1 『帆綱』から

 

  Gripus: Dominus huic [vidulo] nemo natus est nisi ego, qui hunc in piscatu meo cepi. Quos pisces capio, siquidem cepi, mei sunt. Habeo pro meis et in foro palam omnes vendo pro meis venalibus. Mare quidem certo omnibus commune est.Plautus “Rudens”(『帆綱』)から(小林標編著『ラテン語文選』(大学書林・2001年)44頁))

                                                                                                                     

これは,無主物先占による所有権取得の主張ですね。無主物先占については,かつて,当ブログの「『猫大先生』の法律学」記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1019732415.html)において御紹介申し上げたことがあります。今回は,古代ローマ共和政期の劇作家であるプラウトゥス(前254年頃~前184年)の喜劇の登場人物であるグリープスの上記台詞から着想して,それからそれへと思い付くまま書き綴ってみましょう。

 

2 無主物先占

日本民法239条は「所有者のない動産は,所有の意思をもって占有することによって,その所有権を取得する。/所有者のない不動産は,国庫に帰属する。」と規定しています。旧民法(明治23年法律第28号)財産取得編2条には「先占ハ無主ノ動産物ヲ己レノ所有ト為ス意思ヲ以テ最先ノ占有ヲ為スニ因リテ其所有権ヲ取得スル方法ナリ」と,同法財産編24条には「無主物トハ何人ニモ属セスト雖モ所有権ノ目的ト為ルコトヲ得ルモノヲ謂フ即チ遺棄ノ物品,山野ノ鳥獣,河海ノ魚介ノ如シ」と,及び同編232項には「所有者ナキ不動産及ヒ相続人ナクシテ死亡シタル者ノ遺産ハ当然国ニ属ス」と規定されていました。

ドイツ民法958条は„(1) Wer eine herrenlose bewegliche Sache in Eigenbesitz nimmt, erwirbt das Eigentum an der Sache. / (2) Das Eigentum wird nicht erworben, wenn die Aneignung gesetzlich verboten ist oder wenn durch die Besitzergreifung das Aneignungsrecht eines anderen verletzt wird.“(無主の動産の自主占有を得た者は,その物の所有権を取得する。/先占が法令によって禁止されているとき又は占有の獲得によって他者の先占権が侵害されるときは,所有権は取得されない。)と,同法9282項は„Das Recht zur Aneignung des aufgegebenen Grundstücks steht dem Fiskus des Landes zu, in dem das Grundstück liegt. Der Fiskus erwirbt das Eigentum dadurch, dass er sich als Eigentümer in das Grundbuch eintragen lässt.“放棄された土地の先占の権利は当該土地の所在する州の州庫に帰属する。州庫は,不動産登記簿に自らを所有者として登記させることによって当該所有権を取得する。)と規定しています。

ローマ法における「無主物先占(occupatio)」については,あるいは「古典期前〔紀元前3世紀中葉から前82年まで〕の自然法理論によれば,〔略〕(野生の動物や海の魚のように)自然法によって全ての人々に一様に帰属しつつ,そこに厳格な所有権を基礎づけられるような状態(例えば捕獲)で発見された物について考えられた。〔略〕ローマ法の「先占」は,動産・不動産を問わない。〔略〕古典期〔前82年~前27年/後250年〕の理論では,〔略〕未だ他者の権利によって把握されていない(無主の)物に関して認められた。例えば,猟獣(Inst. 2,1,11-17),海辺の魚介類(Inst. 2,1,18(海辺で発見された真珠・宝石・その他の物は,自然法上,直ちに発見者の所有物となる)),敵から奪い取ってきた戦利品(Inst. 2,1,17)などは,先占の対象となる。ここで先占を理由とする「事実上の占有」は,「所有権」として承認された。」と(オッコー・ベーレンツ=河上正二『歴史の中の民法――ローマ法との対話』(日本評論社・2001年)197-198頁),あるいは「ローマ法では動産不動産にも適用がある(反対民239条)。ローマ法には近世法の意の狩猟権はない。他人の土地で所有者の意思に反して狩猟をなすときは,否認訴権〔略〕,不動産占有保持の特示命令〔略〕,人格権侵害訴権〔略〕の責任を負うことあるも,捕獲した鳥獣は狩猟者の所有に属する。」と(原田慶吉『ローマ法(改訂)』(有斐閣・1955年)107頁)説明されています。

