも筆者には)。

 

  (4) 給付の経済性 〔債務者のなすべき行為たる給付が法律上保護に値するために必要な4要件中〕以上三つの要件〔(1)給付の適法性,(2)給付の可能性(筆者註:ただし,民法412条の22項)及び(3)給付の確定性〕とは別だが,給付の内容は経済性をもたなくてもよい(399条)。取引上は,給付が経済的目的に奉仕する場合が普通であろう。けれども,これにこだわらず,給付の内容が経済的性質をもたないものであっても,法律上保護に値するものならば債権の成立に妨げとはならない,との趣旨である。このような内容の債権でも債務不履行になれば金銭による損害賠償に訴えざるをえないわけだから財産性はあるのだ,という考え方もある。結果論的にはそうもいえる。(遠藤浩等編『民法(4)債権総論(第3版)』(有斐閣双書・1987年)10頁(新田孝二))

 

(2)感想

 

ア 「法律上保護に値するもの」とは何か(附:ドイツ民法草案の見解に関して)

 給付が法律上保護されるためには「法律上保護に値するもの」であることを要する,ということであれば,これはtautologyというものでしょう。

「法律上保護に値するもの」であるには「経済性」は必ずしも必要ではないとされつつも,それでは積極的には何が要件なのだという問いに対する回答は,「法律上保護に値するもの」であることである,との当初の命題以外与えられていないところです。我妻榮に当たってみても,「給付は「金銭ニ見積ルコトヲ得ザルモノ」でも債権の目的とすることができる(399条)。ドイツ普通法時代に争のあった点を解決したものである。ドイツ,フランス両民法には明文はないが,通説はわが民法と同様に解している(但しド民法理由書は消極的見解であり,これを支持する者も相当ある。債権の範囲が不明となるという理由である(Oertmann, §241, 1b))。」と学界事情の一端が明らかにされてはいるものの(我妻榮『新訂 債権総論(民法講義Ⅳ)』(岩波書店・1972年)22-23頁),結局,「金銭に見積りえない給付については,法律的効力を認むべからず,という一般的な原則は存在しない。かような給付も,これに対して法律的効果を認めることを至当とする限りにおいては,債権たる効力を認めるべきである」との記述があるばかりです(我妻Ⅳ・23頁)。(なお,ドイツ普通法とは,「地域的・身分的に激しく分裂していたドイツの「地方特別法(Partikularrechte)」に対し,継受されたローマ法は,その間隙を埋める「共通法=普通法(gemeines Recht)」と呼ばれ,高度に発展した取引法上の必要に対応していた」ものであって,「ドイツ民法典190011日から施行〕編纂は,実際上,適用されていた普通法上の規範を汲み上げることから始められた」そうです(オッコー・ベーレンツ=河上正二『歴史の中の民法――ローマ法との対話』(日本評論社・2001年)48頁)。)

(以下附論)

しかし,「ド民法理由書は消極的見解」であるとの我妻の紹介はいかがなものでしょうか。ドイツ民法第一草案206条(「債務関係の目的は,債務者の作為又は不作為(給付)であり得る。(Gegenstand eines Schuldverhältnisses kann ein Thun oder ein Unterlassen des Schuldners (Leistung) sein.)」)に関して,余計なことながら筆者がその理由書(Motive zu dem Entwurfe eines Bürgerlichen Gesetzbuches für das Deutsche Reich, Bd. II (Amtliche Ausgabe, 1888))を検するに,「財産権的利益(vermögensrechtliches Interesse)は,〔略〕当草案の見解によれば,債務の本質(Wesen der Obligation)に属しない。」(S.5),「債権者の財産権的利益は,当見解によれば,債務の本質に属しない。当該事案において法的な義務付け意思(Verpflichtungswille)が認められるかに係る証明を前提として,かつ,公序良俗に反する法律行為の無効(Hinfälligkeit)に係る規定を別として,債務関係の効力は,債権者が給付について他の保護に値する利益(anderes schutzwürdiges Interesse)を有していないことをもってしても争うことはできない。」(S.3. ただし,「保護に値する利益」不要論は,後に撤回されます。)というような記述があるところです。これは「消極的見解」ではなく,積極的見解でしょう。

