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 空沼岳山頂(札幌市南区) 
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 空沼岳山頂から見る恵庭岳
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 空沼岳から見る札幌岳,その奥に余市岳(札幌市最高峰)


1 『山の大尉』と山岳兵とキスリング・ザック

 『山の大尉』という山の歌があります。元はイタリアの歌(Il testamento del capitano)だったもので,訳詞に「イタリア皇帝」などが出てきます。

 死体を五つに切れとかグロいなぁ,死体の一部を貰ったって迷惑なだけだし嬉しくないぞ,薔薇の肥やしにするといったってかえって山の植生を乱し高山植物に悪影響を与えることになるではないか,そもそも登山(ザング)()が無ければ山で満足に行動できないのは当然であるリソルジメントで成立したサルジニア王家のイタリア統一国家はイタリア「王国」であってイタリア「帝国」ではないぞ,などと突っ込むところの多い歌でしたが(訳詞者の牧野文子様,ごめんなさい。)これをあえて調子を外して歌うのが,筆者の属していたワンダーフォーゲル部ではかわいらしくておしゃれであるものとされていました。

 山の大尉殿の部下は,山岳兵(alpini)。

他に娯楽の無い山の中で何度も『山の大尉』をがなり立てているうちに,筆者らも自分たちがサンガクヘーであるような気持ちになっていました。

 互いに「〇〇ヘー」「××ヘー」と呼び合っているうち,大量の食糧・装備をキスリング・ザックに入れて背負って(重量の圧迫で肩のあたりの神経がやられるのでしょう,腕が動かなくなる「ザック麻痺」というのがありました。)長期間道なき山のその奥で藪また藪を漕ぎ消耗(ショーモー)する夏合宿中,動きが鈍くなって「果て」かけた仲間に対して,「△△ヘー ハ シンデモ ザツク ヲ ハナシマセン デシタ」と呼びかけたり,あるいは疲労の中で苦笑しながら自ら言ったりすることがはやることになりました。無論これは,木口小平の故事にならったものです。

 

  キグチコヘイ ハ テキ ノ

  タマ ニ アタリマシタ ガ,

  シンデモ ラツパ ヲ

 クチ カラ ハナシマセン

  デシタ。

 

 この木口喇叭手の壮烈な戦死があったのが,日清戦争の陸上における初戦(我が騎兵第五大隊第一中隊による1894年7月26日の七原南方におけるロバ捕獲戦を除く。)たる1894年7月29日の成歓の戦いだったのでした。

 

2 今回の記事の対象

 筆者の母方の曽祖父の残した「由緒」書きにおける下記日清戦争関係の記載に係る考証話の第5回は,成歓・牙山の戦いを取り扱います。果たして筆者の曽祖父は,命の限りラッパを吹く木口小平のそのラッパの響きを聞いたのでしょうか。

 

明治26年〔1893年〕11月1日徴兵ニ合格シテ騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ〔第1回はここまで〕

明治27年〔1894年〕6月朝鮮国ニ東学党蜂起シ韓国居留民保護ノ目的ヲ以ツテ(どう)年6月11日混成旅団ヲ編成セラ(ママ)大島義昌少将ヲ旅団長トシ平城盛次少尉ヲ小隊長トシ選抜セラレテ山城丸ニ乗舶シ宇品港出帆玄海灘ヲ経テ仁川ニ向フ此ノ日山陽鉄道広島駅()()開通ノ日ナリ〔第2回はここまで〕

明治27年8月1日ヲ以ツテ宣戦布告セラレ日清開戦トナル

〔第3回はここまで〕仝7月23日京城ノ変ニ出張爾来〔前回はここまで〕成歓ニ牙山ニ〔今回はここまで〕平壌義洲鴨緑江鳳凰城(ママ)馬集崔家房(ママ)家台竜頭塞興隆勾瀇嶺海城牛荘田庄台ト転戦ス

明治27年9月15日大本営ヲ広島旧城エ進メ給ヘリ

明治28年〔1895年〕6月5日講和トナリ凱旋

仝年1112日日清戦役ノ功ニ依リ瑞宝章勲八等及び金50円幷ニ従軍徽章下賜セラル 

明治29年〔1896年〕1130日善行証書ヲ授与セラレ満期除隊トナル

 

3 「シンデモラツパヲ」その1:木口小平

 

(1)安城渡の戦いとラッパの響き

 

ア 佳龍里附近(安城渡)の戦い

 成歓の戦いにおける木口小平の戦死の様子が小学校児童にどのように教えられていたかというと,1912年5月に宝文館から出た東京高等師範学校訓導相島亀三郎の『尋常小学修身書例話原拠』という書物があります。同書の「第17 忠義」の「例話 木口小平」の項においては(1014頁),我が成歓攻撃右翼隊(我が軍は漢城から南下して素沙場を経て更に南の成歓に向かい,その際右翼隊及び左翼隊(大島義昌旅団長はこちら)の二手に分かれて進んだので,右翼隊は西側の部隊になります。)の佳龍里(安城川を越えたその南方)附近における戦闘(一般に「安城渡の戦い」といわれています。)の模様を,参謀本部の『明治廿七八年日清戦史 第1巻』(1904年8月)に拠って述べて(相島1112頁),その後に当該戦闘における木口二等卒の戦死状況の描写を付加する順序となっています(相島1314頁)。

 参謀本部『明治廿七八年日清戦史 第1巻』による佳龍里附近の戦闘に関する叙述は次のとおりです(140142頁)。なお,適宜句読点濁点を補うとともに,混成旅団報告第21号「混成旅団戦闘詳報」(アジア歴史資料センター)で補充します(青字)。

 

  又,右翼隊ハ,歩兵第二十一聯隊第十二中隊(長,大尉松崎直臣)〔原書の小文字2行の割注を括弧書きに改めています。〕ヲ以テ前衛(司令官,大尉山田一男(第三大隊長代理))ト為シ,自余ノ諸隊〔「第十第七第九中隊及ヒ工兵中隊(1小隊欠)」(詳報)〕ハ本隊トナリ,29日午前2時(すぎ)素沙場ヲ出発シ銀杏亭高地ニ向ヒ全州街道ヲ前進ス(たま)(たま)満潮ニ際シ,(こと)ニ河川,沼沢多クハ氾濫シ為メニ道路ト水田トヲ弁別スル(あた)行進極テ困難ナリ(しか)シテ尖兵(第十二中隊ノ第二小隊)(かろ)(ママ)テ佳龍里〔「秋八里北方(ママ)6百米突(メートル)ノ「キリン」洞」(詳報)〕附近ニ達スルヤ(午前3時20〔「3時5分」(詳報)〕),(たちま)チ前方約30米突(メートル)ニ於ケル諸家屋内(および)家屋ノ間ヨリ猛烈ナル射撃ヲ受ケタリ〔「敵2大隊(ばかり)(旗2本〔「」の文字を記した旗〕)家屋ニ防禦編制ヲナシ我尖兵10米突(メートル)(ばかり)近接スルヲ待チテ不意ニ急射撃ヲ為セリ(詳報)(より)テ尖兵ハ(ただち)ニ現場(屋後ノ畑地)ニ伏臥シ(これ)ニ応戦ス(第十二中隊長松崎大尉ハ,行進路ヲ確カメンガ為メ(あたか)モ尖兵ノ位置ニ()(この)(とき)自ラ(これ)ヲ指揮セリ〔略〕。)〔「前衛中隊ハ(ただち)ニ田畔ニ散開シ急射撃ヲ行」(詳報)〕