6世紀のユスティーニアーヌスの『法学提要』(Institutiones)第2編第1章の12は,次のようにいわく。“Ferae igitur bestiae et volucres et pisces, id est omnia animalia quae in terra mari caelo nascuntur, simulatque ab aliquo capta fuerint, jure gentium statim illius esse incipiunt: quod enim ante nullius est id naturali ratione occupanti conceditur. Nec interest, feras bestias et volucres utrum in suo fundo quisque capiat, an in alieno: plane qui in alienum fundum ingreditur venandi aut aucupandi gratia, potest a domino, si is providerit, prohiberi, ne ingrediatur. Quidquid autem eorum ceperis, eo usque tuum esse intellegitur, donec tua custodia coercetur: cum vero evaserit custodiam tuam et in naturalem libertatem se receperit, tuum esse desinet et rursus occupantis fit. Naturalem autem libertatem recipere intellegitur, cum vel oculos tuos effugerit vel ita sit in conspectu tuo, ut difficilis sit ejus persecutio.”と。訳してみると,「ところで(igitur),野生の(ferus)獣ら(bestiae),更に鳥ら(volucres)及び魚ら(pisces),すなわち(id est)陸,海,空において(in terra mari caelo)生まれる(nasci)全ての動物ら(omnia animalia)は,何者かによって(ab aliquo)捕獲されたときは(capta fuerint)直ちに(simulatque)万民法により(jure gentium)当然に(statim)その者のものであること(illius esse)を開始(incipere)する。というのは,従前無主のもの(ante nullius est)である物は,自然の理性によれば(naturali ratione),占有者に(occupanti)引き渡される(concedi)ものであるからである。これは,野生の獣や鳥を捕獲するのが自分の地所(fundus)においてであるかあるいは他人のそれにおいてであるか(utrum...an)にはかかわらない(nec interest)。もちろん(plane),狩猟又は捕獲のために(venandi aut aucupandi gratia)他人の地所に入る(ingredi)者は,それを予見した(providerit)主人によって(a domono),侵入を禁止されること(prohiberi)があり得る。さて(autem),汝が何を捕獲したとしても,それが汝の管理によって(tua custodia)拘束されている間は(donec…coercetur),汝のものである(tuum esse)とみなされる(intellegitur)。他方(vero),それが汝の管理から脱出(evadere)して自然の自由(naturalis libertas)に自己を回復(recipere)させたときは,汝のものであることを終止(desinere)し,再び(rursus)占有する者のものとなるものとなる。なお,それが汝の視界を(oculos tuos)去ったとき(effugerit)又は汝の見るところ(in conspectu tuo)その追跡(persecutio)が難しいときは,自然の自由を回復したものとみなされる。」となります。

なお,『法学提要』第2編第1章の18“Item lapilli gemmae et cetera quae in litore inveniuntur, jure naturali statim inventoris fiunt.”(同様に,海岸で発見される小石,宝石その他は,自然法によって当然に発見者のものとなる。)というものです。「小石,宝石その他」をもって直ちに「魚介類」と解することは難しいでしょう。Lapillusは小石ではあっても真珠(margarita)ではないでしょう。

ここでいう万民法(jus gentiumや自然法jus naturale)について「蓋シ無主ノ動産ハ先ツ之ヲ占有シタル者其所有権ヲ取得スヘキコトハ如何ニ幼稚ナル法律ニ於テモ皆認ムル所ニシテ所有権取得ノ最モ天然ナル方法ト云フモ可ナリ古ハ一切ノ財産大抵皆先占ニ因リテ其所有権ヲ取得スルコトヲ得タリ」と説かれるところ(梅謙次郎『民法要義巻之二(訂正増補第21版)』(法政大学=明法堂・1904年)147頁)が,妥当するのでしょう。

