令和の御代の現在から百年ほど前の大正時代,スペイン風邪というものがはやったそうです。

 

1 1918年春

 1918年(大正7年)の春から兆しがありました。「この年〔1918年〕は,普段なら流行が終息するはずの5月頃になってもインフルエンザ様の疾患があちこちで発生しました。例えば軍の営舎に居住する兵士や紡績工場の工員,相撲部屋の関取など,集団生活をしている人たちの間で流行が目立ちました。これらは季節性インフルエンザの流行が春過ぎまで長引いたものなのか,スペインインフルエンザ〔スペイン風邪〕の始まりだったのかは不明です。しかし米国からスペインインフルエンザ第1波(春の流行)が世界に拡散していた時期に一致しますので,この時ウイルスが日本に入ったとも考えられます。」とのことです(川名明彦「スペインインフルエンザ(後半)」内閣官房ウェブサイト・新型インフルエンザ等対策ウェブページ(20181225日掲載))。『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)は,東京朝日新聞を典拠に,1918年「春.― 世界的インフルエンザとなったスペイン風邪,わが国に伝わり,翌年にかけ大流行(死者15万人に及ぶ)」と記しています(234頁)。すなわち,「スペインフルの第一波は1918年の3月に米国とヨーロッパにて始まります」とされているところです(国立感染症研究所感染症情報センター「インフルエンザ・パンデミックに関するQ&A」(200612月))。なお,「スペインフル」の「フル」とは“flu”のことで,influenza(インフルエンザ)の略称です。

世界史年表的には,19183月には,3日にブレスト=リトウスク講和条約が調印されて東部戦線のソヴィエト=ロシアが第一次世界大戦から脱落,21日にドイツ軍が西部戦線で大攻勢を開始します。

 

1918321日,濃い霧が発生した。偶然にも,この日はドイツ軍のソンム川における攻勢予定日であった。ドイツ歩兵は,ほとんど察知されずに英軍の機関銃座を蹂躙した。すぐに,全戦線の崩壊が始まった。英兵は,士官の大部分を含めて,当該大戦中に徴募された兵士たちであった。彼らが訓練を受けたのは,塹壕を固守し,時折そこから攻撃をしかけることであった。彼らには開豁地での戦闘の経験はなかった。念入りに構築された塹壕システムから追い立てられ,彼らは狼狽した。彼らは何とかしのぎつつも,大幅に後退した。ヘイグの〔英〕予備軍は,はるか北方のかなたにあった。(Taylor, A.J.P., The First World War. Penguin Books, 1966. p.218

 

2 1918年初夏

ところで,相撲部屋には,十両以上の「関取」のみならず幕下以下の汗臭い(ふんどし)担ぎもいるわけですが,19185月段階における「インフルエンザ様の疾患」の流行の際(同月「8日付の新聞は「流行する相撲風邪――力士枕を並べて倒れる」という見出しで,「力士仲間にたちの悪い風邪がはやり始めた。太刀山部屋などは18人が枕を並べて寝ていた。友綱部屋では10人くらいがゴロゴロしている」と伝え」,「花形力士の欠場続出で番付も組み替えられた。」という状況であったそうです(「朝日新聞創刊130周年記念事業 明治・大正データベース」ウェブページ)。)角界においては特段の「自粛」はされなかったようです。同月27日月曜日午後の皇太子裕仁親王(当時17歳)について,「水交社において開催の明治三十七八年戦役海軍記念日第13回祝賀会に行啓される〔日露両海軍の日本海海戦は1905527日に発生〕。水交社総裁〔東伏見宮〕依仁親王に御対顔になり,水交社長加藤友三郎海軍大臣以下の親任官及び同待遇に賜謁の後,余興の大相撲を御覧になる。」と伝えられています(宮内庁『昭和天皇実録 第二』(東京書籍・2015年)376-377頁)。

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東伏見稲荷神社(東京都西東京市)


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 西武新宿線東伏見駅(東京都西東京市)

 当該相撲見物(海軍)のせいかそれともその前日の千葉の鉄道聯隊等行啓(陸軍)のせいかどちらかはっきりしないのですが,裕仁親王は同年
6月「7日 金曜日 前月26日の千葉行啓以来,御体調不良のこと多く,本日より当分の間,〔東宮御学問所における〕月曜日から金曜日の授業を1時間減じられる。この措置は,第1学期の間,継続される。」ということになっています(実録二378頁)。東宮御学問所における裕仁親王の授業の時間は,月曜日から金曜日までは本来第5時限まで,土曜日は第2時限までであって,第1時限は午前8時に開始され,第5時限(これは武課及び体操並びに馬術)は午後130分に終了ということでありました(実録二367頁)。ちなみに,東宮御学問所総裁は,海軍大将である東郷平八郎元帥でした。

なお,19185月には横綱になったばかりの栃木山守也は,同月27日に裕仁親王の前でその大技量を発揮したものと想像されますが,歿後,昭和天皇から勲四等瑞宝章を授けられています。

裕仁親王が海軍接待の大相撲を楽しんだ頃,我が友邦フランス共和国に危機が訪れます。

 

 〔1918年〕527日,ドイツ軍14箇師団は戦線を突破し,1日のうちに10マイル前進した。遠い昔の19148月以来,そのようなものとしては最大の前進であった。63日までにドイツ軍はマルヌ川に達し,パリまでわずか56マイルの距離にあった。またしても〔ドイツの〕ルーデンドルフは成功に幻惑された。彼は新兵力を投入したが,それらは〔フランスの〕フォッシュが最終的に予備軍を動かすにつれ,勢いを失い,停止した。彼らはフランス軍の戦線を破摧してはいなかったのであって,ドイツ兵は再び袋の中に向かって進軍してしまっていたのである。また,彼らは北方に控置されていたフォッシュの予備軍を大いに引き寄せてもいなかった。そうではあるものの,ドイツ軍の当該前進は,多大の警報を発せしめた。フランスの新聞に再び「マルヌ川」が現れると,1914年の恐怖の記憶がよみがえった。代議院における非難は高まった。〔フランス首相の〕クレマンソーは頑張り,自己の威信を危険にさらすことまでしてフォッシュをかばった。多くの下位の将軍たちは,相変わらずのやり方で罷免された。事態を更に悪化させることには,軍は疫病(エピデミック)に襲われていた。スペイン流行性(インフル)感冒(エンザ)として知られる20世紀最大の殺人者である。それは世界を席巻し,秋には銃後の市民を次々と斃した。インドだけでも,4年間の大戦の全戦場で死んだ者の総数よりも多くの数の者がそれによって死亡した。大戦はクライマックスに達し,人々は高熱にあえいだ。(Taylor. pp.228-229