  交戦約10分ノ後,尖兵長山田少尉〔歩兵第二十一聯隊第十二中隊小隊長陸軍歩兵少尉山田四郎(参謀本部・附録第14ノ2)〕()傷ツキ(つい)松崎大尉敵弾ヲ受ケテ(たお)兵卒ニモ(また)数名ノ死傷アリ(しょう)時ニシテ本隊ハ尖兵ノ右側後方ニ達シ(その)(かん)(せい)ヲ揚テ前進スルヤ(本隊ハ,尖兵ト敵ト接触シ()ルヲ認メタルガ故ニ危険ヲ(おもんぱか)リテ射撃ヲ為サズ。(ただ)(ただ)喊声ノミヲ発シテ前進シタリ。),敵兵ノ過半ハ射撃ヲ本隊ノ方向ニ転ゼリ〔「本隊の3中隊ハ漸次右翼ニ至リ工兵中隊ハ後方河川ノ堤防ニ拠レリ敵ノ射撃ハ漸次(さか)ンニナレリ」(詳報)〕須臾(しゅゆ)ニシテ第十二中隊ノ第一,第三小隊ハ佳龍里ノ北方約100米突(メートル)ノ地〔参謀本部142143頁間の地図を見ると尖兵の左後方〕ニ達シ,射撃ヲ開始セリ。〔相島12頁の紹介はここまで〕

  (これ)ヨリ先キ右翼隊司令官武田中佐〔歩兵第二十一聯隊長武田秀山歩兵中佐〕前方ニ銃声ヲ聞クヤ(ただち)ニ其戦況ヲ観察シタル後()(おの)レノ身辺ニ()リシ一上等兵ニ十数名ノ兵ヲ附シテ応援セシメ本隊ニハ右ニ迂回シテ敵ノ左翼ヲ攻撃スキヲ命(この)時,歩兵中尉時山龔造ハ,約3分隊ノ兵員ヲ率テ敵ノ左翼ニ向ハントシ,右方ニ折レ細径ヲ経テ前進シ,一水壕ノ(その)前方ニ(よこたわ)レルニ会シ徒渉シテ進マント欲シ,()自ラ(おどりいり)テ水中ニ入ルヤ部下相続キテ壕心ニ到ル。(この)()ト水多ク,且ツ,河床泥深ク,遂ニ進退ノ自由ヲ失ヒ,中尉以下23名此ニ溺死ス。)。3時30(すぎ)本隊ノ第七中隊及第十中隊(へん)列シテ右方ニ展開シ(つい)前進シ第十二中隊ノ右方ニ達シテ急射撃ヲ行ヒ〔「3時25分第十第七中隊各1小隊ヲ散兵線ノ右翼ニ増加シテ急射撃ヲナセリ」(詳報)〕,4時ニ至リ本隊ノ3中隊ハ敵ノ左翼ニ向テ突撃ヲ行フ。敵兵支ル(あた)南方水田中ヲ跋渉シテ成歓方向ニ敗走ス第十二中隊ハ(すなわ)チ部落ノ南端ニ出テ追撃射撃ヲ行ヘリ〔「(ママ)45分本隊ノ3中隊ハ敵ノ左翼ニ向テ突撃ヲ行ヒ敵兵秋八里ニ退却ス(この)際暗黒ニシテ彼我(ひが)ノ区分判然セス為メニ充分射撃ヲナス(あた)ハサリシ」(詳報)〕

  (この)間武田中佐ハ工兵中隊ヲ招致シ佳龍里部落内ニ敵兵ノ有無ヲ捜索セシテ(つい)諸隊ヲ集合ス(佳龍里ニ在リシ清国兵ハ約百名ニシテ,戦闘少時前成歓ヨリ派出シタルモノナラン。)〔「4時5分集合ヲ命シ各家屋内ヲ捜索セシメ敵兵2名ヲ生獲シタリ/(この)戦闘間カ右翼隊ニ死傷者ヲ生セシ(もっとも)多キ時(なり)」(詳報)〕(しか)シテ午前5時20分,第七中隊(長,大尉田辺光正)ヲ前衛ニ任ジ,当初ノ目的地タル銀杏亭高地ニ向テ佳龍里ヲ出発ス。

 

ラッパの響きの存在は,参謀本部の『明治廿七八年日清戦史』にも混成第九旅団の「混成旅団戦闘詳報」においても言及されていません。

 

イ ラッパの響き

ただし,佳龍里附近の戦いでラッパの響きを聞いたとの従軍記者の報告があります。西川宏『ラッパ手の最後―戦争のなかの民衆―』(青木書店・1984年)において,次のように紹介されています(133135頁)。

 

  大阪毎日新聞の高木利太特派員は,素(ママ)出発のときは右翼隊の後尾にあったが,歩行中水田に転落したので,わらじの緒をしめている間に一行にはぐれ,走って追い着いたところは先鋒軍(前衛である松崎中隊であろう―西川)の後尾であった。彼が危険な位置に来てしまったことを後悔したとき,

    数発の銃声数条の火線を飛ばして暗黒を破るとみるや轟然響を放って発銃は一秒一分愈(さかん)にして火条は右往左往又た縦横無尽開て破裂するあり走って消失するあり高く飛んで雲を磨するあり低く落ちて地に入るあり

     〔略〕

    兎角する程に余の身辺にヒュヒュと弾丸の走る音して危険極りなし暫くは道路に横臥して弾丸を避けたるも時を経るに従って飛散益甚し則ち慌てて水田の中に飛入って腰部を湿すを意とせず畦に拠って身体を隠し時に首も伸して戦争の光景如何に勝負は如何と眺めたり

    銃声漸く減じたる頃ろ喇叭の楽高く聞ゆ吶喚(とつかん)次で大に起る・・・銃声は再び回復されたり縦横左右に飛奔する火条は再び現はれたり然れども暫時にして亦た衰へぬ敵か味方か如法の暗なれば判然せねど一方の射撃は頗る減少せり之を見て取ったる一方は〇〇〇〇より銃声一度に響くこと再度此急激なる発銃は全く戦の終りを告げ後は彼処に五六発此所に三四発又も〇〇〇〇の進行喇叭は一層高く響き吶喚益高し而して銃声は全く憩ひぬ時は天漸く明にして山現はれ家現はれ森林見ゆ(『大阪毎日新聞』8月9日付)

時に5時であった。高木記者は,この戦闘の開始を3時40分と記しているが,『戦史』は3時20分としている。後者の方が正しいと思われる。〔略〕

東京日日新聞の黒田甲子郎特派員は,このとき右翼枝隊に付随していたというから,本隊すなわち第九中隊か第七中隊の中にあったと思われるが,橋を渡ろうとした一刹那,銃撃が始まった。