ドイツ民法9601項前段は„Wilde Tiere sind herrenlos, solange sie sich in der Freiheit befinden.“(野生動物は,自由である限り無主である。)と,同条2項はErlangt ein gefangenes wildes Tier die Freiheit wieder, so wird es herrenlos, wenn nicht der Eigentümer das Tier unverzüglich verfolgt oder wenn er die Verfolgung aufgibt.(捕獲された野生動物は,当該動物の所有者が遅滞なく追跡しなかったとき又は追跡を放棄したときは,自由を回復し,無主となる。)と,同条3項はEin gezähmtes Tier wird herrenlos, wenn es die Gewohnheit ablegt, an den ihm bestimmten Ort zurückzukehren.(飼いならされた動物は,戻るべき場所としてならされた場所に戻る習性を失ったときには,無主となる。)と規定しています(ローマ法でも「野生動物が馴養せられた場合には帰還の意思(animus revertendi)をも失つたとき初めて所有権は消滅する。」とされていました(原田117頁)。)。日本人の目からは細か過ぎるようではありますが,『法学提要』等のローマ法の伝統からは違和感のないところなのでしょう。

なお,ナポレオンの民法典の第713条は“Les biens qui n’ont pas de maître appartiennent à l’État.”(無主物は,国に帰属する。)と規定し,同じく第715条は“La faculté de chasser ou de pêcher est également réglée par des lois particulières.” (狩猟又は漁撈の可能性については,特別法をもって同様に定める。)と規定していて,フランスの民法典においては無主物先占活躍の場が一見分かりにくくなっています。これにはあるいは「近世法の意の狩猟権」が関係を有するのでしょうか。

無主物先占による所有権取得の法理によって,漁師のグリープス(Gripus)の言うとおり,“Quos pisces capio, siquidem cepi, mei sunt. Habeo pro meis et in foro palam omnes vendo pro meis venalibus.” (俺が獲る魚は,実際に獲ったならば,俺のものなのだ。俺は,俺のものとして確保し,かつ,広場で公然俺の売り物として全て売るのだ。)ということになります。しかし,“siquidem cepi” (実際に獲ったならば)と念が押されているのはなぜでしょうか。これには,『法学提要』第2編第1章の13にある次のような議論が影響しているようです。いわく。

 

 Illud quaesitum est, an, si fera bestia ita vulnerata sit ut capi possit, statim tua esse intellegatur. Quibusdam placuit, statim tuam esse et eo usque tuam videri, donec eam persequaris; quodsi desieris persequi, desinere tuam esse et rursus fieri occupantis. Alii non aliter putaverunt tuam esse, quam si ceperis. Sed posteriorem sententiam nos confirmanus, quia multa accidere solent, ut eam non capias.

 野生の獣がしかく傷つけられて捕獲され得るほどまでになったときは,当然に汝のものである(tua esse(これは,tua animalia esseの意味でしょうか。))とみなされるべきか否かという件が検討(quaerere)されている。当然汝のものであり,かつ,汝がそれを追跡し続ける限り汝のものとして観察される,しかし,追跡を中断したときには,汝のものであることを終止して,再び占有する者のものとなるものとなるのである(fieri),という説を好む者らがあった。他の者ら(alii)は,汝のものであることを,汝が捕獲したとき(ceperis)以外には認めなかった。しかしながら,我々は後者の見解をもって是とする。汝がそれを捕獲し損ねることになる(ut eam non capias)多くの出来事が(multa)起こるもの(accidere solere)だからである(quia)。

 

 仕事は最後まで,とどめを刺すまでやらねば報酬をもらい損ねるよ,というわけです。

 グリープスが“Mare quidem certo omnibus commune est.” (海は全く確かに万人の共有であるのだ。)とまで吠え立てることは,無主物先占の効果は「野生の獣や鳥を捕獲するのが自分の地所においてであるかあるいは他人のそれにおいてであるかにはかかわらない。」ということからは不要であったかもしれません。なお,我妻榮は,「漁業法や狩猟法は魚・鳥・獣の捕獲等に種々の制限や禁止を加えているが,それに違反した先占も私法上の効果は妨げられないと解される。」と述べています(我妻榮著=有泉亨補訂『新訂物権法(民法講義Ⅱ)』(岩波書店・1983年)300頁)。とはいえ,グリープスの咆哮は,ドイツ民法9601項後段の規定„Wilde Tiere in Tiergärten und Fische in Teichen oder anderen geschlossenen Privatgewässern sind nicht herrenlos.“ (動物園の中の野生動物及び池又は他の閉ざされた私的水域の中の魚は,無主ではない。)との関係では意味があるのでしょう。海は,広く大きい万人の共有物であって,閉ざされた私的水域(geschlossenes Privatgewässer)ではありません。したがって,その中の魚は,無主ではないものと直ちにされるものではありません。