 

3 1918年のスペイン風邪流行の始まり

 我が国における本格的なスペイン風邪の流行はいつからかといえば,公益社団法人全国労働衛生団体連合会のウェブサイトにある小池慎也編「全衛連創立50周年事業健康診断関係年表」(201910月)は,「欧州のインフルエンザ流行より34ヵ月遅れて,わが国では〔1918年〕8月下旬から9月上旬にかけて蔓延の兆しを示した。」とあり,防衛医科大学病院副院長の川名明彦教授は「本格的なスペインインフルエンザが日本を襲ったのは19189月末から10月初頭と言われています。」と述べています(川名前掲)。池田一夫=藤谷和正=灘岡陽子=神谷信行=広門雅子=柳川義勢「日本におけるスペインかぜの精密分析」(東京都健康安全研究センター年報56369-374頁(2005年))の引用する内務省衛生局の『流行性感冒』(1922年)によると,「本流行ノ端ヲ開キタルハ大正7年〔1918年〕8月下旬ニシテ9月上旬ニハ漸ク其ノ勢ヲ増シ,10月上旬病勢(とみ)ニ熾烈トナリ,数旬ヲ出テスシテ殆ト全国ニ蔓延シ11月最モ猖獗ヲ極メタリ,12月下旬ニ於テ稍々下火トナリシモ翌〔大正〕8年〔1919年〕初春酷寒ノ候ニ入リ再ヒ流行ヲ逞ウセリ」とあります。8月下旬発端説を採るべきでしょうか。

 

4 米騒動とスペイン風邪ウイルスと

ところで,1918723日には「富山県下新川郡魚津町の漁民妻女ら数十人,米価高騰防止のため米の県外への船積み中止を荷主に要求しようとして海岸に集合(米騒動の始まり)」という小事件があったところ(近代日本総合年表234頁),問題の同年8月には,3日の富山県中新川郡西水橋町での騒動を皮切りに,10日には名古屋・京都両市に騒動が波及,13日及び14日の両日には全国の大・中都市において米騒動が絶頂に達しています(同236頁)。Social distancingもあらばこそ,当該大衆行動は当然人々の密集ないしは密接を伴い,スペイン風邪ウイルスの伝播を促して同月下旬からの流行開始を準備してしまったものではないでしょうか。

内務省衛生局によれば,スペイン風邪が「最モ早ク発生ヲ見タルハ神奈川,静岡,福井,富山,茨城,福島ノ諸県」であって(池田ほか前掲),正に富山県がそこに含まれています。1918917日までに,37市・134町・139村で米騒動の大衆行動,検挙者数万,起訴7708人ということですが(近代日本総合年表236頁),混雑した留置所はもちろん密閉・密集・密接状態であって,三密理念型の絵にかいたような顕現です。

当該流行性感冒の伝播の状況については,最初の前記6県に続いて「之ト相前後シテ埼玉,山梨,奈良,島根,徳島,等ノ諸県ヲ襲ヒ,九州ニ於テハ9月下旬ヨリ10月上旬ニ渉リ熊本,大分,長崎,宮崎,福岡,佐賀ノ各地ヲ襲ヒ,10月中旬ニハ山口,広島,岡山,京都,和歌山,愛知ヲ侵シ,同時ニ東京,千葉,栃木,群馬等ノ関東方面ニ蔓延シ,爾余ノ諸県モ殆ント1旬ノ差ヲ見スシテ悉ク本病ノ侵襲ヲ蒙レリ,10月下旬北海道ニ入リ11月上旬ニハ遠ク沖縄地方ニ及ヒタリ」と内務省衛生局は記録しています(池田ほか前掲)。

 

5 寺内正毅「スペイン風邪対策本部長」による「スペイン風邪緊急事態宣言」及び臣民の「自粛」

軍隊を出動させたり,新聞記事を差し止めたりするばかりの当時の寺内正毅内閣の米騒動対応は,見当違いの大間違いでありました。それに対して,人智の進んだ2020年の第4次安倍晋三内閣時代における我々の目から見た正解はどのようなものであったかといえば,次のごとし。

衛生行政所管の水野錬太郎内務大臣がいち早くスペイン風邪の「まん延のおそれが高いと認め」た上で(新型インフルエンザ等対策特別措置法(平成24年法律第31号。以下「新型インフルエンザ法」といいます。)附則1条の22項参照),寺内内閣総理大臣にスペイン風邪の発生の状況,スペイン風邪にかかった場合の病状の程度その他の必要な情報の報告をします(新型インフルエンザ法14条参照)。

それを承けて寺内内閣は,後付け気味ながらも政府行動計画を閣議決定して(新型インフルエンザ法62項・4項参照),更に――スペイン風邪の病状は普通のインフルエンザ(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(平成10年法律第114号)661号)のそれよりも重いわけですから(新型インフルエンザ法151項参照)――大正天皇の勅裁を得て(大日本帝国憲法10条の官制大権)臨時に内閣にスペイン風邪対策本部を設置し(新型インフルエンザ法151項参照),同対策本部(その長たるスペイン風邪対策本部長は,寺内内閣総理大臣(新型インフルエンザ法161項参照))は政府行動計画に基づいてスペイン風邪に係る基本的対処方針を定めます(新型インフルエンザ法181項・2項参照)。

寺内内閣総理大臣兼スペイン風邪対策本部長はスペイン風邪対策本部の設置及びスペイン風邪に係る基本的対処方針を公示し(新型インフルエンザ法152項,183項参照),スペイン風邪の脅威という命にかかわる大問題を前にして米の値段がちいと高いぞ云々とたかが経済の問題にすぎないつまらないことで暴れまわっているんじゃないよ,経済よりも人命だぞ,と人民に警告を発しおきます。