第二草案205条(「債務関係に基づき,債権者は,債務者から給付を請求する権利を有する。給付は,作為又は不作為たることができる。(Kraft des Schuldverhältnisses ist der Gläubiger berechticht, von dem Schuldner eine Leistung zu fordern. Die Leistung kann in einem Thun oder einem Unterlassen bestehen.)」)に関する委員会審議録(Protokolle der Kommission für die zweite Lesung des Entwurfs des Bürgerliches Gesetzbuchs, Band II. 1897)を検すると,第一草案206条に関し,「債務関係の目的たり得るものは,財産的利益を有する給付(作為又は不作為)に限られる。(Gegenstand eines Schuldverhältnisses kann nur eine Leistung (Thun oder Unterlassen) von Vermögensinteresse sein.)」との内容を加えよとの提案及び「財産的価値を有しない給付は,その強制が取引慣行に反することになるときは,債務関係の目的たり得ない。(Eine Leistung, welche keinen Vermögenswerth hat, kann nicht Gegenstand eines Schuldverhältnisses sein, wenn es der Verkehrssitte widerstreiten würde, sie zu erzwingen.)」との項を加えよとの提案があったものの,いずれの提案も委員会において却下(ablehnen)されていたところです(S.279)。なお,同委員会は,第一草案の理由書における言明を修正して「保護に値する利益(schutzwürdiges Interesse)は,理由書3頁における言明にかかわらず,当然要求されなければならない。しかしながら,個人の自由に係る法によって認められている領域内に留まっている全ての利益は,保護に値するのである。拘束(Verbindlichkeit)の受容が法又は善良の風俗に反するものであってはならない,という制限以外の制限は,不要である。」との理解を示しています(Protokolle II S.281)。

「独乙民法草案ノ如キハ断然〔略〕債権ノ目的ハ必スシモ金銭ニ見積リ得ヘキモノタルヲ要セサルコトヲ明ニセリ(独一草206,同二草205,)」です(岡松参太郎『註釈民法理由 下巻』(有斐閣書房・1897年)16頁)。

なお,現在のドイツ民法241条は,「債務関係に基づき,債権者は,債務者から給付を請求する権利を有する。給付は,不作為たることもできる。/債務関係は,その内容に従い,相手方の権利,法的財産及び利益を配慮するように各当事者を義務付けることができる。(Kraft des Schuldverhältnisses ist der Gläubiger berechticht, von dem Schuldner eine Leistung zu fordern. Die Leistung kann auch in einem Unterlassen bestehen. / Das Schuldverhältnis kann nach seinem Inhalt jeden Teil zur Rücksicht auf die Rechte, Rechtsgüter und Interessen des anderen Teils verpflichten.)」と規定しています。

ついでながら,ドイツ民法第一草案206条に関し,「債務関係の目的たり得るものは,財産的利益を有する給付(作為又は不作為)に限られる。」との内容を加えよと主張した提案者の理由とするところは次のようなものでした。いわく,「その実現に債権者が財産的利益を有さない義務の義務付けをもって真正の債務関係であるものと認定することは,より新たな法の発展及び近代の取引の要求に対応するゆえんのものではない。当該認定は,一方において,財産権(Vermögensrechte)として必然的に金銭的価値(Geldwerthを有さねばならない債権(Forderungsrechte)と身分権(Familienrechte)との区別をなみすることになり,他方において,現行法からの,深くまで及び,かつ,高度に懸念される逸脱をもたらすことになる。ドイツの裁判所の実務(Praxis)として現れているところの当該法によれば,現実的執行(Naturalexekution)の方法による直接強制の可能性(direkte Erzwingbarkeit)は,物の給付及び非自由労働(operae illiberales)に係る対人権(obligatorische Rechte)にのみ認められ,これ対して,自由労働(operae liberales)に対する請求(Ansprüche)は否認されている。委託された事務の実行を求める委任者の受任者に対する,出版社の著作者に対する,定款上の総会出席義務の履行を求める団体のその構成員に対する権利等のごとし。全てのこのような義務は直接強制され得るものであると宣明することが求められるということであれば,契約の自由は無際限に拡張され,そして国家の裁判権に対してふさわしからぬ職務が要求されることになる。」と(Protokolle II S.280)。ここには「金銭的価値(Geldwerth)」との語が出て来ます。(なお,「契約の自由は無際限に拡張され,そして国家の裁判権に対してふさわしからぬ職務が要求されることになる。」とは,「或ハ斯ウ云フ法律ガアリマスレバ恐ラクハ私ハ猥リニ訴訟ヲ起シテ少シモ金銭ニ見積ルベキ利益ガナイデモ宜シイト云フコトガ明言シテアル以上ハ或ハ之ヲ極端ニ解釈シマシテ普通ノ約束事デモ一々之ヲ裁判所ニ持ツテ往ツテ裁判ヲ仰グコトガ出来ルカノ様ニ人ガ想像スル恐レハアルマイカト思フノデス〔略〕夫レ故此規定ヲ設ケルノハ恐ラクハ習慣ニ背クシ又ハ猥ニ訴訟ヲ起スト云フヤウナ畏レモアラウト思ヒマス」との,兄である陳重の提案に係る我が民法399条(の原案)不要論を唱える穂積八束の口吻を彷彿とさせるところがあります(第55回法典調査会(1895111日)(法務大臣官房司法法制調査部監修『日本近代立法資料叢書2 法典調査会民法議事速記録二』(㈳商事法務研究会・1984年)970-971頁))。八束は,「民法出デテ忠孝亡ブ」ことを避けるためならば,不悌たることも辞さなかったわけです。)