 万人の共有物については『法学提要』第2編第1章の1の冒頭に“Et quidem naturali jure communia sunt omnium haec: aer, et aqua profluens et mare et per hoc litora maris.”しかして確かに次の諸物haecは万人の共有communis omniumである。すなわち,空気,流水,海及びそれに沿って海岸。)と示されています。旧民法財産編25条には「公共物トハ何人ノ所有ニモ属スルコトヲ得スシテ総テノ人ノ使用スルコトヲ得ルモノヲ謂フ即チ空気,光線,流水,大洋ノ如シ」と規定されていました。

 

3 旅行鞄は魚たり得るか?

 問題は,グリープスの“Dominus huic [vidulo] nemo natus est nisi ego, qui hunc in piscatu meo cepi.”(これ(この旅行鞄)の持主として生まれた者は,これを俺様の漁業操業時に採捕した俺様以外のだれもないのだ。)発言です。海で漁をしていて網に旅行鞄がかかったのですが,旅行鞄(vidulus)ならば,無主物であるとは通常いえず,無主物先占の対象とは直ちにはならないでしょう。しかしながら,グリープスは,旅行鞄は魚だと言い張ります。

 

  Quid, tu numquam audivisti antehac esse vidulum piscem? Est; ego qui sum piscator scio.(小林44頁)

  なぜかね,お前さんはこれまで一度たりとも旅行鞄っていう魚(vidulus piscis)が存在するっていうことを聞かなかったのかね。存在するんだよ。漁師である俺様は知っているんだよ。

 

無論,旅行鞄が魚になるのならば,グリープスも旅行鞄魚に変身できるではないかということになります。“Tu, nisi caves, te in vidulum piscem vertes. Fiet tibi puniceum corium, postea atrum.”小林44)(あんたね気をつけないとねあんた旅行鞄魚になっちまうぜ。あんたの革は緋色になってさ,それから黒ずむのさ。)と,グリープスと口論になったギリシア系のトラカーリオー(Trachalio)はさすがに口が悪い。

 

4 所有権の放棄

ということで,旅行鞄魚の実在の有無論という脱線から戻って考えると,大嵐の翌日の海でグリープスの網にかかった旅行鞄(当該大嵐で遭難した船の乗客の持ち物ですね。)は無主物かどうかがまず問題になります。「一度所有されたものも所有者が放棄すれば無主の動産となる」のですが(我妻=有泉299頁),くだんの旅行鞄について前所有者による所有権の放棄はあったものかどうか。

日本民法では,「物権の放棄も公序良俗に反してはならない(例えば危険な土地の工作物の放棄。717条参照)が,さらに,これによって他人の利益を害さない場合にだけ認められる」とされつつ(我妻=有泉249頁),「所有権および占有権(203条)の放棄は,特定の人に対する意思表示を必要としない(承役地の所有権を地役権者に対して委棄する場合は例外である。287条〔略〕)。占有の放棄その他によって,放棄の意思が表示されればよい。ただし,不動産所有権の放棄は,登記官に申請して登記の抹消をしなければ第三者に対抗しえないといわねばならない」と説かれています(我妻=有泉248頁)。とはいえ不動産については,「不動産所有者が所有権を放棄できるか否かについては,わが民法には規定がなく,はっきりしない」ともいわれています(川島武宜=川井健編『新版注釈民法(7)物権(2)』(有斐閣・2007年)379頁(五十嵐清=瀬川信久))。ドイツ民法959条には„Eine bewegliche Sache wird herrenlos, wenn der Eigentümer in der Absicht, auf das Eigentum zu verzichten, den Besitz der Sache aufgibt.“(動産は,その所有者がその所有権を放棄する意図をもってその物の占有を廃止したときに無主となる。)と規定されています。