しかしてスペイン風邪が国内で発生したことが確認され次第直ちに――スペイン風邪には「国民の生命及び健康に著しく重大な被害を与えるおそれ」があり,かつ,「その全国的かつ急速なまん延により国民生活及び国民経済に甚大な影響」を及ぼすおそれがあることは自明ですから――寺内正毅スペイン風邪対策本部長はスペイン風邪緊急事態宣言をおごそかに発し(新型インフルエンザ法321項参照),かつ,直ちに北海道庁長官,府県知事及び警視総監をして,住民に対しては「生活の維持に必要な場合を除きみだりに当該者の居宅又はこれに相当する場所から外出しないことその他の」スペイン風邪の「感染の防止に必要な協力を要請」(新型インフルエンザ法451項参照)せしめ,多数の者が利用する施設を管理する者又は当該施設を利用して催物を開催する者に対しては「当該施設の使用の制限若しくは停止又は催物の開催の制限若しくは停止その他」を指示(新型インフルエンザ法452項・3項参照)せしめます(新型インフルエンザ法201項・331項参照)。

事業者及び臣民は政府のスペイン風邪対策に「協力するよう努めなければならない」責務を有するのですから(新型インフルエンザ法41項参照),非国民ならざる忠良な臣民は当然真摯に自粛してみだりに「居宅又はこれに相当する場所から外出」することはなくなって街頭の米騒動は直ちに終息,「即ち当時欧洲大戦の影響に因り,物価の昂騰著しきものあり,特に生活必需品の大宗たる米価は奔騰に奔騰を重ねて正に其の極を知らざる状態であつた。かくして国民の多数は,著しく生活の脅威に曝さるゝに至り,遂に所謂米騒動なるものが随所に勃発し,暴行掠奪の限りが尽さるゝに至つた。かくして寺内内閣は,これが責任を負ふて遂に退陣の止むなきに至つたのである。」(山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)357頁)ということにはならなかったことでありましょう。(現実には1918921日に寺内内閣総理大臣は辞表を提出,西園寺公望の大命拝辞を経て同月29日に原敬内閣が成立しました(近代日本総合年表236頁)。)

 

6 原敬内閣の初期の取組

原内閣は初の本格的政党内閣といわれていますが,ウイルス様からしてみれば官僚と政党人との区別はつかないのでしょうから,スペイン風邪の前には,政党主導の政府も無力であったようです。事実,原敬自身慎重で,「原は新聞記者の前田まえだ蓮山れんざんに,「あまり吾輩に期待すると失望するぜ。年をとると,いろいろと周囲の事情が複雑になってね。なかなか身動きが自由にならん」と語っていた」そうです(今井清一『日本の歴史23大正デモクラシー』(中央公論社・1966年)186頁)。

所管の床次竹二郎内務大臣は,就任後半月を経た19181016日の段階における原内閣閣僚による皇太子裕仁親王拝謁の際独り「所労」のため拝謁をしていませんが(実録二412頁),果たして何をしていて疲労していたのでしょうか。同月10日には友愛会東京鉄工組合創立総会が開催されていますが(近代日本総合年表236頁),内務省は,そのような多人数の集まる危険な企てに対して,「いのちを守るStay Home/ウチで過ごそう」と要請して当該総会の開催を阻止することはできなかったようです。また,床次内務大臣が総裁を兼務していた鉄道院は,同年116日から2等寝台2人床の大人2人による使用を禁止することとしていますが,その理由は「風紀維持」という艶めかしいものであって(近代日本総合年表236頁),命にかかわるスペイン風邪に対する三密禁止を徹底せんとの真剣な危機感が感じられないところです。
 原内閣総理大臣自身,「大正7年(1918年)1011日,原首相は東京商業会議所主催の内閣成立祝賀午餐会にのぞんで,教育の改善・交通通信機関の整備・国防の充実・物価の自然調節という積極政策をとることを明らかにした。この最後の項目を産業の奨励とさしかえたものが,いわゆる政友会の四大政策である。」ということで(今井221頁),三密午餐会に得々として出席しているのですから,そもそも示しがつかない。更に「四大政策」についていえば,教育の改善は「この増設案では,高等学校10校,高等商業7校,高等工業6校,高等農林4校,外国語学校・薬学専門学校各1校,計29校と,ほぼこれまでの学校数を倍増することにしたのをはじめ,総合大学の学部増設,専門学校の単科大学への昇格などがふくまれていた。またあらたに大学令が公布され,帝国大学のほかに官立・公立・私立の大学を認め,これまで専門学校として扱ってきった私立大学にも,名実ともに大学となる道を開いた。」(今井222頁)という青年らが集まってクラスターとなりかねない施設の増設をもって「改善」と称するものであって遠隔教育という最重要課題に対する取組が欠落しており,交通機関を整備してしまうとかえって人的接触が増大してスペイン風邪の流行を助長するのでまずく,国防を充実して鎖国に戻って海外からのウイルス侵入を防ぐのはよいとしても,本来は自粛してあるべき産業の奨励なんぞより先に,命を守るためのマスク及び現金の支給を全臣民に対して直ちに行うべきでありました。

Abenomask

The Abenomask of 2020: a humanely-advanced brave countermeasure of the 21st century against the stale coronavirus-pandemic of lurid public hallucinations in Japan
 

ということで,「インフルエンザは各地の学校や軍隊を中心に1カ月ほどのうちに全国に広がりました。〔1918年〕10月末になると,郵便・電話局員,工場・炭鉱労働者,鉄道会社従業員,医療従事者なども巻き込み,経済活動や公共サービス,医療に支障が出ます。新聞紙面には「悪性感冒猖獗(しょうけつ)」,「罹患者の5%が死亡」,山間部では「感冒のため一村全滅」といった報道が見られるようになります。この頃,死者の増加に伴う火葬場の混雑も記録されています。」という状況になります(川名前掲)。

我が国におけるスペイン風邪の「第1回目の流行による死亡者数は,191810月より顕著に増加をはじめ,同年11月には男子21,830名,女子22,503名,合計44,333名のピークを示した後,同年12月,19191月と2か月続けて減少したが,2月には男子5,257名,女子5,146名,合計10,403名と一時増加し,その後順調に減少した。」ということで(池田ほか前掲),これだけの数の国民をみすみす死なせてしまった(11月の44333人は,死亡者数であって,単なる感染者数ではありません。)原内閣はなぜ早々に崩壊しなかったのかと,今からすると不思議に思われます。(19191月に内務省衛生局は「流行性(はやり)感冒(かぜ)予防心得」なるものを公開して現在いうところの「咳エチケット」的なことを唱道していますが(川名前掲)手ぬるかったようで,翌月には,上記のとおり,スペイン風邪の死者数が再び増加してしまっているところです。