 

イ 非経済性と財産性との関係

また,「給付の内容は経済性をもたなくてもよい。」と一方では宣言しつつ,「このような内容の債権でも債務不履行になれば金銭による損害賠償に訴えざるをえないわけだから財産性はあるのだ,という考え方もある。結果論的にはそうもいえる。」となおもぶつぶつ言うのは,何やら「経済性」に依然未練があるようで,すっきりしません。しかし,この非すっきり感は,そのような債権を財産といえるのかという当該債権の財産性いかんの問題(債権の財産性がここで問題となるのは,「私権は,〔略〕人格権・身分権・財産権・社員権に分けることができる」ところ,「債権は,物権・無体財産権とならんで,財産権に属する。」(遠藤等編1頁(水本浩)。下線は筆者によるもの)とされているからでしょう。)を,当該債権の法律的効力の有無(経済性は不要)の問題と分けずに続けてべったりと記述したことから生じたもののようです。我妻は,別の問題としてきちんと段落を分けた上で,「金銭に見積りえない給付を目的とする債権は財産権ではないという見解がある。然し,法律的強制を加え,その不履行について金銭賠償を請求することができるものである以上,これを財産権の一種といっても不都合はあるまい。ただその財産性の稀薄なことを注意すれば充分であろう。」と説いています(我妻Ⅳ・24頁)。

 

2 沿革からする説明

 

(1)内田貴『民法Ⅲ 債権総論・担保物権』

前記のようにすっきりしていなかったところ,内田貴・法務省元参与による次のような説明には,読んでいて,なるほどと感じさせられるところがありました。

 

  では,なぜこのような条文〔民法399条〕が入ったのだろうか。これは,功利主義とは別系統の思想を背景とする古代ローマ法以来の沿革によっている。ローマ法では,たとえば,教師・医師・弁護士等の仕事は,本来金銭に見積もり得ない精神的なものとされていた。もちろん,これらの仕事を目的とする契約(委任契約)は可能であったが,それは本来は無償であり,これらの金銭に見積もり得ない義務の履行を求めて,強制的にその内容を実現することはできないと考えられていた。ボワソナードもこのような立場をとっており,旧民法は,原則として金銭に見積もることのできるものに限って債権の目的とするという立場に立っていた。しかし,これでは不便であり,そもそも今日の感覚に合わない。そこで,そのような立場を否定するために,念のためこのような規定が入ったのである。(内田貴『民法Ⅲ 第4版 債権総論・担保物権』(東京大学出版会・2020年)25-26頁)

 

 沿革による説明は,筆者の性分に合っているようです。

 

(2)星野英一『民法概論Ⅲ(債権総論)』

 ということで更に,内田教科書の当該記述の淵源は何処にありやということを探ってみたくなるのですが,これは,「私は〔星野英一〕先生の授業のプリントを下敷きにして講義を始めまして,そうやって徐々にできあがった講義ノートをもとに教科書を書いたものですから,私の教科書は星野理論を万人にわかるように書いたものであると言われるのです。」ということですから(星野英一『ときの流れを超えて』(有斐閣・2006年)225頁(内田貴発言)),星野英一教授の著書に当たるべきことになります。

 