ローマ法では,所有権の消滅に係る「放棄(derelictio)については,S派〔サビニアナ〕は占有の廃止と同時に所有権を失い,物は無主物となるとしたのに反し,P派〔プロクリアナ〕は他人が占有するまでは放棄者は所有権を失わない不確定人に対する引渡と解した如くである。ユ〔スティーニアーヌス〕帝は前説に従つている。遺失海難に於ける投荷も放棄ではない。ミッシリア(missilia)(政務官が就任祝などのときに国民に投げ与えるもの。普通は穀物の引換切符である。)の投下(iactus missilium)」は「不確定人に対する引渡」である。」ということだったそうです(原田117頁)。サビニアナとプロクリアナについては,「両派諸種の問題につき見解を異にしたが,一定の主義原則に拠つたものではないとするのを通説とする。」ということだったそうですが(原田18頁),その後には「サビニアナと呼ばれる学派は,〔略〕本質的に自然法の考え方に依拠した。とりわけ「実質的正義」や「衡平」,「信義」を重んじ,元首自身の非常大権を自然法によって基礎づけるなど,超実定法的思考にも自由であった。」とされる一方,「プロクリアナと呼ばれる学派は,〔略〕サビニアナに対する対抗学派として創設されたと言われる。彼らは,「制度としての法」における形式と論理を重んじ,厳格な法の適用と解釈こそが,人々の秩序と権利を守るものと考えた。」と説かれるに至っています(ベーレンツ=河上111頁)。『法学提要』第2編第1章の46及び47“Hoc amplius interdum et in incertam personam collocata voluntas domini transfert rei proprietatem: ut ecce praetores vel consules qui missilia jactant in vulgus ignorant quid eorum quisque excepturus sit, et tamen, quia volunt quod quisque exceperit ejus esse, statim eum dominium efficiunt. Qua ratione verius esse videtur et si rem pro derelicto a domino habitam occupaverit quis, statim eum dominium effici. Pro derelicto autem habetur quod dominus ea mente abjecerit ut id rerum suaram esse nollet, ideoque statim dominus esse desinit.”(このほか(hoc amplius, しばしば(interdum), 不特定者に対して(in incertam personam)向けられたものである持主の意思(collocata voluntas domini)であっても(et)物の所有権(rei proprietas)を移転させる(transferre)ことがある。群衆に対して(in vulgus)おひねりを投げるかの法務官ら(praetores)あるいは(vel)執政官ら(consules)はそのうちどれを(quid eorum)だれが(quisque)受け取ることになる(excepturum esse)かは知らないが,他方(tamen),各自が受け取ることになった物(quod quisque exceperit)が各自のものであること(ejus esse)を望んでいるので(quia volunt…),当然に彼を(eum)所有者にするがごときである。こう考えると(quia ratione),所有者によって放棄されたもの(derelictum a domino)とされている物(res habita)を占有する者があったときも,当然に彼が所有者とされる(effici)ということがより説得力あるもの(verius esse)として映ずる(videri)のである。また,彼の持ち物の一部のものであること(id rerum suaram [suarum?] esse)を望まないという意思をもって(ea mente)所有者が投げ捨てた物も放棄されたものとされ,及びそれにより(ideoque),所有権者であること(dominus [dominum?] esse)は当然に終止する。)と説いています。

 

5 取得時効

いずれにせよ,「遺失海難に於ける投荷も放棄ではない」以上,海中から引き揚げた旅行鞄についての無主物先占は無理でしょう。

グリープスは取得時効の制度に期待をかけるべきか。

しかし,北アフリカはキュレーネー近在の浜辺に住むグリープスはローマ人でもラテン人でもないようなので使用取得(usucapio)の適用はなく(原田110頁),取得時効制度といえば長期間の前書き(praescriptio longi temporis)でいかざるを得ないのですが,時効期間は現在者間(inter praesentes)のときは10年,不在者間(inter absentes)のときは20年であってなかなか長い(原田112頁)。正権原及び善意も必要とされていますが(原田112頁),「正権原とは占有取得を適法ならしめる取得原因である。この要件の結果,我が民法などとは異つて,例えば風にあふられて自分の家に落ちて来たような物には取得時効は成立しない」そうですから(原田111頁),どうにもなりませんね。