しかも,流行ピークの191811月には,(かしこ)き辺りにおいても恐るべき事態となっていたのでした。

 

7 191811

 

(1)裕仁親王の流行性感冒感染

 

 〔191811月〕3 日曜日 午前10時御出門,新宿御苑に行啓され,〔皇太子は〕供奉員・出仕をお相手にゴルフをされる。御体調不良のため,予定を早め午後115分御出門にて御帰還になる。流行性感冒と診断され,直ちに御仮床にお就きになり,以後15日の御床払まで安静に過ごされる。御学問所へは18日より御登校になる。なお,この御病気のため,9日に予定されていた近衛師団機動演習御覧のための茨城県土浦付近への行啓はお取り止めとなる。(実録二416頁)

 

 結果としては回復せられたのですから結構なことです。しかし,皇太子裕仁親王殿下がスペイン風邪という命にかかわる恐ろしい病に冒されたというのに,原内閣総理大臣も,床次内務大臣も,波多野敬直宮内大臣も,東郷東宮御学問所総裁も,だれも恐懼して腹を切らなかったのですね。(さすがに,御親であらせられる大正天皇及び貞明皇后からは同月6日には御病気御尋があり,同月11日には貞明皇后から更に御尋がありました(実録二417頁)。なお,原内閣総理大臣は,同年1025日(金曜日)夜の北里研究所社団法人化祝宴において夫子自らスペイン風邪に罹患してしまって翌同月26日(土曜日)晩には腰越の別荘で38.5度の熱を発したものの,同月29日(火曜日)の日記の記述においては「風邪は近来各地に伝播せし流行感冒(俗に西班牙風といふ)なりしが,2日斗りに下熱し,昨夜は全く平熱となりたれば今朝帰京せしなり。」と豪語していますから(曽我豪「スペイン風邪に感染した平民宰相・原敬。米騒動から見えたコロナ禍に通じる教訓」朝日新聞・論座ウェブサイト(2020411日)における引用による),みんな騒いでいるようだがスペイン風邪など実は大したことなどなかったのだよと不謹慎に高を括っていたのかもしれません。事実,問題の1918113日には芝公園広場における政党内閣成立の祝賀会に出席し,密集した人々と密接しつつ,「平民宰相」は御満悦の笑顔を見せておりました(今井221頁の写真)。

「天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ承継シ」た(大日本帝国憲法告文)大正天皇の下のいわゆる大正デモクラシーの時代は,「57歳となられ,これまで国事行為の臨時代行等の御公務に長期にわたり精勤されておられる」こと等に鑑みてその即位が全国民を代表する議員で組織された国会の立法により実現せしめられた(天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)1条・2条,日本国憲法431項・591項)今上天皇を戴く我らが令和の聖代に比べて,尊皇心に欠けるけしからぬ時代であったものか。それとも単に,たとい皇太子であっても人命尊重には限界があり,かつ,「当時は抗菌薬や抗インフルエンザウイルス薬は無く,安静,輸液,解熱剤など対症療法が主」であったので(川名前掲。なお,現在においても新型ウイルス感染症などについては,せっかく高い期待をもって検査をしてもらっても肝腎の陽性の人のための抗ウイルス薬はなく,安静にして対症療法を受けるしかないという何だぁがっかりの状況もあるでしょう。),所詮医学は天命の前には無力であり,医師も当てにはならぬとの無学野蛮な諦念があったものか。

 

(2)医学及び医師に対する信頼の新規性(脱線)

医学及び医師の威信が甚だしく向上したのは,実は20世紀もしばらくたってからのことなのでしょう。例えば18世紀末には依然,医師など呼ぶとかえって碌なことにならなかったようです。17991214日,ただの風邪だと思っていた病気を悪化させ,喉に炎症を発し呼吸困難となっていた67歳のジョージ・ワシントン最期の日・・・

 

   彼らが〔アレクサンドリア在のスコットランド系の医師でフレンチ=インディアン戦争以来ワシントンに献身的に仕えてきた〕クレイク医師を待つ間,マーサ〔夫人〕はポート・タバコ在の有名なガステイヴァス・リチャード・ブラウン医師を呼んだ。クレイク医師は最初に到着し,更に瀉血を行い,かつ,炎症を表に出すために,干した甲虫〔Spanish fly〕から作られた薬であるキャンサラディーズを喉に施して,既に行われていた中世の療法を継続した。彼はまた,ワシントンに,酢と湯とで満たされたティーポットから蒸気を吸引させた。酢を混ぜたサルビアの葉の煎薬でうがいをしようと頭をのけぞらせたとき,ワシントンは窒息しそうになった。クレイク医師は驚駭し,第3の医師,すなわちベンジャミン・ラッシュ医師の下で学んだアレクサンドリア在の若いフリー・メイソン会員であるエリシャ・カレン・ディックを呼んだ。彼は到着すると,クレイクと一緒に更に多くの血液を抜き出すことに加わった。それは「ゆっくりと流れ出,濃く,何らかの気絶の症状をもたらす様子はなかった。」と〔秘書の〕リアは記録している。彼らはまた,浣腸剤を使ってワシントンの腸を空にした。とうとうブラウン医師も加わって,彼らは既に消耗しているワシントンの肉体から更に2パイント〔1パイントは約0.47リットル〕の血を抜いた。ワシントンは合計5パイント,あるいは彼の肉体中の全血液量の約半分を失うことになったと見積もられている。ディック医師は,なお一般的ではなく,かつ,高度に実験的であった治療法――呼吸を楽にするために,ワシントンの気管に穴を穿(うが)ち開ける気管切開術――を提案したが,これはクレイク及びブラウンによって却下された。「あの手術がされなかったことを,私はずっと後悔し続けるでしょう。」と,当該3医師を,溺れて藁をもつかもうとする者に例えつつ,後にディックは述べている。しかし,既に衰弱していた彼の状態を前提とすると,ワシントンがそのような施術を受けて生き延び得たということはとてもありそうにないことである。(Chernow, Ron, Washington: a Life. Penguin Press, 2010. p.807

 

溺れて藁をもつかもうとするというような殊勝な話ではなく,上記3医師が医療の名のもとにやらかした行為は,むしろ猟奇的血抜きの悪魔的狂乱のようでもあります(更に浣腸までしている。)。

 

  人体にはおよそ4ℓから5ℓの血液があり・・・

  君の体格なら・・・

  おそらく・・・4.5ℓといったところか

  君は・・・

  その血液を賭ける・・・!