   債権の目的は,「金銭ニ見積ルコトヲ得サルモノ」でもよいとの規定がある(民法399条)。旧民法は,反対に,金銭に見積ることのできるものに限って債権の目的としていたので(明文の規定があったわけではないが,若干の規定とボアソナードの解説とから明らかであるとされる),これを改める趣旨を明らかにするために置いた規定とされ,具体的には,教師・医師・弁護士などの仕事が挙げられている〔略〕。ただ,今日では,すべての事項は(右に挙げたものも)少なくとも主観的には金銭に評価されるのが通常であるので,同条は,「本来」金銭に見積ることのできないもの,という趣旨と読むべきであろう。古い下級審判決に,寺僧が依頼者の祖先のために永代常念仏を唱える旨の約束につき,外形上の行為を伴なう念仏を目的とする場合は有効としたものがある(東京地判大正2年月日不詳(ワ)922号新聞98625)。なお,他から蒙った精神的損害,より広く「財産以外ノ損害」につき賠償請求権のあることについては,明文の規定がある(民法710条,711条)。(星野英一『民法概論Ⅲ(債権総論)』(良書普及会・1981年)11-12頁)

 

なるほどさてそれでは旧民法の当該「若干の規定」及びそれらに係る「ボアソナードの解説」を自分でも検証してみよう,と筆者は今更思い立ったわけです。しかしこれは,新型コロナウイルス感染症対策国民精神総動員時代にふさわしからぬ不要不急の用事をみだりに好む弛んだゆるキャラ非国民の所行というべきでしょうか。

なお,前記永代常念仏に係る東京地判大正2年月日不詳(ワ)922号新聞98625頁の判示するところは,「寺院又は僧侶に財物を贈与するも,其意僧侶をして念仏又は他の供養を為さしむるに存し,施物はその念仏供養を為すに就ての資となさんとする場合に於て之を受けたるものが念仏供養等を為すべきことを約したるときは,斯る契約は法律上有効なるを以て,之が当事者は之を履行すべき義務あり・・・。蓋し,浄土宗の教義として,・・・正助の業は之を一心に為すに非れば其功徳な〔く〕,而も斯る内心の作用に就ての契約は法律上の効力を生せずと雖も,誦経礼拝し,又は香華灯明食物を供養するが如きは外形上の行為にして,且念仏も亦単に心中仏を念ずるを以て足れりとせず,称名念仏すべきものなる・・・を以て」(以上,奥田昌道編『新版注釈民法(10)Ⅰ 債権(1)債権の目的・効力(1)』(有斐閣・2003年)158-159頁(金山正信・直樹)における引用),「斯ル外形上ノ行為ノ部分ニ付テノ契約ハ法律上有効ナリト謂フヘク従ツテ債務者ハ宗教上ノ儀式ニ従ヒ荘厳ニ之ヲ修スルノ義務アルモノニシテ唯之ヲ修スルニ当リ一心ニ為スヘキコトヲ強要スルヲ得サルニ過キサルモノトス」というものでした(奥田昌道編『注釈民法(10)債権(1)』(有斐閣・1987年)58頁(金山正信)における引用)

 

3 旧民法における関連条項

星野教授の著書にいう旧民法の「若干の規定」とは,旧民法財産編(明治23年法律第28号)293条及び3231項並びに同財産取得編266条ということになるようです(梅謙次郎『訂正増補第三十版 民法要義巻之三 債権編』(法政大学=中外出版社=有斐閣書房・1910年)9頁参照)。

 

 財産編第293条 人権即チ債権ハ常ニ義務ト対当ス

  義務ハ一人又ハ数人ヲシテ他ノ定マリタル一人又ハ数人ニ対シテ或ル物ヲ与ヘ又ハ或ル事ヲ為シ若クハ為ササルコトニ服従セシムル人定法又ハ自然法ノ羈絆ナリ

  義務ヲ負フ者ハ之ヲ債務者ト名ツケ義務ニ因リテ利益ヲ得ル者ハ之ヲ債権者ト名ツク

 

 財産編第323条 要約者カ合意ニ付キ金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ正当ノ利益ヲ有セサルトキハ其合意ハ原因ナキ為メ無効ナリ

  第三者ノ利益ノ為メニ要約ヲ為シ且之ニ過怠約款ヲ加ヘサルトキハ其要約ハ之ヲ要約者ニ於テ金銭ニ見積ルコトヲ得ヘキ利益ヲ有セサルモノト看做ス

  然レトモ第三者ノ利益ニ於ケル要約ハ要約者カ自己ノ為メ為シタル要約ノ従タリ又ハ諾約者ニ為シタル贈与ノ従タル条件ナルトキハ有効ナリ

  右2箇ノ場合ニ於テ従タル条件ノ履行ヲ得サルトキハ要約者ハ単ニ合意ノ解除訴権又ハ過怠約款ノ履行訴権ヲ行フコトヲ得

 