    我が枝隊は画策未だ全からずして開戦を促され一時喫驚せし色ありしも予てより斯くあるべしと覚悟せしことなれば之に応じて接戦すること殆ど1時間・・・敵兵の銃声多きと我が軍隊の地理に熟せずして掩蔽物(えんぺいぶつ)を利用すること(あた)はざるとの二点よりして我が軍隊に死傷多からんと思ひ居たりしに暫くにして((ママ))翼枝隊の一部は少く((ママ))進し(ちょ)水中に陥りたる兵士十数名は最も憐なる態にて退き来たるを以てこは必竟枝隊の敗戦と見受けられたり遺憾何ぞ極まらん何がな回復の策もあれがしと独語しつる折柄,我が軍隊が吶喊の声は天地も撼かさんまでの響きしたり我進軍喇叭の音は銃声霹靂(へきれき)の中にも最も朗かに聞えたり吶喊(こもご)も響きて音声稍遠ざかり敵の発射漸く減じたり(『東京日日新聞』8月14日付)。

そしてこのとき東の空が明るくなっている。黒田はこの戦闘を「殆ど1時間」と記しているが,時間を正確にはかっていないのであるから,ただ感じからいっているにすぎない。

 

 参謀本部の『明治廿七八年日清戦史』によれば,右翼隊の本隊(第二十一聯隊第十,第七及び第九の3中隊)による吶喊がまずあり,その後になってまた当該本隊による最終的な突撃があったということですから,これは高木記者の2度「吶喚」及びラッパ吹鳴があったとの証言(「銃声漸く減じたる頃ろ喇叭の楽高く聞ゆ吶喚(とつかん)次で大に起る」及び「〇〇〇〇の進行喇叭は一層高く響き吶喚益〻高し而して銃声は全く憩ひぬ時は天漸く明にして」)と符合するようです。1回目の「吶喚」及びラッパ吹鳴が「霎時ニシテ本隊ハ尖兵ノ右側後方ニ達シ其喊声ヲ揚ケテ前進スルヤ(本隊ハ尖兵ト敵ト接触シ在ルヲ認メタルカ故ニ危険ヲ慮リテ射撃ヲ為サス唯〻喊声ノミヲ発シテ前進シタリ)敵兵ノ過半ハ射撃ヲ本隊ノ方向ニ転セリ」の場面に対応し,2回目の「吶喚」及びラッパ吹鳴が「4時ニ至リ本隊ノ3中隊ハ敵ノ左翼ニ向テ突撃ヲ行フ敵兵支ル能ハス南方水田中ヲ跋渉シテ成歓方向ニ敗走ス」の場面に対応するわけでしょう。そうであれば,木口小平は,「吶喊」し,「突撃」をした右翼隊本隊を構成する三つの中隊である歩兵第二十一聯隊の第十,第七又は第九中隊のいずれかに所属するラッパ手であったということになりそうです。


(2)木口小平の戦死

しかしながら,相島亀三郎の『尋常小学修身書例話原拠』における木口小平戦死の描写は次のとおりです(1314頁)。

 

  第二十一聯隊附松崎大尉は,第十二中隊を以て前衛とし,闇夜に乗じて,成歓の城塁さして進み行く,木口小平は,其尖兵となり,勇気を奮ひて前に立ち,盛に突進の喇叭を吹奏す,敵の打出す砲弾は益々激しき中を,我は僅に二十余人のみにして如何ともなし難し,木口小平は,二等卒の身にありながら,勃然たる勇気抑へ難く,敵前五六間の処に進み出て,進め進めと吹奏して,我軍の勇気を振興せしむ,我軍は此勇気に励まされて突進し,遂に敵兵を破る。時に今まで吹き続けたる喇叭の音は俄かに絶えければ,怪しみて之れを見るに,小平は敵弾に中りて勇ましき戦死を遂げたるなりき。其死骸を取片くるに及びてよく見るに,小平は喇叭をしかと握り,之れを口に当てたる儘正しき姿勢をくづさずして斃れ居たり。人之れを見て感嘆せざるはなかりき。嗚呼,忠烈なる小平,死に至るまで己れの任務を尽したる,誠に幾千歳の亀鑑となり,長へに護国の神たらん。小平は実に岡山県川上郡成羽村の産なり。

 

 なお,相島亀三郎の『尋常小学修身書例話原拠』の記述は,上記に続いて直ちに「第19 うそをいふな」と警告します(14頁)。

 さてさて,木口小平は第十二中隊の兵卒でありました。(なお,長岡常男『木口小平』(木口小平伝記刊行所・1932年)5051頁には「第五師団司令部保管の歩兵第二十一聯隊戦死者名簿には左の如く記載し明確に小平の偉勲を証拠立てゐる。」としつつ「歩兵第二十一聯隊第十一(ママ)中隊喇叭卒/木口小平/安城渡に於て左胸部銃創貫通即死」との記載がされていますが,これは校正が甘過ぎます。歩兵第二十一聯隊第十一中隊は,成歓の戦いの当時は遠く仁川兵站守備隊に属していました(参謀本部127頁)。)

 しかし,相島訓導の記述は,まずい。「第二十一聯隊附松崎大尉は,第十二中隊を以て前衛とし,闇夜に乗じて,成歓の城塁さして進み行く,木口小平は,其尖兵となり,勇気を奮ひて前に立ち,盛に突進の喇叭を吹奏す」が,まずまずい。素沙場からラッパをずっと吹いていたのでしょうか。せっかく「闇夜に乗じて」いるのに,にぎやかに「盛に突進の喇叭を吹奏」していたのでは部隊行動の秘匿性はぶち壊しです。混成第九旅団の「混成旅団戦闘詳報」にも,「全団(ばい)(ふく)メ」とあったところです。また,第十二中隊はラッパの響きと共に佳龍里に「突進」したわけではなく,いきなり清国兵の銃撃を受けて不意をつかれたところでした(「一時喫驚」)。

さて,佳龍里附近の戦闘においては,尖兵の第二小隊は射すくめられて「直ニ現場(屋後ノ畑地)ニ伏臥」したのでしょうが,後方の第一小隊及び第三小隊は「直ニ田畔ニ散開」,すなわち高木記者のように「慌てて水田の中に飛入って腰部を湿すを意とせず畦に拠って身体を隠し」たように思われます。「敵の打出す砲弾は益々激しき中を,我は僅に二十余人のみにして如何ともなし難し」ということにはなるのですが,「木口小平は,二等卒の身にありながら,勃然たる勇気抑へ難く,敵前五六間の処に進み出て,進め進めと吹奏して,我軍の勇気を振興せしむ,我軍は此勇気に励まされて突進し,遂に敵兵を破る。」というのはどうでしょう。闇夜でラッパを吹けば当然そこに銃撃は集中し,しかも「敵前五六間」の至近距離であればあっという間に絶命でしょう。「我軍の勇気を振興せしむ」というよりは,その無残さは,畑地に又は田畦に伏臥していたであろう我が軍の兵士らに更に恐怖を与え,士気を阻喪せしめるだけではなかったでしょうか。そもそも,隊長の命令によらず,「勃然たる勇気抑へ難く」勝手に進軍ラッパを吹奏してしまってよいものでしょうか。また,現実には第十二中隊だけの「突進」で佳龍里の清国兵を追い払うことができたわけでもありません。

なお,相島訓導の表現からは,「成歓の城塁」の戦いにおいて木口小平が戦死したものとしているものとも読み得ますが,成歓駅自体を落としたのは旅団長率いる左翼隊であって,牽制役の右翼隊ではありません(参謀本部148頁)。