  〔略〕

  通常「死」は総血液量の1/3程が

  失われる頃から

  そろりそろりと忍び寄り

  1/2を失うのを待たず・・・

  まず・・・絶命する・・・!

  〔略〕

  もっともそれより早く死ぬこともあり得る

  急激に抜けば

  1/3・・・

  つまり1500ccでも充分死に至る

  仮に死なないとしても意識混濁は激しく・・・

  まず・・・麻雀など興じている状態ではあるまい(福本伸行『アカギ――闇に降り立った天才』第67話)

 

(3)少年の生と老人の死と

 17歳の裕仁親王は1918113日の流行性感冒の診断から十余日で回復し,免疫を獲得してしまいましたが,『昭和天皇実録』の1918113日条は,若き裕仁親王の流行性感冒感染経験の記述に続いて,84歳の老人の死を伝えます。

 

  臨時帝室編修局総裁伯爵土方久元大患につき,御尋として鶏卵を下賜される。土方は4日死去する。〔略〕土方は旧土佐藩出身にて武市半平太の土佐勤王党に参加し討幕運動にも加わる。維新後は,元老院議官,宮中顧問官,農商務大臣などを経て,明治20年より31年まで宮内大臣を務めた。その後は帝室制度取調局総裁心得などを経て,臨時帝室編修局総裁として明治天皇の御紀編修に尽力した。一方で,明宮御用係,明宮御教養主任,東宮輔導顧問なども務め,〔大正〕天皇の御教育・御輔導にも深く関わり,皇太子に対しても,皇孫・皇太子時代を通じ,しばしば御殿・御用邸に参殿・参邸し,御機嫌を奉伺するところがあった。(実録二416-417頁)

 

 武市半平太も同じ土佐の坂本龍馬も三十代で非命に斃れたことを思えば,土方は大臣にもなって八十代半ばまで生きたのですから,とても悔しいです土方伯爵のかけがえのない尊い命が迅速にロックダウンをしなかった床次内務大臣・原内閣総理大臣の無策のために84歳の若さで奪われたことは到底許せません,などと言い募るべきものかどうかは考えさせられるところがあります。なお,土方は死の8日前の19181027日には日本美術協会において同協会の会頭として裕仁親王に拝謁していますから(実録二414頁),確かに突然の死ではありました。(ちなみに,19181027日の鷗外森林太郎の日記『委蛇録』には,「27日。日。雨。皇儲駕至文部省展覧会,日本美術協会。予往陪観。」とあります(『鷗外選集第21巻 日記』(岩波書店・1980年)278頁)。また,1918113日には,森帝室博物館総長兼図書頭は正倉院曝涼監督のために東京から奈良に移動しています。同日は好天で,富士山が美しかったようです。いわく,「是日天新霽。自車中東望。不二山巓被雪。皓潔射目。雪之下界。作長短縷之状。如乱流蘇。」(鷗外279頁)。不要不急の出張ではなかったものでしょう。)

 

(4)第一次世界大戦の戦いの終了

 欧州では,裕仁親王が流行性感冒と診断された113日にはオーストリア=ハンガリー帝国が連合国と休戦協定を調印し,ドイツのキール軍港では水兵が叛乱を起していました。119日にはベルリンで宰相マックス公が社会民主党のエーベルトに政権を移譲し,ドイツ共和国の成立が宣言されます。同月10日,ドイツのヴィルヘルム2世はオランダへと蒙塵。同月11日午前5時にはドイツと連合国との間に休戦協定が調印され,当該協定は同日午前11時に発効しています。第一次世界大戦の戦いは終わりました。

 昭和天皇統治下の大日本帝国敗北の27年前のことでした。


8 3回のスペイン風邪流行

 我が国のスペイン風邪流行は,前記『近代日本総合年表 第四版』によれば1918年春から1919年にかけての1回限りであったように思われるところですが,実は3にわたったようです。第1回の流行は19188月から19197月まで(小池年表,川名前掲,池田ほか前掲),第2回の流行は19198月(池田ほか前掲),9月(川名前掲)又は10月下旬(小池年表)から19207月まで(小池年表,川名前掲,池田ほか前掲),第3回の流行は19208月から(小池年表,川名前掲,池田ほか前掲)19215月(小池年表)又は7月(川名前掲,池田ほか前掲)までと分類されています。

 

(1)第1回流行(1918-1919年):竹田宮恒久王の薨去

 第1回流行時の患者数は,21168398人(池田ほか前掲,川名前掲)又は21618388人(小池年表)とされ(こうしてみると,小池年表は数字を書き写し間違えたものかもしれません。),19181231日現在の日本の総人口56667328人に対する罹患率は37.3パーセントとなりました(池田ほか前掲。川名前掲は「日本国内の総人口5,719万人に対し」罹患率「約37」としています。)。第1回流行時の総死亡者数は257363人(小池年表,池田ほか前掲(内務省衛生局『流行性感冒』(1922年)に基づくもの)。川名前掲は「257千人」)又は103288人(池田ほか前掲(人口動態統計を用いて集計したもの))であって,前者の死亡者数に基づく患者の死亡率は1.22パーセントでした(小池年表,池田ほか前掲。川名前掲は「1.2」)。

 第1回流行時には,皇族に犠牲者が出ています。

 

  〔1919423日〕午後735分,〔竹田宮〕恒久王が薨去する。恒久王は本月12日より感冒に罹り,17日より肺炎を併発,20日には重態の報が伝えられる。よって皇太子よりは,その病気に際して御尋として鶏卵を贈られ,重態に際しては東宮侍従牧野貞亮を遣わし葡萄酒を御贈進になる。また,この日危篤との報に対し,急遽牧野侍従を竹田宮邸へ遣わされる。(実録二446頁)

 