 財産取得編第266条 医師,弁護士及ヒ学芸教師ハ雇傭人ト為ラス此等ノ者ハ其患者,訴訟人又ハ生徒ニ諾約シタル世話ヲ与ヘ又ハ与ヘ始メタル世話ヲ継続スルコトニ付キ法定ノ義務ナシ又患者,訴訟人又ハ生徒ハ此等ノ者ノ世話ヲ求メテ諾約ヲ得タル後其世話ヲ受クル責ニ任セス

  然レトモ実際世話ヲ与ヘタルトキハ相互ノ分限ト慣習及ヒ合意トヲ酌量シテ其謝金又ハ報酬ヲ裁判上ニテ要求スルコトヲ得

  此等ノ者ノ世話ヲ受クルコトヲ諾約シタル後正当ノ原因ナクシテ之ヲ受クルコトヲ拒絶シタル者ハ其拒絶ヨリ此等ノ者ニ金銭上ノ損害ヲ生セシメタルトキハ其賠償ノ責ニ任ス

  之ニ反シテ世話ヲ与フルコトヲ諾約シタル後正当ノ原因ナクシテ之ヲ拒絶シタル者ハ因リテ加ヘタル損害ヲ賠償スル責ニ任ス

 

 これらの条項に関する現行民法起草者の理解は,1895111日の第55回法典調査会における穂積陳重の説明によると,「既成法典ニ於キマシテモ矢張リ其債権ノ目的ハ帰スル所金銭ニ見積ルコトガ出来ナケレバナラヌト云フ主義ヲ取ツテ居ツタモノト解シマス」というもので,その根拠としては「夫レハ合意ニ関スル所ノ規定ニモ合意ハ金銭ニ見積ルモノデナケレバ原因ト為スコトハ出来ヌト云フコトガアリマス又雇用契約ノ場合ニ於テモ医師デアルトカ弁護士教師ノ様ナ者ノ義務,其勤労ト云フモノハ強ヒテ継続サセルコトハ出来ヌト云フ規定ガアリマス」ということで旧民法財産編3231項及び同法財産取得編2661項の規定が挙げられていました(第55回法典調査会議事速記録969頁)。

 

4 ボワソナアドのProjetにおける解説

星野教授の著書にいう「ボアソナードの解説」は,ボワソナアドのProjetについて見るべきものでしょう。穂積陳重の前記理解に沿う記述があるかどうか。

 

(1)旧民法財産編293条等に関して

 

ア 旧民法財産編293条

旧民法財産編293の原案(314条)についてボワソナアドは,「人権(droits personnels)は,物権と共に,人の資産(le patrimoine)を組成する財産(Biens)の総体(l’ensemble)をなす。」と述べつつ(Boissonade, Projet de Code Civil pour l’Empire du Japon accompagné d’un commentaire, Nouvelle Édition, Tome Deuxième, Droits Personnels et Obligations. Tokio, 1891. p.2),「与えること(dare)とは,所有権又は他の物権を移転することである」(p.5),「為すこと(facere)とは,他者にとって有用又は有益な行為(un acte utile ou profitable)であって譲渡(dation)以外のものを実行することであって,肉体又は精神労働(un travail manuel ou intellectuel),使用人の仕事(un service personnel),仲立ち(une entremise),運搬(un voyage),特定の用途のための物の給付又は引渡し(une prestation ou livraison de chose pour un usage déterminé)のごとし」(pp.5-6)及び「為さざることとは,彼の財産についてであっても,又は他者の財産についてであっても債務者が原則として実行することができ,また合法である行為であって,債権者のより大きな利益のために実行しない旨約したものを差し控えることである。建物を賃貸し,又は商用地を譲渡した者が,賃借人又は譲受人の利益のために,彼らと競合するものとなるべき事業又は商業を行うことを自らに禁ずる場合のごとし。」(p.6)といった説明をしています。

旧民法財産編2931項にある「人権」の語は,「人権ト云フ字ハドウモ面白クナイノハ人権ト言ヘバ人ノ権デアリマスガ物権デモ人ノ権デアリマスガ物権デモ人ノ権デアリマスシ又対(ママ)権ト言ヒマシテモ矢張リ人ノ権デ只主タル目的ガ直接ノ物ニ関スルト云フ位デアリマシテドウモ此人権ト云フ字ハ能ク考ヘテ見マスト穏カデアリマセヌト思ヒマス人権消滅トカ人権ヲ譲渡ストカ人権ヲ抛棄スルトカドウモ斯ノ如キ場合ニ使ウ訳ニハ往キマセヌ55回法典調査会議事速記録966-967頁(穂積陳重)),「「各()天賦ノ()利」ノ意義ニモ之ヲ用ヒ日本ノ従来ノ慣例ニ視テ債権ト同一ノ意義ニ之ヲ用フルコト極メテ穏当ナラサルカ故ニ新民法ニ於テハ常ニ債権(〇〇)ナル文字ヲ用ヒ敢テ人権ナル文字ヲ用ヒス」ということで(梅2-3頁),現在は民法用語ではなくなっています。