木口小平の屍体検案書が広瀬寅太編『岡山県人征清報国尽忠録』(岡山県愛国報公義会・1894年)に掲載されているそうですが(西川118頁),この「屍体検案書で注目すべきことは,「左胸乳腺の内方より心臓を貫き後内((ママ))に向ひ深く進入せる創管を認」め,死因を「左胸留丸銃創」と記していることである。弾が当たったのは咽喉ではないのである。そして弾丸が心臓が貫いている以上は即死と判断せざるをえない。」ということでした(西川146147頁)。更にいえば,伏臥の姿勢であるときに撃たれたわけではなさそうです。高い姿勢であるときに胸を撃たれたということになると,不意をつかれた最初の銃撃の時であるとも考えられます。しかしそれで直ちにパタリと斃れてしまっては,「シンデモ ラツパ ヲ クチ カラ ハナシマセン デシタ。」にはならず,困ったことになります。


4 「シンデモラツパヲ」その2:白神源次郎

 

(1)当初の白神源次郎説

とはいえ,木口小平が「シンデモ ラツパ ヲ クチ カラ ハナシマセン デシタ」状態で戦死していたかどうかは,最初からはっきりしていなかったようです。1894年8月9日付け『東京日日新聞』の「戦闘遺聞」欄で「喇叭卒の一名は進軍喇叭を吹奏しつつ敵弾に斃れ斃れ,猶ほ管を口にし」たとの挿話が紹介され(西川31ページ),「29日我兵安城渡に向ふ我喇叭卒某進軍行を鼓吹すること劉喨(りゅうりょう)たり(たまた)ま飛丸あり彼が胸部を撃つ彼倒れて尚鼓吹を(とど)めず瞑目絶息に至り初めて吹奏を絶つ」と『日清戦争実記』第2編(博文館・1894年9月10日)の88頁(「凛然たる勇烈兵士の亀鑑」)に記事が出たラッパ手は,当初は白神源次郎であるとされていたのでした(なお,この氏は,「しろがみ」ではなく「しらが」と読むそうです(西川151頁)。)。

 

 成歓の役第五師団第廿一聯隊正に進軍の喇叭を奏す兵士銃を()つて突進し両軍砲声相交はる忽ち一丸飛来つて喇叭手白神源次郎(二十五年)の胸部を貫ぬく鮮血淋漓(しりえ)(どう)と倒れたれども白神は毫も屈する色なく手に喇叭を放さず喨々として凄まじき進軍喇叭の声を絶たずされども深痛(ふかで)に弱りて呼吸いよいよ迫り吹奏断続其声(いと)の如く次第々々に弱り行きて吹奏止むとき彼は已に絶息して最も名誉の戦死を為したりされば在韓将卒は皆其の勇猛義烈を称して哀惜殊に深かりしが此程其遺髪郷里備中国浅口郡船穂村大字水江に到着したるを以て去4日其葬儀を施行したり当日は浅口郡役所より吏員数名出張して之に臨み会葬者は村役塲吏員一同及び同村小学校教員生徒等無慮4百余名に及び祭文を朗読するもの十数名にして老幼婦女何れも感涙に(むせ)ばぬはなかりしと云ふ(『日清戦争実記』第4編(1894年9月29日)83頁「戦死喇叭手の葬儀」)

 

 「在韓将卒は皆其の勇猛義烈を称して哀惜殊に深かりし」とはいえども,1894年8月15()日付け大島義昌混成旅団長発参謀総長宛て臨着第412号の同年7月29日成歓駅の戦闘に係る戦死傷者名簿(アジア歴史資料センター)においてはなぜか「白神源太郎」となっていて「源次郎」となってはいません。肝腎の戦死者名の取扱いで早速これですから,最初から種々の混迷が予期され得たところでした。(ちなみに,臨着第412号においては,戦死者名「木口小平」はそのままです。なお,「田上岩吉」という第二十一聯隊の戦死者名がそこにあることについては考えさせられます。「田上岩吉」は,7月23日の「京城ノ変」で死亡した同聯隊の兵卒の名前ではなかったでしょうか。同姓同名の兵卒が二人いてどちらも運悪く相次いで死亡したのでしょうか。)

 1895年になると,ラッパ手=木口小平説が出てきています。

 

  成歓の役名誉の戦死を遂げたる喇叭卒は白神源次郎氏にあらずして木口小平氏なるとの説あるより,此頃或人同氏の郷里なる岡山県備中国川上郡成羽村に赴きて其遺族を訪ひしに,其戦死の当時附属の隊長及び其屍体を撿案したる軍医より送越したる報告,慰問状,撿案書等あるも,過日遺族救与金を請求するの際村長に托して悉く之を其筋に差出したるより之を一覧するを得ざりしも,同村役塲員及び遺族の語る処に拠れば,此役木口氏は安城の川を難なく押渡り,岸辺に立ちて音も朗かに進軍の譜を吹奏しつ〻ある折しも,敵弾飛来て其胸部を貫きたれども,氏は屈する色なく依然吹奏して止まず,既にして傍なる一士官を顧み「敵は如何に」と問ひ,士官は「敵は敗れて逃走せり」と答へしかば,木口氏は「然るか」との最期の一言を残して其儘斃れたることは慥に其文中にありしと云ふ。(『日清戦争実記』第40編(1895年9月27日)4142頁「喇叭卒木口小平」)

 

(2)白神説から木口説へ

 1897年には,東京九段の軍事教育会というところが出していた『軍事新報』が「本部調査」の結果として,白神源次郎は専ら銃卒として服務していたとして,ラッパ手=木口小平説への統一を図ります(「木口小平ト白神源次郎」)。

 

  戦場吶嗟ノ際訛伝ノ世ニ流布スルハ古来甚タ其例ニ乏シカラス不幸ニモ成歓駅ノ戦ニ於テ又一ノ訛伝ヲコソ伝ヘヌ然リ世人ハ喇叭手白神源次郎ナルモノヲ知ラン然レ𪜈(とも)未ダ喇叭手木口小平ナルモノヲ知ラサルヘシ否ナ白神ノ当時喇叭手ニアラスシテ彼レハ精鋭勇敢ナル銃卒タリシ(こと)ヲ知ラサルヘシ余輩ハ殆ント功績ニ於テ優劣ナキ此2死者ノ為メニ其事実ヲ世ニ紹介スルノ責アルヲ覚ユ余輩ハ真実吹奏死ニ至リシ木口小平ノ為メニ又此重キ事実ノ為メニ沈黙ヲ守ル可ラサルヲ感セスンハアラサルナリ