 恒久王の父は,原敬内閣総理大臣の出身藩である南部藩等によって戊辰戦争の際結成された奥羽越列藩同盟の盟主たりし輪王寺宮こと北白川宮能久親王でした。日清戦争の下関講和条約後の台湾接収の際征台の近衛師団長を務めて同地で病歿した「能久親王は幕末期には公現法親王と称し,日光東照宮を管理する輪王寺宮として関東に下向した。幕府崩壊時には江戸を脱出して宮城白石にあって奥羽越列藩同盟の精神的盟主となり,天皇に即位したとも言われている人物である。仙台藩降伏後は謹慎処分となったが,還俗してドイツに留学,北白川家を継いで陸軍軍人とな」った宮様であるとのことです(大谷正『日清戦争』(中公新書・2014年)223頁)。しかし,明治大帝に抗する対立天皇として立ったとは,北白川宮家及び竹田宮家は,御謀叛のお家柄歟。

 恒久王薨去のため,当初1919429日に予定されていた皇太子裕仁親王の成年式(明治皇室典範13条により皇太子は満18年をもって成年)は延期となり(同月25日発表),同年51日に至って同月7日に挙行の旨が告示され(実録二448),同日無事挙行され(実録二453-457。「7日。水。天候如昨〔暄晴〕。皇儲加冠。予参列賢所。詣宮拝賀。」(鷗外293頁)とあります。),また翌同月8日には宮中饗宴の儀が行われました(実録二457-458。「木。晴。赴宮中饗宴。」(鷗外293頁)。)。恒久王の薨去に係る服喪に伴う延期はあっても(同年4月「30日。水。陰雨。会恒久王葬乎豊島岡。」(鷗外293頁)とあります。),スペイン風邪の流行については,三密回避など全くどこ吹く風という扱いです。

 

(2)第2回流行(1919年‐1920年):雍仁親王の罹患

 第2回流行時においては,患者数が2412097人(池田ほか前掲,川名前掲),死亡者数は127666人(池田ほか前掲(内務省衛生局『流行性感冒』に基づくもの)。川名前掲は「128千人」)又は111423人(池田ほか前掲(人口動態統計を用いて集計したもの))であって,前者の死亡者数に基づく患者の死亡率は5.29パーセント(池田ほか前掲。川名前掲は「5.3」)でした。

2回流行時における患者死亡率については,内務省衛生局の『流行性感冒』は「患者数ハ前流行ニ比シ約其ノ10分ノ1ニ過キサルモ其病性ハ遥ニ猛烈ニシテ患者ニ対スル死亡率非常ニ高ク〔1920年〕34月ノ如キハ10%以上ニ上リ全流行ヲ通シテ平均5.29%ニシテ前回ノ約4倍半ニ当レリ」と述べています(池田ほか前掲の引用)。「流行時期によりウイルスが変異することが往々にして観察される」ところ,「スペインかぜ流行の際にも原因ウイルスが変異し,その結果として死亡率が大幅に増加したものと考えることができる。」とされています(池田ほか前掲)。

「大正78年〔19181919年〕ニ亘ル前回〔第1回〕ノ流行ハ〔略〕春夏ノ交ニ至リ全ク終熄ヲ告ケタレトモ再ヒ〔大正〕8年〔1919年〕10月下旬,向寒ノ候ニ及ヒテ神奈川,三重,岐阜,佐賀,熊本,愛媛等ニ流行再燃ノ報アリ,次テ11月ニ至リ東京,京都,大阪ヲ始メトシ茨城,福島,群馬,長野,新潟,富山,石川,鳥取,静岡,愛知,奈良,和歌山,広島,山口,香川,福岡,大分,鹿児島,青森,北海道等ニ相前後シテ散発性流行ヲ見,爾余ノ諸県モ漸次流行ヲ来スニ至」っていたところ(池田ほか引用の内務省衛生局『流行性感冒』),死亡者数は,「191912月より増加を開始し,19201月に〔略〕ピークを示した後順調に減少」しています(池田ほか前掲)。「斯クテ各地ニ散発セル病毒ハ再ヒ漸次四囲ニ伝播シ,遂ニ一二県ヲ除キテハ何レモ患者ノ発生ヲ見サル処ナキニ至リ,翌春〔1920年〕1月に及ヒ猖獗ヲ極メ多数ノ患死者ヲ出シタリ,3月ヨリ漸次衰退シテ67月ニ至リ全ク終熄シタリ」というわけです(池田ほか引用の内務省衛生局『流行性感冒』)。

 第2回流行時には,後に19261225日から19331223日まで皇嗣殿下(ただし,立皇嗣の礼は行われず。)となられる淳宮雍仁親王(裕仁親王の1歳違いの弟宮)が,第1回流行時よりも「遥ニ猛烈」な病性となったスペイン風邪に感染したようです。

 

  雍仁親王は去る〔19201月〕16日以来,流行性感冒のため病臥につき,〔同月20日〕皇太子〔裕仁親王〕より御尋として5種果物1籠を贈進される。〔同月〕22日,東宮侍従本多正復を御使として遣わされ,鶏卵・盆栽を御贈進になり,222日には同甘露寺受長を御使として差し遣わされる。雍仁親王の違例は34日に至る。(実録第二543頁)

 

正に19201月は,スペイン風邪の第2回流行時の死亡者ピーク月です(男子19835人,女子19727人の合計39362人(池田ほか前掲))。やんごとなき皇族の方々にあらせられても,ロックダウンなどという大袈裟かつよそよそしいことはされておられなかったので(ただし,同月8日に予定されていた宮城前外苑における陸軍始観兵式は,「感冒流行の理由をもって〔大正〕天皇は臨御されざることとなり,観兵式は中止」ということになっています(実録二541頁)。その後,大正天皇は,同年49日以降「御座所における御政務以外は,一切の公式の御執務を止められ,専ら御摂養に努めらるること」となっています(実録二574頁)。),もったいなくも,我ら草莽の人民と休戚のリズムを共にせられていたということでしょうか。しかして,雍仁親王は1箇月半以上もダウンせざるを得なかったのですから,確かに重い流行性感冒です。