旧民法財産編2932項の「人定法又ハ自然法ノ羈絆」とはものものしいのですが,同法財産編294条を見ると,「人定法ノ義務ハ其履行ニ付キ法律ノ許セル諸般ノ方法ニ依リテ債務者ヲ強要スルコトヲ得ルモノナリ/自然ノ義務ニ対シテハ訴権ヲ生セス」とあります。「法ノ羈絆」との語は,ローマ法用語のvinculum jurisに由来するものです(Boissonade II p.5)。

 

イ 自然の義務ないしは自然債務

 

(ア)起草者の見解

なお,旧民法財産編562条(「自然義務ノ履行ハ訴ノ方法ニ依リテモ相殺ノ抗弁ニ依リテモ之ヲ要求スルコトヲ得ス其履行ハ債務者ノ任意ナルコトヲ要シ之ヲ其良心ニ委ス」)以下にはあった自然義務(Obligation naturelle, Naturalobligation)ないしは自然債務の規定は現在の民法にはないのですが,梅謙次郎によれば,これは「元来羅馬法ノ如ク形式ニ拘泥スルノ極法律カ保護スヘキ権利ニシテ唯形式ニ缺クル所アルカ為メ之ヲ保護スルコト能ハサル場合ニ於テ其法律ノ不備ヲ矯正センカ為メニ完全ナル権利トシテ其効力ヲ認ムルコト能ハサルモ(ママ)メテハ是ヨリ自然義務ナルモノヲ生スルモノトシ之ニ幾分カ不完全ナル効力ヲ付スルヲ以テ已ムコトヲ得サルモノトセシハ敢テ怪シムニ足ラスト雖モ法律ノ進歩スルニ従ヒ凡ソ法律ノ保護スヘキ権利ハ総テ相当ノ方法ヲ以テ之ヲ保護スル以上ハ敢テ其外ニ所謂自然義務ナルモノヲ認ムルノ要ナシ是レ新民法ニ於テハ法律ニ定メタル普通ノ義務即チ法定義務ノ外一種異様ノ義務ヲ認ムルコトヲ為ササル所以ナリ但旧民法,仏民法等ノ如ク所謂原因(〇〇)ナルモノヲ以テ法律行為ノ要素トスルトキハ其原因ナキカ為メ無効タルヘキ法律行為尠カラサルヘキカ故ニ之ヲ有効トスル為メ往往自然義務ノ存在ヲ認ムルノ必要アルヘシト雖モ〔筆者註:ただし,旧民法財産編566条前段は「原因ノ欠缺〔略〕ノ為メ無効ナル合意ハ自然義務ヲ生スルコトヲ得ス」と規定していました。〕新民法ニ於テハ所謂原因ナルモノノ必要ヲ認メサルカ故ニ〔略〕益〻自然義務ノ必要ヲ認メサルナリ」ということでした(梅6-7頁)。