なお,長期間の前書きに関しては,「一般に,長期の取得時効制度は大変に怪しい。ローマでも諸制度が崩れ始めた時期に〔使用取得とは〕全く別系統の長期の取得時効が現れる(praescriptio(プラェスクリプティオー) longi(ロンギー) temporis(テンポリス))。しかしこれはあらゆる社会に見られる,弱体化した権力が実力の応酬を調停することに疲れてモラトリアム立法をした結果である。」との評言があります(木庭顕『新版ローマ法案内――現代の法律家のために』(勁草書房・2017年)67頁)。

 

6 遺失物関係法

グリープスが海から引き揚げた旅行鞄は漂流物又は沈没品ということになりますから,我が国では水難救護法(明治32年法律第95号)の第24条から第30条までが適用になります。

一般法である遺失物法(平成18年法律第73号)では遺失物の提出先又は交付先は警察署長(同法41項)又は施設占有者(同条2項)ですが,水難救護法241項(及び附則39条)では,漂流物又は沈没品の引渡先は市町村長(又は東京,大阪市若しくは京都市の区長)になっています。民法240条では「遺失物法(平成18年法律第73号)の定めるところに従い公告をした後3箇月以内にその所有者が判明しないときは,これを拾得した者がその所有権を取得する。」となっていますが,水難救護法では,公告後6箇月内に所有者が物件の引渡しを請求せず,又は引渡しを請求しないという意思表示をしたときは,市町村長は拾得者に通知し,拾得者は,公告,保管,公売又は評価に要した費用を納付して物件の引渡しを受けてその所有権を取得することになっています(同法281項・2項。ただし,沈没したままの船舶及びその船内の物品については,当該期間は1年です(同法271項,水難救護法施行令(昭和28年政令第237))。)。ちと長い。

ところで肝腎のローマ法ですが,「遺失物(verlorene Sache, chose perdue, évape)の拾得については,ローマ法には特別の制度はなく,事務管理の一環とされていた。」とされています(『新版注釈民法(7))』381頁(五十嵐=瀬川))。

 

7 泥棒グリープス

 ところで,共和政期ローマのプラウトゥスの“Rudens”を読むのに後6世紀の皇帝ユスティーニアーヌスのInstitutionesまでを参考にするということをやってきましたが,鶏を割くのに牛刀をもってするがごとくです。しかしながら,有益であることは事実です。例えば,前記トラカーリオーの「あんたの革は緋色になってさ,それから黒ずむのさ。」との罵言(これは「鞭打ちの刑になるぞ,という警告である。」とのことです(小林44頁註81)。)の背景としては,『法学提要』第2編第1章の48があったのでした。

 

  Alia causa est earum rerum quae in tempestate maris levandae navis causa eiciuntur. Hae enim dominorum permanent, quia palam est, eas non eo amino eici quo quis eas habere non vult, sed quo magis cum ipsa navi periculum maris effugiat: qua de causa si quis eas fluctibus expulsas vel etiam in ipso mari nactus lucrandi animo abstulerit, furtum committit. Nec longe discedere videntur ab his quae de rheda currente, non intellegentibus dominis, cadunt.

  他の問題は,海の嵐において,船舶を軽くするために投棄された諸物件にかかわる。もちろん,それらの所有者は変わらないのである。すなわち,それらが,それらの所有を欲しないとの意思によってではなく,むしろ当該船舶と共に海難を逃れたいとの意思によって投棄されたことは明白だからである。であるからして,それらの物を,波によって運ばれた所で,あるいはさらには当該遭難海域に至って(nactus),利得する意思をもって持ち去る者があれば,それは窃盗(furtum)を犯すものである。これらの物と,走行中の四輪馬車から所有者の知らないうちに落下する物との間に大きな懸隔があるものとは認められない。

 

窃盗というよりは,日本刑法では,「遺失物,漂流物その他占有を離れた他人の物を横領した者は,1年以下の懲役又は10万円以下の罰金若しくは科料に処する。」という同法254条の遺失物等横領の罪のようではあります。

しかしながら,ローマ法上のfurtumについては,「窃盗と横領の区別はない」ものとされ(原田224頁),また,「ローマでは窃盗は最後まで犯罪ではなく,刑事法の対象ではない。独自の懲罰的民事訴権(actio(アークティオー) poenalis(ポエナーリス))の対象である(actio(アークティオー) furti(フルティー))。」とされています(木庭67頁)。