ところで,皇太子殿下から御尋で5種果物や鶏卵などを贈られてしまうと,兄弟愛云々ということももちろんあるのでしょうが,191964日の徳大寺実則(同日「元侍従長大勲位公爵徳大寺実則病気危篤の報に接し,〔裕仁親王は〕御尋として葡萄酒を下賜される。また,去る〔同月〕2日には病気御尋として5種果物1籠を下賜される。実則はこの日午後7時死去する。」(実録二469-470頁)),191811月の前記土方久元(鶏卵)及び19194月の同じく前記竹田宮恒久王(鶏卵及び葡萄酒)の各例などからすると,5種果物の次はとうとう鶏卵を下されたのだね僕もいよいよ最期かな,しかし兄貴はうまい具合に先に軽く感染して免疫ができてずるいよなあ,これまで18年近く生きてきたけど兄貴を一生立てるべき次男坊に生まれてはさして面白いこともなかったよ,三好愛吉傅育官長も去年の紀元節の日にインフルエンツア肺炎で逝っちゃたけど確かにインフルエンツアがこう彼方にも此方にも流行しては居る処が無いような気がするなぁ,などと雍仁親王におかせられてはひそかに御覚悟せられるところがひよっとしたらあったかもしれません。(しかし,鶏卵の例についていえば,1919213日(この月は,前記のとおり,スペイン風邪第1回流行時において流行の再燃があった月です。)には小田原滞在中の山県有朋に対し,「感冒症より肺炎を発し重患の趣につき,病気御尋として鶏卵」が皇太子裕仁親王から下賜されているにもかかわらず(実録二435。確かに同日の山県の容態は重篤であったようで,森林太郎図書頭も図書寮から小田原に駆けつけています。いわく,「13日。木。朝晴暮陰。参寮。問椿山公病乎古稀庵。船越光之丞,安広伴一郎及河村金五郎接客。清浦奎吾,井上勝之助,中村雄次郎,穂積陳重等在座。出門邂逅古市公威。」(鷗外289頁)。),この80歳の奇兵隊おじいさんはしぶとく回復し,同年69日には裕仁親王の前に現れています(実録二470頁)。また,差遣先の山梨県下で罹病して1920119日から山梨県立病院に入院した東宮武官浜田豊城にも,裕仁親王から「病気御尋として鶏卵」が下賜されていますが,浜田東宮武官は1週間で退院しています(実録二542頁)。果物1籃だけならば,雍仁親王は1919420日に不例の際御尋として裕仁親王から贈進を受けたことがあり,その後同月29日に床払いに至っています(実録二446頁)。とはいえ,192035日に死亡した内匠頭馬場三郎(元東宮主事)の病気に際しては裕仁親王から「御尋として果物を下賜」されていたところではあります(実録二549頁)。なお,医者も不養生で病気に罹っており,陸軍省医務局長軍医総監たりし森林太郎も1918124日には「水。晴。参館。還家病臥。」と寝込んでしまい,同月7日には「土。晴。在蓐。従4日至是日絶粒。是日飲氵重〔さんずいに重で一字〕。」,同月9日になって粥が食べられるようになり(「夕食粥」),「10日。火。晴。在蓐。食粥如前日。起坐。」,同月14日にようやく普通の食事ができるようになって(「土。陰。園猶有雪。食家常飯。」),同月16日にやっと「月。晴。病寖退。而未出門。」,職務復帰は同月20日のこととなりました(鷗外284-285頁)。時期からいって,これはスペイン風邪でしょう。長期病欠の帝室博物館総長兼図書頭には,皇室から鹿肉や見舞金が下賜されています。すなわち,「〔191812月〕18日。水。晴。在家。上賜鹿肉。所獲於天城山云。東宮賜金。/19日。木。陰。猶在家。両陛下賜金。」(鷗外285頁)。さすがにもうそろそろ出勤しないとまずい頃合いとはなったようです。

スペイン風邪の第2回流行時においては「感染者ノ多数ハ前流行ニ罹患ヲ免レタルモノニシテ病性比較的重症ナリキ,前回ニ罹患シ尚ホ今回再感シタル者ナキニアラサルモ此等ハ大体ニ軽症ナリシカ如シ」ということだったそうですから(池田ほか引用の内務省衛生局『流行性感冒』),接触8割削減を目指して第1回流行時に真面目に自粛して引きこもった真摯な人々よりも,ままよと己が免疫力及び自然治癒力の強さを信じて第1回流行時に早々に感染して免疫をつけてしまった横着な人々の方がいい思いをしたということでしょうか。ただし,スペイン風邪に係る感染遷延策が常に裏目に出たわけではないようで,「このなかでオーストラリアは特筆すべき例外事例でした。厳密な海港における検疫,すなわち国境を事実上閉鎖することによりスペインフルの国内侵入を約6ヶ月遅らせることに成功し,そしてこのころには,ウイルスはその病原性をいくらかでも失っており,そのおかげで,オーストラリアでは,期間は長かったものの,より軽度の流行ですんだとされています。」ともいわれています(感染症情報センター前掲)。

いずれにせよ「感染伝播をある程度遅らせることはできましたが,患者数を減らすことはできませんでした。」(感染症情報センター前掲)ということになるのでしょうか。「西太平洋の小さな島では〔オーストラリア〕同様の国境閉鎖を行って侵入を食い止めたところがありましたが,これらのほんの一握りの例外を除けば,世界中でこのスペインフルから逃れられた場所はなかったのです。」とされています(感染症情報センター前掲)。 

 

  Etiam si quis timiditate est et servitute naturae, coronas congressusque ut hominum fugiat atque oderit, tamen is pati non possit, ut non anquirat aliquem, apud quem emovat virus aegritudinis suae. 

 

(3)第3回流行(1920年‐1921年):杉浦重剛の仮病

3回流行時においては,患者数が224178人(小池年表,池田ほか前掲,川名前掲),死亡者数は3698人(小池年表,池田ほか前掲(内務省衛生局『流行性感冒』に基づくもの),川名前掲)又は11003人(池田ほか前掲(人口動態統計を用いて集計したもの))であって,前者の死亡者数に基づく患者の死亡率は1.65パーセント(小池年表,池田ほか前掲。川名前掲は「1.6%」)でした。

「わが国のスペインインフルエンザもその後国民の大部分が免疫を獲得するにつれて死亡率も低下し」,第3回の流行時には「総患者数からみてもすでに季節性インフルエンザに移行していると見たほうが良いかもしれません。」ということになったようです(川名前掲)。