  請フ暫ク余輩ヲシテ謂ハシメヨ隊中兵卒間ニ於テハ喇叭手教育ヲ受ケシモノヲ呼フニ多クハ単ニ喇叭ト称シ而シテ概ネ其喇叭手ニ服務スルト銃卒ニ服務スルトヲ問ス之ヲ以テ修羅ノ街ノ常トシテ訛伝ハ此間ニ胚胎セシナラン聞ク白神ハ性活溌ニシテ頗ル勇敢ナリシヲ以テ率先奮闘実ニ美事ナル打死ヲ為セリト然レ𪜈之カ為メニ此ノ重キ名誉ノ行為者タル木口小平ノ名ヲ埋没スルハ余輩ノ忍ハント欲スルモ忍フ能ハサル処ナリ木口ハ岡山県川上郡成羽村ノ人ニシテ明治2512月1日徴兵トシテ歩兵第二十一聯隊第十二中隊ニ入隊シ喇叭手トナル其諸演習ニ於ケルヤ敏捷奇智ノ才ナキモ然カモ胆力剛気ハ他人ニ抜ンヅ

   〔以下略〕(『軍事新報』第1号(1897年6月12日)15頁)

 

  白神源次郎ハ岡山県浅口郡船穂村ノ人ニシテ日清戦役ニ際シ予備トシテ歩兵第二十一聯隊第九中隊ニ入ル彼ハ現役ノ時ハ喇叭手タリシモ当時ハ都合ニ依リ銃卒ト為レリ彼ハ行状方正ニシテ而シテ頗ル元気モノタルヿハ衆ノ知ル処ナリシ之ヲ以テ平素勤務ニ勉励ナルノミナラス戦塲ニ於テハ一層ノ勇気ヲ現ハシ戦塲ノ最先登ニアリテ各兵ノ模範タリシヿハ又衆ノ知ル処ナリシ茲ニ於テカ喇叭手ノ戦死シタルヲ伝フルモノアルニ会スルヤ其別ニ木口小平ナルモノアルヲ知ラスシテ彼レノ平素ヨク勇武ナリシヲ知ルモノカラ遂ニ速断ニモ白神源次郎ノ名ヲ伝ヒシモノナルヘシ以テ彼レカ如何ニ忠勇ナリシカヲ想ヘ

  猶ホ余輩ノ処説ヲ確カムル為メ歩兵第二十一聯隊山田中尉ヨリ某大佐ヘノ書翰中ノ一節ヲ左ニ掲ク

  明治27年7月29日成歓役ニ於クル喇叭吹奏者ハ左記理由ニ依リ木口小平ト断定仕候

   一白神源次郎ハ現役服務中ハ喇叭手ナリシモ充員召集セラレテハ喇叭手ニ非ラス歩兵第二十一聯隊第九中隊ニ属シテ銃卒タリ故ニ成歓ノ役ニ於テ喇叭ヲ所持セス

   一成歓ノ役戦死シタル喇叭手ハ只木口小平一人ニシテ他ニ喇叭手ノ負傷者スラ一人モナシ

   一木口小平ト同中隊同小隊ナル竹田国太藤本徳松ノ目撃セシ所ニ依レハ木口小平ハ劇戦ノ間喇叭ヲ吹奏シ遂ニ戦死シタルヿ明カナリ(別紙)

   一木口小平ノ死後尚喇叭ヲ握リツヽアリシハ前項事実ト其動作ノ勇敢ナリシヲ証スルニ足ル

     30年4月20日     山 田 四 郎

御下問相成候木口小平儀ハ安城渡会戦ノ際中隊長松崎大尉殿ノ御側傍ニ在リテ丁度進撃号音吹奏ノ折柄適々敵ノ銃丸中リテ濠辺ニ倒レ尚喇叭ヲ奏シ絶命ノ後チ水中ニ斃レ込シ者ニシテ其死躰ハ右手ニ喇叭ヲ握リタル儘ニ水中ニ有之候ヲ第二小隊第四分隊ノ兵卒藤本徳松竹田国太ハ現ニ其ノ傍ニ在リテ実見致セシ者ニ御座候此段申上候也

   4月20日       藤 本 軍 曹

     山田中尉殿

          (『軍事新報』第2号(1897年6月19日)1213頁)

 

 白神源次郎が当時喇叭手でなかったことは分かりますが,思わせぶりな「率先奮闘実ニ美事ナル打死」の様子がなおも不明です。

 成歓の役における歩兵第二十一聯隊の下士兵卒戦死者29名(参謀本部・附録第14ノ1)のうち戦死した喇叭手は木口小平一人であるとしても,それだけでは戦死の際ラッパを吹奏していたかどうかは分かりません。藤本軍曹作成の書面にしても,死体が濠の水中にあったなどというところは妙に詳しいのですが,屍体検案書上は心臓を貫かれたはずの木口小平が即死していないことになっていて,なかなか信用性が苦しい「目撃証言」です。

 

(3)白神源次郎溺死説

 ところで白神源次郎の「率先奮闘実ニ美事ナル打死」の様子については,1932年に歩兵第二十一聯隊将校集会所が発行した『我等のほこり』において,「聯隊の戦死者名簿には明に次の如く記載されて居る。」として「白神源(ママ)郎,歩兵第二十一聯隊第九中隊喇叭兵明治27年7月13(ママ)日千秋里にて溺死。」と発表されています(25頁)。何と,溺死ですか。その死体は,水中にあるところを発見されたということなのでしょう。しかし,『我等のほこり』の当該記述については,「私は「聯隊の戦死者名簿」なるものは全く信用できないものであり,それは偽文書か,あるいはもともと存在しない架空の文書ではないかと思う。」と酷評されています(西川124125頁)。死亡日付が変ですし,「千秋里という地名については,中村紀久二氏の詳しい調査があって,結局そのような地名は少なくとも成歓付近には存在しないということが言える(中村,1977年〔「二人のラッパ卒の謎」望星1977年2月号〕)」等不審な点があるからであるとされています(西川124頁)。

 しかしながら,佳龍里附近の戦いにおいて我が軍には確かに溺死者が出たところです。「是時歩兵中尉時山龔造ハ約3分隊ノ兵員ヲ率テ敵ノ左翼ニ向ハントシ右方ニ折レ細径ヲ経テ前進シ一水壕ノ其前方ニ横レルニ会シ徒渉シテ進マント欲シ先ツ自ラ躍テ水中ニ入ルヤ部下相続キテ壕心ニ到ル此壕固ト水多ク且ツ河床泥深ク遂ニ進退ノ自由ヲ失ヒ中尉以下23名此ニ溺死ス」という事態が発生したことは参謀本部の『明治廿七八年日清戦史』の認めているところでした。なるほど時山中尉は白神源次郎らを率いた第九中隊の将校だったのか,ということになれば理解が比較的簡単です(「それにしてもレミングの大移動じゃあるまいし,23人もあと先考えずに次々ぞろぞろ壕にボッチャンボッチャンボッチャンボッチャン飛び込んで溺死するというのは不思議だなぁ。何も見えない真夜中に,深さも幅も分からない大きそうな壕に行き会ってしまったら,もう少し慎重に振る舞うものだろうに。」という疑問は残ります。)。ところが,時山中尉は「歩兵第二十一聯隊第七中隊小隊長陸軍歩兵中尉」なのでした(参謀本部・附録第14ノ2)。第七中隊です。そうであれば,時山小隊長に率いられて溺死する下士兵卒22名は,皆第七中隊の所属者でなければいけないようです。すなわち第九中隊の下士兵卒には溺死者はなかったのである,といいたいところですが,事実はなかなか複雑です。「『靖国神社〔忠〕魂史』第1巻〔靖国神社社務所編・1935年〕によると,第七中隊の当日の死者は8名となっている」一方(西川126頁),「源次郎らの第九中隊の29日における戦死者は15名,そのうちいま死因のはっきりしているのは瀬政治三郎一等卒と阿部林吉上等兵の二人」であり,かつ,それら瀬政治三郎及び阿部林吉のいずれもが溺死したものとされているのです(西川125126頁)。