とはいえ,窃盗現行犯(furtum manifestum)の扱いは厳しかったところです。前5世紀のローマの十二表法によれば「現行犯のときは,夜間の場合及び昼間兇器携帯の場合は殺しても差支えない。昼間無兇器のときは,自由人ならば政務官が鞭打ちして被害者に付与する。被害者はこれを外国に売却することができる。奴隷ならばTarpeia巌より突き落として殺す。」ということであったそうです(原田224頁)。しかしながら,我が国も負けてはおらず,我が昭和5年法律第9号(盗犯等の防止及び処分に関する法律(これは,題名のない法律です。))111号及び同条2項を併せ読めば,我が国では,昼間無兇器の場合であっても,盗犯を防止し,又は盗贓を取還せんとするときに恐怖,驚愕,興奮又は狼狽によって現場で犯人を殺しても「之ヲ罰セズ」ということになっています。

 

8 奴隷問題

 さて,最後に一大問題が控えています。

 実はグリープスは自由人ではなく,ダエモネース(Daemones)老人の奴隷だったのでした。

 「奴隷は物であり,手中物〔略〕,有体物〔略〕の代表物にあげられている。財産権の主体とはなれない。その婚姻(contubernium)もただ「食卓を共にする」という事実関係である。ただ,債務は自然債務として,或る程度の法律性を認められている〔略〕。神法上は大概ね自由人と同一に取り扱われている。例えば埋葬社団〔略〕,墓〔略〕に於けるが如し。」ということで(原田49頁。なお,手中物(res mancipi)とは,イタリアの土地,地役権,奴隷並びに背及び頸で馴養し得べき四足動物(牛,驢馬,騾馬等)のような重要な財産のことです(原田74頁)。),「財産権の主体とはなれない」のですから,財産権の主体めかしく「俺が獲る魚は,実際に獲ったならば,俺のものなのだ。俺は,俺のものとして確保し,かつ,広場で公然俺の売り物として全て売るのだ。」と奴隷のくせにグリープスがうそぶくのは片腹痛い,ということになります。

 しかしながら,木庭顕教授は次のように述べます。

 

  奴隷は権利能力を有しないから使者nuntiusだったとするのは早計であり,現に既にかつてbona fides圏内で「奴隷」はほとんどマネージャーを意味した(プラウトゥスの喜劇において何故ビジネスの主役は奴隷か,というのは興味の尽きない問題であり,ビジネスは市民が行うに相応しくなかったという旧式の陳腐な解釈はテクストを前にして全く成り立たない)。(木庭194頁註11

 

奴隷は,財産権の主体とはなり得なくとも,主人の財産の管理・運用を行う「マネージャー」にはなれたし,実際盛んになっていた,ということのようです。

 

  その〔農場の〕うち一つないしいくつかについてdominus(ドミヌス)固有の操縦席にマネージャーを坐らせてみればどうか。彼が所有権者であるかのごとくに振る舞う。こうした文脈で解放奴隷や奴隷が主人のために領域上の物,土地や家畜を売買したならばpeculiumが現れる。土地を売ったり買ったりしてpeculiumを増やしてくれれば主人としてもほくほくである。(木庭194頁)

 

Peculium(特有財産)とは,ローマの「家長の有する権力の財産的効果として,権力服従者は当初は全部財産無能力者であり,彼等が取得した財産は取得方法,財産の如何を問わず全部家長個人の有」となっていたところ,「ただ法律上家長唯一財産主体主義というも,事実上権力服従者の財産として,その管理収益を許す特有財産(peculium)の制を古くより発達せしめ」ていたというものです(原田282頁)。「奴隷に,独立の営農のために与えられた「特有財産(peculium)」は,あらゆる果実とともに主人の財産の一部にとどまっていた。」とはいえども(ベーレンツ=河上134頁),それはやはり名目上のことで,特定財産は「事実上」は奴隷の「財産として,その管理収益」が当該奴隷によりされていたことが重要なのでしょう。特有財産は,「外見上分離して独立に管理され」ていたものです(ベーレンツ=河上151頁)。「農場,手工業,銀行,商業取引,その他多くのものが,この特有財産となり得た」そうですから(ベーレンツ=河上151-152頁),グリープスは,漁業についての特有財産の設定を主人のダエモネースから受けていたのではないでしょうか。