また,189362日の法典調査会第4回民法主査会において穂積陳重によって挙げられた,「既成法典ノ内デ最モ著シキ缺点ト思」われるもの(法典調査会民法主査会議事速記録1巻(日本学術振興会・1937324日写了)149丁裏)たる自然義務に関する規定(旧民法財産編第2部第4章)を,現行民法から削ることとした理由は次の諸点です。第1に「論理上ノ誤謬」を法典上に現わすべきではないということであって(151丁),①事後的な給付保持力だけあって(旧民法財産編5631項参照)後ろ向きである自然義務は義務としてふさわしくない(「日本ノ法典ニ於テ義務ト申シマスルモノハ常ニ人権ニ対(ママ)旧民法財産編2931項・2項参照),「然ルニ此自然義務ト云フモノハ作為若クハ不作為ノ義務ヲ尽サセル事ヲ法律デハ命ジテ居ナイ,唯法律ノ規定トナツテ現ハレルモノガ所謂自然義務ヲ尽シタ後ノ結果ノ事丈ケノコトテアル」(150丁表),「所謂自然ト云フ道徳上ノ義務ナルモノガアツテ夫レガ終リマシタ後ノ事丈ケガ書テアリマス」(150丁裏),「殊更ニ自然義務ト云フ事ヲ此処ニ掲ケテアリマスルト義務ト云フモノハ将来ニ於テ尽サシメルトアリナガラ又他ノ一方ニ於テ尽サシメル事ハ無イト云フコトニナリマスカラシテ即チ法典中ニ於テ前後撞着ノ事ヲ現ハスヤウニナツテ居ルト思ヒマス」(150丁裏)),②名称がおかしく,人定法ノ義務は自然ノ義務ではないから不自然な義務なのか,自然ノ義務は人定法ノ義務でない義務ならばそれを法律(人定法)たる民法典に規定してよいのか,という問題が提起され得る(「又此処ニ自然義務ト云フ事ヲ明カニ掲ケマシタトキハ他ノ義務所謂法定ノ義務ナルモノハ自然ノ道理ト云フモノニ反シテ居ル云フヤウナ意味モ自ラ現ハレルヤウナ嫌ヒモアリマス」(150丁裏),「又法定ノ義務ト云フ事ヲ言フト法定以外ノ義務ト云フモノ〔自然義務〕ヲ又法律デ定メルト云フヤウナ事ニナツテ法理上ノ誤謬ト云フモノヲ此内ニ含ムヤウニナリマス」(150丁裏)),及び③義務が消滅したはずなのに自然義務は存在する場合があって(旧民法財産編569条・570条参照)おかしい(「一方ニ於テハ義務ハ或ル原由ニ依テ消滅スルト云フ事ヲ法律デ殊更ニ定メテ置テ弁済トカ廃棄(ママ)トカ削除(ママ)トカメテキナガラテハ義務消滅原因アツタ義務シテル」等(151丁表)),というような点が指摘されています。第2は,「制裁ノ無イ権利義務ト云フモノガ存スルト云フ事ヲ公然認メルヤウニ」なることは避けたいこと(151丁裏)。第3は,「自然義務ニ関スル規程ト云フモノガ此義務自身ノ規程デ無クシテ或ル法律以外ノ義務ノ弁済ノ結果ト云フモノニ関スル規程デアリマスカラシテ此義務ト云フモノガ既ニ消ヘタ後ノ事ヲ規定スルノデアル,然レバ義務ノ規程デアリマセヌカラシテ縦令ヒ此規程カ入要デアルトシテモ他ノ所ニ之ヲ掲クヘキ」であること(151丁裏)。これは第1の①と関連しています。第4は,自然義務の「性質ト云フモノモ其範囲ト云フモノモ国ニ依リ人ニ依ツテ皆ナ変ツテ居リマスルモノテアリマスカラ一定ノ義務トシテ之ヲ法典ノ上ニ存シテ置ク事ハ宜クナイ」こと(151丁裏-152丁表)。第5は,自然義務の「弁済」は「法律上ノ目カラ言ヘハ義務ノ弁済デハ無」く「贈与ノ効果ヲ生スルモノデアル,即チ単純ノ手渡ニナル贈与ノ効果ヲ生スルモノ」と考えられること(152丁表)。最後に,「諸国ノ法典ニ於テモ我法典ノ如ク委シク緻密ナル事ニマデ立入ツテ此自然義務ノ規程ヲ掲ケタ所ハアリマセヌ,即チ言ハナクテモ宜イ事ヲ細カニ此処ニ挙ケテアルノテアリマシテ此各条デ御覧ニナルト他ノ場合ニ於テ既ニ当然分ツテ居ル結果ヲ殊更ニ列ヘテ居ルニ過キナイ事ガ多イノテアリマス」(152丁)とのボワソナアドのくどい仕事振り批判及び追認,更改又は質若しくは抵当の供与の目的となることによって自然義務が通常の法定の効力を生ずるようになる旨規定する旧民法財産編564条に関しての「之モ厳正ナル法理論カラ言ヘハ素ヨリ法律ノ規程ニ依テ是レヨリシテ新タニ法定ノ義務ノ生スル原因」であるのであって「是ニ依テ自然義務ナルモノガ存在シ継続スルト云フモノデハナイ」(152丁裏)との駄目押しがありました。

 