 実は,成歓の戦いにおける歩兵第二十一聯隊第九師団の戦死者の大部分は,溺死したものと考えてよいように思われます。佳龍里附近の戦いにおける溺死者23名を除いた成歓の戦い全体における我が軍の戦死者は,実は10名(歩兵第二十一聯隊で8名,歩兵第十一聯隊1名,衛生隊1名)でしかないところ(参謀本部・附録第14ノ1),松崎・木口を除く歩兵第二十一聯隊に係る残り6人の枠に第九中隊の兵士が入ることは難しい。第九中隊には戦傷者からして少なかったからです。すなわち,1894年7月31日付け木下俊英臨時衛生隊医長作成の「衛生隊第1回業務報告」(アジア歴史資料センター)における「隊別傷者ノ数幷ニ負傷ノ部位負傷ノ種類」の項を見ると「隊中負傷者ノ最モ多キハ二十一聯隊ノ十二,七,十,十一聯隊ノ八中隊等ニシテ負傷ノ位部ハ前膊下腿大腿ヲ多シトシ負傷ノ種類ハ殆ント皆銃創ナリトス」とあって,右翼隊の歩兵中隊の中で第九中隊だけが言及されていないところです。(ただし,第九中隊長代理陸軍歩兵中尉守田利貞は負傷しています(参謀本部・附録第14ノ2)。しかし,「銃丸頭部擦過」の軽傷で(混成旅団戦闘詳報),8月中旬には全快しています(臨着第412号)。守田中尉は佳龍里の戦いの後の牛歇里に向かっての戦いにおいてなお第九中隊の長代理となっていますから(参謀本部151頁),佳龍里戦終結の段階では無傷だったものと一応考えるべきでしょうか。)なお,歩兵第十一聯隊の第八中隊は,左翼隊の先頭に立った中隊です(参謀本部142頁)。歩兵第十一聯隊の戦死者は1名にすぎません。

 結局,第七中隊の時山中尉と共に溺死したとされる下士兵卒には,第九中隊のものが多く含まれていたようです。これはどう考えるべきか。「枝隊の一部は少く((ママ))進し(ちょ)水中に陥りたる兵士十数名は最も憐なる態にて退き来たる」という前記黒田記者の報告に鑑みると,「霎時ニシテ本隊ハ尖兵ノ右側後方ニ達シ其喊声ヲ揚ケテ前進スルヤ(本隊ハ尖兵ト敵ト接触シ在ルヲ認メタルカ故ニ危険ヲ慮リテ射撃ヲ為サス唯〻喊声ノミヲ発シテ前進シタリ)敵兵ノ過半ハ射撃ヲ本隊ノ方向ニ転セリ」の際敵兵の過半の射撃がこちらに転じられたことに驚き恐れた右翼本隊の第七中隊及び第九中隊の兵士らは算を乱して「((ママ))」すなわち背進し,恐慌状態のまま水壕に駆け入り溺死してしまったのではないかとも想像され得ます(西川137138頁参照)。溺れずにすんだ「兵士十数名」が「最も憐なる態にて退き来たる」ということになったのではないでしょうか。なお,「(本隊ハ尖兵ト敵ト接触シ在ルヲ認メタルカ故ニ危険ヲ慮リテ射撃ヲ為サス唯〻喊声ノミヲ発シテ前進シタリ)」とのくどい部分は,清国兵に一弾もお見舞いせずに逃げ帰って来たことについての言い訳であるようにも感じられます。

 とはいえ,前進攻撃の積極姿勢をもって死を迎えたとされる時山小隊長とその勇敢な部下らとに係る『明治廿七八年日清戦史』の可憐な話は,一時背進の混乱の渦中での無様な溺死事件を糊塗するための創作だったのかしらと考えてみるのは,うがちが過ぎるでしょう。(なお,参謀本部142143頁間の地図を見ると,時山「小隊」だけが,まず全州街道を南南東へ進んだのであろう他の部隊とははぐれたかのように道のない所(水田でしょうか。)を南西方向に単独真っすぐ進んで溺死事件の場所とされるのであろう壕に突き当たった形になっています。)

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「潴水」とは,水溜り,沼又は溜池のことですが,これは空沼岳の万計沼(真駒内川源頭の一つ)
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 空沼岳の真簾沼
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 空沼岳の青沼 
 

(4)時山龔造と時山直八

 ちなみに,我が騎兵第五大隊第一中隊長の豊辺新作大尉は越後長岡藩の出身でしたが,時山龔造中尉は,慶応四年五月十三日(1868年7月2日)に戊辰戦争北越戦線の朝日山の戦いで戦死した奇兵隊士・時山直八の家の令嗣です(谷頭辰兄『日本帝国軍人名誉鑑』(盛文舘・1895年)133134頁)。幕末の長岡藩執政・河井継之助の生涯を描いた司馬遼太郎の『峠』には,次のようにあります(「蹶起」)。ただし,当該作品においては五月「十二日」の出来事とされているのは,飽くまでも歴史小説だからでしょう。

 

   その敵の「気抜け」が,いくさ名人の立見鑑三郎〔尚文〕のつけめであった。

   ――いまだ。

   と小声で〔長岡藩隊長〕安田多膳の袖をひいた。「心得たり」と安田は槍をとりなおし,「よいか,おのおの」と隊士をふりかえり,やがて,

  「かかれえっ」

   と叫び,みずから塁をとびこえ,先頭をきって敵のむれに突入した。

   官軍は仰天した。このおどろきが,戦意をくじかせた。あれほど勇猛だった薩長の兵が別人のように臆病になり,戦うよりも逃げることに専念した。東軍はそれを追った。背後から槍で串刺しするだけであり,獣を狩るよりもやさしかった。やがて霧がはれ,射撃が可能になると,追い落しはさらに楽になった。官軍は山腹まで退却し,もはや隊列をなさず,個々にあちこちの岩や樹の蔭にひそんだが,それを上から狙撃してゆくだけでよかった。

   薩長の人数は,この戦いで長州藩小隊司令山根辰蔵以下おびただしい死傷を出したが,なかでも官軍にとって大きな衝撃になったのは,参謀時山直八の死であった。時山は飛弾のために即死し,兵がその死体を収容しようとしたが戦況がそれをゆるさず,やむなく首を切って退却した。

   

時山龔造は嘉永四年十二月山口県萩の生まれといいますから(谷頭134頁),安城渡の戦いで溺死した時には42歳でした。小隊長として前線で駆け回るのは既に骨だったことでしょう。二日前に起きた歩兵第二十一聯隊第三大隊長古志(こし)正綱少佐の自刃事件のあたりから,嫌な予感がしていたでしょうか。

 

 あだ守る砦のかがり影ふけて夏も身にしむ(こし)の山風   山県有朋

 