特有財産に係る奴隷の管理収益行為の結果が主人に帰属する仕組みは,奴隷が主人の代理人になるのかといえば,「ローマ法には直接代理は公法上は厳存したが,私法上は原則として存しない。」ということだったそうで,ただし,「間接代理(委任,後見皆然り),権力服従者の取得行為〔略〕(法律の当然の効果である。本人のためにすることを表示するとしないとを問わない),附加的性質の訴権〔略〕(代理人と本人と両方の責任が平行する)等直接代理に類する行為はあつた」とのことです(原田86頁)。

また,占有の取得については,「権力服従者はその権力者の指図命令により,権力者のために取得する。但し特有財産〔略〕については家長主人の知るを要しない。家長権に服しない自由人による占有取得が古典法で認められたのは,恐らく執事についてだけである。」ということでした(原田140頁)。グリープスによる先占は,その特有財産に係るものであらば,直ちに権利能力を有する主人のダエモネースの先占になったということでしょう。

奴隷の取得行為の結果は権力服従者の取得行為ということで権利能力者たる主人に帰属しつつも,「市民法に於ては権力服従者の〔略〕債務負担行為によつては家長主人はその責を負うことはなかつた」ところ(原田216頁)奴隷相手に取引を行う者にとってはその分不便でかえって取引の発展を妨げたのでしょうから,そのような不便対策として,「家長主人が家子奴隷に特有財産〔略〕を与えたときは,家長主人は家子奴隷の相手方に対し,特有財産の範囲に於て直接責任を負う。」という(原田216頁),附加的性質の訴権の一たる特有財産訴権(actio de peculio)が生まれたものでしょう。「このような,特有財産を承認する法律上の目的は,かかる特有財産に関する債務に対して,家父の負うべき責任を,その価値に限定するところにあった。」という見方もありますが(ベーレンツ=河上152頁),むしろ当初は,一定の財産の範囲内ながらも家長主人に直接責任を負わせるために設けられたのが特有財産の制度だったのだ,ということでしょうか。

特有財産運用等の結果お金を貯めた奴隷は,自分の自由を主人から買い戻すことができました。

 

  奴隷が,主人から自分を買い取ってくれる「仲介者」を見つけて,しかも,自ら稼ぎ出した金を第三者に託し,その金で自分を買い取ってもらえるような場合には,その奴隷は〔後2世紀後半の〕マルクス・アウレリウス帝の規則により,解放のための特別な法的手続を通じて,この仲介者を訴えることで権利を実現することができた。この規則の存在は,奴隷が,事実上,いかに独立した経済活動をなしえていたかを示すものである。(ベーレンツ=河上137頁)

 

 グリープスも,旅行鞄魚を発見したときには,その中にたんまりあるであろう金銀でもって自分の自由を買い戻そう,自由になったらあれをやろう,これもやろうとの楽しい夢想にふけったのでした。

 

   Aurum hic ego inesse reor, nec mihi est ullus homo conscious. Nunc haec occasio tibi, Gripe, contigit ut te liberes. Nunc ad erum veniam docte atque astute; paulatim pollicebor argentum pro capite, ut liber sim. Jam ubi liber ero, instruam agrum atque aedes; navibus magnis mercaturam faciam; apud reges rex vocabor; oppidum magnum condam et ei urbi Gripum nomen indam. Sed hic rex cum aceto et sale, sine bono pulmento, pransurus est.(小林42-43頁)

   黄金がここに入っていると俺はにらんでいる。このことを知っているやつはだれもいない。今や,この好機が,お前に,おいグリープス,お前を自由にするために訪れたのだ。さて,抜け目なく,かつ,狡猾に主人のところへ出かけよう。少しずつ,俺が自由になるための身代銀の分量を決めるのだ。やがて自由になったときには,農場と屋敷とをあつらえよう。何隻ものでっかい船で商売をやろう。王たちのもとで,俺は王と呼ばれるのだ。大きな都市を建設しよう,そしてその町にはグリープスという名前を与えよう。けれどもこの王様は,美食料理ではなくて,酢と塩とで昼食を摂ることになるのだな。

 

喜劇の結末において,グリープスはめでたく自由の身になれたそうですが,王にまでなったとは報告されていません(小林45頁)。