(イ)カフエー丸玉女給事件

しかし,起草者の前記見解に対して,カフエー丸玉女給事件判決(昭和10425日新聞38355頁)において大審院第一民事部(池田寅二郎裁判長)は注目すべき判示を行います。いわく,「案ずるに原判示に依れば上告人は大阪市南区道頓堀「カフエー」丸玉に於て女給を勤め居りし被上告人と遊興の上昭和81月頃より昵懇と為り其の歓心を買はんが為め将来同人をして独立して自活の途を立てしむべき資金として同年418日被上告人に対し金400円を与ふべき旨諾約したりと云ふに在るも叙上判示の如くんば上告人が被上告人と昵懇と為りしと云ふは被上告人が女給を勤め居りし「カフエー」に於て比較的短期間同人と遊興したる関係に過ぎずして他に深き縁故あるに非ず然らば斯る環境裡に於て縦しや一時の興に乗じ被上告人の歓心を買はんが為め判示の如き相当多額なる金員の供与を諾約することあるも之を以て被上告人に裁判上の請求権を付与する趣旨に出でたるものと速断するは相当ならず寧ろ斯る事情の下に於ける諾約は諾約者が自ら進で之を履行するときは債務の弁済たることを失はざらむも要約者に於て之が履行を強要することを得ざる特殊の債務関係を生ずるものと解するを以て原審認定の事実に即するものと云ふべく原審の如く民法上の贈与が成立するものと判断せむが為には贈与意思の基本事情に付更に首肯するに足るべき格段の事由を審査判示することを要するものとす」云々と。

 

ウ 道徳上の義務及び宗教上の義務

更に前記旧民法財産編294条に関しては,同条に係るボワソナアドの原案(315条)には後に削られた第3項があって,“La loi n’intervient pas dans l’exécution des obligations purement morales ni dans l’observation des devoirs religieux.”(法は,純然たる道徳上の義務の履行又は宗教上の義務の遵守には干与しない。)と規定していました。純然たる道徳上の義務又は宗教上の義務は,確かに現行民法399条を前提としても,同法上の債権の目的とはならないでしょう。「金銭に見積りえない給付を目的とする契約は,単に道徳・宗教などの規律を受けるだけで,法律的効力を生じないものと解すべき場合も絶無ではあるまい。」ということになります(我妻Ⅳ・23頁)。前記東京地判大正2年月日不詳(ワ)922号新聞98625頁も,「外形上の行為」をとらえて,そこに係る約束をもって法的に有効としたわけです(しかし,この判決の理論を推し進めれば,檀家に依頼されて仏教僧の唱える念仏には「一心ニ為ス」ものではない単なる「外形上」のものもあり得る,ということになりますから,かの津地鎮祭事件最高裁判所昭和52713日大法廷判決(民集314533頁)の追加反対意見において「神職は,単なる余興に出演したのではない。」との辛辣の言をもって当該地鎮祭を主宰した神職の尊厳のために獅子吼した藤林益三最高裁判所長官(1968年度の第一東京弁護士会常議員会議長)的発想からすれば,仏教及び仏教僧を侮辱する仏罰必至的判決であるということにもなりそうです。とはいえ藤林長官の潔癖は,基督教徒的生真面目というものであって(ちなみに,テオドシウス大帝的基督教信仰に従えば,新型コロナウイルス感染症の流行云々以前に,そもそも異教起源のオリンピック競技大会など最初から開催してはならないものなのでした。),たとえ念仏に心がこもっていなくても阿弥陀如来は衆生を必ず救ってくださるというところに仏教のおおらかな優越性があるのかもしれません。「念仏をとなえるにさいし「一心ニ為スヘキコトヲ強要スルコトヲ得サル」においては,文字通りの空念仏に帰する」(奥田編旧版58頁(金山正信))わけでは必ずしもないでしょう。「信ぜざれども,辺地懈慢,疑城胎宮にも往生して,果遂の願ゆへに,つゐに報土に生ずるは名号不可思議のちからなり。これすなはち,誓願不思議のゆへなれば,たひとつなるべし。」と『歎異鈔』にあります(しかし,やはり「浄土宗の教義として,・・・正助の業は之を一心に為すに非れば其功徳な」し,ということですので,藤林長官的憤慨は,なお有効であるようです。)。ボワソナアドによれば,「自己の天命を果し,かつ,同胞に対して有為の者たるべく,正直であり,かつ,規律ある生活を送る,というような,人の自己自身に対する義務についていえば,これは既に法的な義務ではなく,道徳上の義務である。」,「彼の悪徳(vices)が他者に直接かつ相当(appréciableな損害を与えない限り,法は干与しない。」ということでした(Boissonade II p.9)。1889年発布の大日本帝国憲法28条が信教の自由について規定していたことから(「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」),ボワソナアド原案3153項の維持は不要とされたとのことです(Boissonade II p.12 (1))。


後編に続く(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1078124004.html