ところで,スペイン風邪の第3回流行時である1920124日,東宮御学問所御用掛杉浦重剛は病気を理由に辞表を提出し,同月6日から翌年の東宮御学問所の終業まで,次代の天皇の君徳涵養にかかわる倫理の講義は行われないこととなってしまいました(実録二663664頁)。これについて,杉浦重剛もとうとうスペイン風邪に罹患してしまったが当時は遠隔授業を行い得る設備は東宮御学問所といえども存在せず嗚呼忠臣杉浦天台は涙を呑んで「いのちを守るStay Home」をしたのか健気なことである,と考えるのは早とちりであって,これは杉浦の仮病です。1921218日の東宮御学問所終業式に,辞めたはずの杉浦は出席整列しています(宮内庁『昭和天皇実録 第三』(東京書籍・2015年)1819頁)。

この間の事情について,『昭和天皇実録』の1921210日条はいわく。

 

 10日 木曜日 この日夕方,皇太子と良子(ながこ)女王との御婚約内定に変更なきことにつき,内務省,ついで宮内省より発表される。宮内省発表は左の如し。

   良子女王東宮妃御内定の事に関し世上種々の噂あるやに聞くも右御決定は何等変更せず

これより先,元老山県有朋らが,良子女王の子孫に色盲が遺伝する可能性があることをもって,女王の父〔久邇宮〕邦彦王に対し婚約辞退を求めた問題につき,当局は一切の新聞報道を禁止していた。しかし,昨年124日に辞表を提出した東宮御学問所御用掛杉浦重剛が,一部関係者に顛末を語って御婚約決行を求める運動を行ったことなどにより,この問題の存在が徐々に知られ,政界の一部,とりわけ右翼方面において,御婚約の取り消しに反対するとともに,宮内省や山県有朋を攻撃する運動が広まっていた。昨月下旬には久邇宮を情報源とし内情を暴露する「宮内省ノ横暴不逞」なる小冊子が各方面に配布されるなど各種怪文書が横行し,問題は議会においても取り上げられ,本月11日の紀元節には明治神宮において御婚約決行を祈願するという,右翼諸団体による大決起大会が計画された。こうした事態の中,山県ら元老は御婚約を辞退すべきとして譲らず,一方で具体的報道は一切禁止されたものの,新聞の報道ぶりから一般国民にも宮中方面に重大問題が進行中であることは明らかであり,宮内大臣中村雄次郎は何らかの決着を早期に図ることを迫られた。その結果,中村宮内大臣は自身の責任において事態を早期収拾することを決意し,この日良子女王の御婚約内定に変更なきことを発表するとともに,自身の辞職も表明する。(実録三1213頁)

 

いわゆる宮中某重大事件です。右翼の諸君明治神宮での集会はやめろよ「いのちを守るStay Home」なんだから「ウチで過ごそう」よ,と原内閣総理大臣も床次内務大臣も中村宮内大臣も言うことができず,元老(山県,松方正義及び西園寺公望)及び宮内省に反対する勢力の側も自粛せず,結局すなわちスペイン風邪は既に賞味期限切れだったようです。

 

9 スペイン風邪によって奪われた命について

以上,我が国における1918年から1921年までの合計では,スペイン風邪の患者数は23804673人,死者数は388727人(内務省衛生局『流行性感冒』)又は225714人(人口動態統計)ということになるようです(池田ほか前掲)。「歴史人口学的手法を用いた死亡45万人(速水,2006)という推計」もあるそうです(感染症情報センター前掲)。

死亡者の中で大きな比率を占めたのは0-2歳の乳幼児であったとされます(池田ほか前掲)。東京日日新聞の報ずるところでは,1918年には「1歳未満乳児の死亡率増大18.9%(336910人)。最高は大阪府・富山県の25.2%。東京府は18.8%」であったそうです(近代日本総合年表236頁)。生まれた赤ん坊のうち大体5人に1人は死んでしまったという計算です。

乳幼児以外について死亡者数の数を世代別に見ると,「男子では191719年においては2123歳の年齢域で大きなピークを示したが,192022年には3335歳の年齢域でピークを示し」,「女子ではいずれの期間においても2426歳の年齢域でピークを示して」いたそうです(池田ほか前掲)。海外では1918年の「(北半球の)晩秋からフランス,シエラレオネ,米国で同時に始まった〔スペイン風邪の〕第二波は〔同年春の第一波の〕10倍の致死率となり,しかも1535歳の健康な若年者層においてもっとも多くの死がみられ,死亡例の99%が65歳以下の若い年齢層に発生したという,過去にも,またそれ以降にも例のみられない現象が確認され」ていたところ(感染症情報センター前掲),我が国においても,「季節性インフルエンザでは,死亡例は65歳以上の高齢者が大部分で,あとは年少児に少し見られるのが一般的ですので,スペインインフルエンザでは青壮年層でも亡くなる人が多かったことは極めて特徴的です。」ということになっています(川名前掲)。この点については,National Geographicのウェブサイトの記事「スペインかぜ5000万人死亡の理由」(201452日)によれば,「答えは驚くほどシンプルだ。1889年以降に生まれた人々は,1918年に流行した種類のインフルエンザウイルスを子どもの頃に経験(曝露)していなかったため,免疫を獲得していなかったのだ。一方,それ以前に生まれた人々は,1918年に流行したインフルエンザと似た型のウイルスを経験しており,ある程度の免疫があった。」ということであったものとされています。(追記:これに関連して,The Economist2020425日号の記事(“A lesson from history”)は,1918年のスペイン風邪流行時においては28歳の年齢層の死亡率が特に高かったところ,これは,彼らが生まれた1890年に流行した別の種類のインフルエンザであるロシア風邪フルーの影響であるという説を紹介しています。すなわち,乳幼児期にあるウイルスにさらされると,後年別種のウイルスに感染したときに通常よりも重篤な症状を示す可能性があるというのです。乳児期にロシア風邪ウイルスに曝されて形成された免疫機構は,スペイン風邪ウイルスに対して,本来はロシア風邪ウイルスに対すべきものである誤った反応をしてしまったのだというわけです。)

 ところで,我が国においてはスペイン風邪流行期に「いのちを守るStay Home」が真摯に実行されていなかったように思われるのは,青壮年の命はくたびれて脆弱となった高齢者のそれとは違って対人接触の絶滅に向けた自粛までをもわざわざして守るべき命ではない,という認識が存在していたということででもあったものでしょうか。あるいは当時の青壮年は,死すべき存在たる人間として避けることのできない死の存在を知りつつも淡然ないしは毅然とそれを無視し得るほどの覇気と希望とデモクラティックな情熱とに満ちた人間好きな人々だったのでしょうか。考えさせられるところです。