 小千谷市船岡山にある時山直八の墓誌の撰文は,「直八の莫逆の友」山県有朋によるものです(安藤英男『河井継之助写真集』(新人物往来社・1986年)122頁)。また,豊辺騎兵第五大隊第一中隊長は,河井継之助の親族です(豊辺中隊長の父の陳善は蒼龍窟継之助秋義と従兄弟,すなわち豊辺中隊長の祖父で河井家から豊辺家に養子に入った輔三郎(半蔵,陳好)は継之助の父・四代目河井代右衛門(秋紀,小雲)の弟でした(安藤27頁・194頁)。)。

 

5 「シンデモラツパヲ」その3:小括

 以上「シンデモラツパヲ」について長々と書いてしまいましたが,結論的には,「「勇ましの喇叭手」は白神でもなければ木口でもないというのが私の結論である。では誰なのか。誰でもない。初めに安城渡の軍歌が作られ,それが一躍有名になると,その戦闘で死んだラッパ手が探し出されたというのが真相であろう。」ということだそうです(西川147頁)。当初日清戦争戦死第1号の「勇士」として喧伝された松崎直臣大尉の物語の「その陰に隠れるように紡がれ始めた別の物語が次第に成長し,彼の物語を圧倒」したのでした(酒井敏「〈勇士〉の肖像―『日清戦争実記』と読者―」日本近代文学第67集(20021015日)9頁)。江川達也『日露戦争物語 第十一巻』(小学館・2004年)では,木口小平も白神源次郎もラッパを吹きながら清国兵の銃弾で撃たれて戦死した形の描写になっています。

 

6 成歓・牙山戦における騎兵第五大隊第一中隊

 さて,我らが騎兵第五大隊第一中隊。

 豊辺騎兵中隊長が「7月29日午後牙山ニ於テ」作成した「戦闘詳報」(アジア歴史資料センター)には,騎兵第五大隊第一中隊の成歓・牙山の戦いの様子が次のように記されています。

 

  一午前2時10分素沙塲露営地ヲ出発シ総予備隊(歩兵第廿一聯隊第一大隊)ノ後方ニ在テ行進シ1在成歓ノ敵ノ右翼ニ迂回運動ヲ為ス

  二午前5時左翼隊砲戦ヲ始ム(2)中隊ハ総予備隊ノ左方ニ在テ行進ス(3)

  三仝5時40分総予備隊展開ヲ為シ前面ノ敵ト対戦シ(4)続テ敵ノ東方幕営地ヲ占領ス(5)此際騎兵中隊ハ敵ノ砲兵陣地ノ南方ニ進ミ敗潰セル敵兵ヲ追撃ス(6)

  四敵ノ砲兵ノ一部退却ニ際シ我騎兵ノ前進ヲ見砲2門ヲ陣地ノ南方山腹マテ引出シ其儘退却セル者ノ如シ

  五西方幕営地ハ歩兵第廿一聯隊ノ前進ニ際会シ仝時侵襲セリ(7)而シテ騎兵ハ牙山方向ニ退却セル敵兵ヲ追撃シ敵ノ歩兵8名ヲ斬ル(8)

  六午前8時30分戦闘終リ成歓西方高地ニ在ル旅団司令部ニ合シ一時人馬ノ給養ヲ為ス(9)

  七午前9時20分牙山方向ニ退却セル敵兵ヲ追撃シツ10午後3時30分三江里ニ着ス11仝所ヨリ曲橋里方向ニ一組ノ将校斥候ヲ出シ中隊ハ直ニ牙山ニ向テ行進セリ12

  八土人ノ言ニ依レハ敗走セル敵ハ本日一部ハ牙山方向ニ一部ハ新昌ノ方向ニ退却セリト云フ13

  九午後5時下士斥候一組春甫方向ニ出セリ

  十曲橋里方位ニ出シ将校斥候午後7時牙山ニ帰隊敵ノ主部新昌方向ニ退走セル者ノ如シ途次清兵ノ被服弾薬等処々ニ散乱セルヲ見ル

  十一本夜中隊ハ歩兵第二十一聯隊ト共ニ牙山ニ露営ス14

  十二午前3時歩兵第二十一聯隊伝騎二等卒松永翠右肩部ニ銃傷ヲ受ク

  

  註(1)独立騎兵隊は左翼隊の最後尾でした(参謀本部140頁)。左翼隊の「行進意ノ如ク速カナル(こと)能ハス遂ニ其後尾ヲ渡河塲ニ於テ一時開進セシメ右翼隊ノ行進路ヲ開カサルヲ得サルニ至レリ」(混成旅団戦闘詳報)ということでしたから,右翼隊が午前2時過ぎに素沙場を出発する際には独立騎兵は道を譲ってまだ素沙場にいたということになるようです。平城盛次騎兵少尉及びその分隊は,さすがにそれまでには牙山から素沙場に戻って来ることができていたかどうか。なお,「是夜陰雨晦冥咫尺ヲ弁セス加フルニ道路泥濘ニシテ間脚ヲ没シ路幅狭小路面粗悪ニシテ往々或ハ水田ニ陥リ先頭或ハ岐路ニ迷ヒ後者或ハ連繋ヲ失フ等隊間ノ断続スルコト数回ニシ行進渋滞」していました(参謀本部140頁)。「伝騎ヲ発セントスルモ道路狭隘ノ為メニ果サス」ということで(混成旅団戦闘詳報),騎兵はなかなか動きようがない。

  註(2)「砲兵大隊長永田亀ハ〔略〕大隊ヲ宝蓮山南方約5百米突(メートル)ノ高地ニ招致シ此ニ放列(第一砲兵陣地)ヲ布キ(午前5時30分)将サニ試射ヲ畢ラントスルニ方リ敵ハ悉ク潜匿ス」(参謀本部142頁)又は「午前5時35分砲兵団芥子坊主山ノ東方ニ放列ヲ布キ射撃ヲ開始ス」(混成旅団戦闘詳報)。

  註(3)「旅団予備隊ハ砲兵隊ノ左翼後ニ開進ヲ終ル/騎兵ハ目下捜索ノ必要ナキヲ以テ予備隊ノ後方若干距離ニ在リ」(混成旅団戦闘詳報)。

  註(4)「〔砲兵大隊は〕新井里東方高地嘴ニ移リ此ニ第二陣地ヲ占領セリ而シテ其再ヒ砲火ヲ開始セルハ午前6時10分頃ナリキ」(参謀本部143頁)。「砲兵第三大隊ハ敵兵ノ漸ク動揺スルヲ見今ヤ前進シテ第三陣地ニ移ラント欲セシモ其護衛歩兵中隊(〔歩兵第十一聯隊〕第十二中隊)頗ル遠隔シ〔略〕其右側前危険ナルニ因リ大隊長ハ旅団予備隊ノ前進ヲ旅団長(開戦後常ニ砲兵陣地附近ニ在リ)ニ請求シ旅団長ハ予備隊(此予備隊及独立騎兵隊ハ開戦後一タヒ砲兵第一陣地ノ後方ニ開進シ後チ砲兵大隊ノ第二陣地ニ移ルヤ之ニ続行シテ又此砲兵陣地ノ後方高地脚ニ開進シ在リタリ)中ヨリ歩兵第二十一聯隊ノ第一中隊(長,大尉服部尚)ヲ前進セシメ〔略〕乃チ服部中隊ハ砲兵大隊ニ先タチ進テ新井里西南方ノ高地ニ達シ月峰山北麓ナル丘稜ニ拠レル敵ニ対シ猛烈ニ之ヲ射撃シ予備隊ニ在リシ歩兵第二十一聯隊ノ第三中隊(長,大尉河村武モ亦命ヲ受ケテ第一中隊ノ左方ニ展開ス是ニ於テ大隊長森祗敬ハ此両中隊ヲ指揮シ交互ニ前進セシメ罌粟坊主山東北方3百米突ノ山稜ニ達シ罌粟坊主山ノ敵ヲ猛射セリ(午前6時30分〔略〕)」(参謀本部144145頁)。

  註(5)「成歓北方ナル幕営ノ囲壁ニ拠リシ清兵ハ最後ノ時期ニ至ルマテ抵抗セリ因テ森少佐ハ罌粟坊主山ノ陥ルヲ見ルヤ〔第二十一聯隊の〕第一,第三中隊ヲ率ヰ〔第十一聯隊の〕第十二中隊(砲兵護衛隊)亦之ニ連ナリ大森林ノ南縁ニ沿ヒ進ミテ共ニ此幕営ヲ攻撃シ〔略〕遂ニ全ク成歓方面ノ敵ヲ駆逐シ森少佐所率ノ2中隊(第一第三)ハ進テ成歓北方ノ2幕営ヲ占領シ」た(参謀本部147148頁)。「午前7時半全ク成歓北方ノ高地ヲ占領シ」た(混成旅団戦闘詳報)。

  註(6)「旅団長ハ成歓方面ノ敵ノ幕営ヲ占領スルヤ独立騎兵(此騎兵中隊ハ戦闘間常ニ砲兵大隊ノ左翼後ニ在テ行進シ来レリ中隊ノ現員此時僅ニ29名)ヲシテ敵ヲ追躡セシム因テ此騎兵ハ先ツ牛歇里高地ニ向ヘリ(此中隊ノ牛歇里高地ニ達セシハ恰モ右翼隊ノ敵塁ニ突入セントセシ時ナリ〔略〕)」(参謀本部149150頁)。なお,牛歇里の清国砲兵は我が左翼隊砲兵団に応射していました(参謀本部148頁・151頁)。

  註(7)「7時40分頃〔右翼隊の〕歩兵ノ全部吶喊シテ幕営内ニ突入シ騎兵中隊(此中隊ハ上記敵兵追躡ノ命ヲ受ケ成歓地方ヨリ出発セルモノナリ)モ亦来リ共ニ此幕営内ニ突入ス清兵大ニ驚キ砲ヲ棄テ西南方ニ向ヒテ敗走シ各線ハ盛ニ追撃射撃ヲ為セリ是ニ於テ牛歇里ノ敵モ全ク敗走」した(参謀本部152頁)。

  註(8)「旅団長ノ直接指揮下ニ属セシ諸隊ハ〔略〕歩兵第二十一聯隊ノ第一中隊ヲ除クノ外旅団長ノ命ニ依リ是時(午前8時30分)牛歇里酒幕ノ西方約千米突ナル高地上ニ集合シタリ而シテ騎兵中隊ハ牛歇里ノ幕営ニ突入シタル後チ牙山方向ニ向ヒ退走セシ敵ヲ追躡シタルモ其大部ハ已ニ遠ク敗走シテ接触ヲ得ス馬首ヲ囘シテ旅団本部ノ集合地ニ復帰シタリ」(参謀本部153頁)。清国歩兵8名の殺生の話は混成旅団戦闘詳報にもあったのですが(「我騎兵ハ敗走スル敵ノ歩兵ヲ襲撃シ其8名ヲ斬殺ス」),『明治廿七八年日清戦史』には記載されていません。いずれにせよ,殺生は少ないに越したことはありません。

  註(9)「午前給養隊ニ命シ可成多数ノ粮食ヲ軍勿浦ニ運搬セシメ且ツ戦勝ヲ大本営及公使舘ニ伝フヘキヿヲ命セリ」(混成旅団戦闘詳報)。「午後零時半〔旅団の〕本隊ヲ止メ大休止ヲナシ給養隊ヨリ駄送シ来リシ昼食ヲ後尾ヨリ分配セシム時ニ暴雨人馬皆濡ル」(混成旅団戦闘詳報)。

  註(10)「此役成歓方面ヲ守リシ清兵ノ首力ハ聶士成之ヲ率ヰ牛歇里戦闘間南方天安ニ向テ退キ牛歇里方面ノ清兵ハ西南方ニ圧迫セラレ一時牙山ノ方向ニ退避シ更ニ転シテ南方ニ走リ首力ニ合シタルモノ如シ然カレトモ大島混成旅団長ハ未タ之ニ関スル精確ノ情報ヲ得ス尚ホ牙山ヲ以テ敵ノ首要ナル根拠地ト信シ且ツ成歓,牛歇里ヲ守レル敵ハ今ヤ其根拠地タル牙山ニ退却シ再ヒ彼地ニ拠テ抵抗スヘシト判断シ此機ヲ逸セス直ニ牙山ニ進ミ本日中ニ其根拠ヲ衝ント決シ午前9時20分ヨリ1030分ノ間ニ於テ旅団ノ全部ヲ出発シセメタリ旅団長ハ諸隊ニ出発ヲ命シタル後昨夜28日)7時半牙山発平城騎兵少尉28日牙山方向ヘ派遣セラレタル斥候)ヨリ清兵ハ成歓及天安ニ移リ牙山ニハ一兵モ見ストノ報告ヲ得タルモ前記ノ判断ヲ有セシヲ以テ其決心ヲ翻サス」(参謀本部154頁)。勇んで成歓から更にその南西の牙山に進み,やっと着いてみると粉砕すべき清国兵は既にいなかったので,大島旅団長としては,自分の判断間違いの照れ隠しに,平城少尉の報告が自分のところに届くのが遅れたのが原因である旨示唆しているということでしょうか。『日露戦争物語 第十一巻』166頁の「じゃけぇ,牙山に敵はおらんと昨日,報告しょうたのに・・・」との感慨は,本来平城少尉のものなのでしょう(なお,平城少尉は,長崎県士族)。

  註(11)「独立騎兵,右翼隊,左翼隊及軍勿浦独立支隊共ニ午後3時前後ニ於テ牙山附近ニ達」した(参謀本部154155頁)。

  註(12)「旅団ノ一部牙山ニ入リ兵器,糧食ヲ押収シ新昌及び白石浦,新院方向ニ対シ前哨ヲ配布シ牙山ノ占領ヲ確実」にした(参謀本部155頁)。

  註(13)「牙山県吏ノ言」により「敵ハ一時成歓方面ヨリ退却シ来リタルモ更ニ新昌方向ニ向ヒ退避シタルコトヲ知」った(参謀本部155頁)。

  註(14)「〔混成旅団の〕一部ハ牙山附近ニ露営シ以テ此夜ヲ徹セリ」(参謀本部155頁)。「此夜敵ノ逃ケ後レシ兵数名右翼隊ノ露営地ヲ射撃シ1名ヲ傷ケタリ」(混成旅団戦闘詳報)。

 

(つづく)

  

弁護士 齊藤雅俊

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