筆者の母方の曽祖父の残した「由緒」書きにおける下記日清戦争関係の記載に係る考証話の第3回です。日清戦争の開戦に関する議論及び曽祖父ら混成第九旅団の1894年6月の仁川宿営から龍山への移動を経て同年7月23日の「京城ノ変」の直前までの様子を取り扱います。

 

明治26年〔1893年〕11月1日徴兵ニ合格シテ騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ〔第1回はここまで〕

明治27年〔1894年〕6月朝鮮国ニ東学党蜂起シ韓国居留民保護ノ目的ヲ以ツテ(どう)年6月11日混成旅団ヲ編成セラ(ママ)大島義昌少将ヲ旅団長トシ平城盛次少尉ヲ小隊長トシ選抜セラレテ山城丸ニ乗舶シ宇品港出帆玄海灘ヲ経テ仁川ニ向フ此ノ日山陽鉄道広島駅()()開通ノ日ナリ〔前回はここまで〕

明治27年8月1日ヲ以ツテ宣戦布告セラレ日清開戦トナル

〔今回はここまで〕仝7月23日京城ノ変ニ出張爾来成歓ニ牙山ニ平壌義洲鴨緑江鳳凰城ママ馬集崔家房ママ家台竜頭塞興隆勾瀇嶺海城牛荘田庄台ト転戦ス

明治27年9月15日大本営ヲ広島旧城エ進メ給ヘリ

明治28年〔1895年〕6月5日講和トナリ凱旋

仝年1112日日清戦役ノ功ニ依リ瑞宝章勲八等及び金50円幷ニ従軍徽章下賜セラル 

明治29年〔1896年〕1130日善行証書ヲ授与セラレ満期除隊トナル

 

1 日清開戦

 日清戦争がいつ始まったかについては,『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)の1894年の部分には「8.1 清国に宣戦布告〔詔〕(日清戦争)」「8.1 日清両国,宣戦布告(日清戦争)」とあります。すなわち,日清戦争は1894年8月1日から始まったことになるようです。筆者の曽祖父の認識と同じです。

 1894年8月1日付けの明治天皇の詔勅(公式令(明治40年勅令第6号)の施行前であったので,詔書(同令1条)ではなく詔勅(大日本帝国憲法55条2項参照)ということになっています。)は,次のとおり。

 

  天佑ヲ保全シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国皇帝(1)ハ忠実勇武ナル汝有衆(2)ニ示ス 

  朕茲ニ清国ニ対シテ戦ヲ宣ス朕カ百僚有司(3)ハ宜ク朕カ意ヲ体シ陸上ニ海面ニ清国ニ対シテ交戦ノ事ニ従ヒ以テ国家ノ目的ヲ達スルニ努力スヘシ苟モ国際法ニ戻ラサル限リ各権能ニ応シテ一切ノ手段ヲ尽スニ於テ必ス遺漏ナカラムコトヲ期セヨ

  惟フニ朕カ即位以来茲ニ二十有余年文明ノ化ヲ平和ノ治ニ求メ事ヲ外国ニ構フルノ極メテ不可ナルヲ信シ有司ヲシテ常ニ友邦ノ誼ヲ篤クスルニ努力セシメ幸ニ列国ノ交際ハ年ヲ逐フテ親密ヲ加フ(4)何ソ料ラム清国ノ朝鮮事件ニ於ケル我ニ対シテ著著鄰交ニ戻リ信義ヲ失スルノ挙ニ出テムトハ

  朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ(5)而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ(6)陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ其ノ内乱アルニ於テ口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ(7)朕ハ明治十五年ノ条約(8)ニ依リ兵ヲ出シテ変ニ備ヘシメ(9)更ニ朝鮮ヲシテ禍乱ヲ永遠ニ免レ治安ヲ将来ニ保タシメ以テ東洋全局ノ平和ヲ維持セムト欲シ先ツ清国ニ告クルニ協同事ニ従ハムコトヲ以テシタルニ10清国ハ翻テ種々ノ辞抦ヲ設ケ之ヲ拒ミタリ11帝国ハ是ニ於テ朝鮮ニ勧ムルニ其ノ秕政ヲ釐革シ内ハ治安ノ基ヲ堅クシ外ハ独立国ノ権義ヲ全クセムコトヲ以テシタルニ朝鮮ハ既ニ之ヲ肯諾シタルモ12清国ハ終始陰ニ居テ百方其ノ目的ヲ妨碍シ剰ヘ辞ヲ左右ニ托シ時機ヲ緩ニシ以テ其ノ水陸ノ兵備ヲ整ヘ一旦成ルヲ告クルヤ直ニ其ノ力ヲ以テ其ノ欲望ヲ達セムトシ更にニ大兵ヲ韓土ニ派シ我艦ヲ韓海ニ要撃シ13殆ト亡状14ヲ極メタリ15則チ清国ノ計図タル明ニ朝鮮国治安ノ責ヲシテ帰スル所アラサラシメ帝国カ率先シテ之ヲ諸独立国ノ列ニ伍セシメタル朝鮮ノ地位ハ之ヲ表示スルノ条約ト共ニ之ヲ蒙晦ニ付シ以テ帝国ノ権利利益ヲ損傷シ以テ東洋ノ平和ヲシテ永ク担保ナカラシムルニ存スルヤ疑フヘカラス熟其ノ為ス所ニ就テ深ク其ノ謀計ノ存スル所ヲ揣ルニ実ニ始メヨリ平和ヲ犠牲トシテ其ノ非望ヲ遂ケムトスルモノト謂ハサルヘカラス事既ニ茲ニ至ル朕平和ト相終始シテ以テ帝国ノ光栄ヲ中外ニ宣揚スルニ専ナリト雖亦公ニ戦ヲ宣セサルヲ得サルナリ汝有衆ノ忠実勇武ニ倚頼シ速ニ平和ヲ永遠ニ克復シ以テ帝国ノ光栄ヲ全クセムコトヲ期ス

    御名 御璽

      明治27年8月1日

             内閣総理大臣 伯爵伊藤博文

             逓信大臣 伯爵黒田清隆

             海軍大臣 伯爵西郷従道

             内務大臣 伯爵井上 馨

             陸軍大臣 伯爵大山 巌

             農商務大臣 子爵榎本武揚

             外務大臣   陸奥宗光

             大蔵大臣   渡辺国武

             文部大臣   井上 毅

             司法大臣   芳川顕正

 

   注(1)「国内的詔勅に於いては,天皇の一人称としては唯『朕』と宣たまふだけであるが,対外的詔勅に於いてのみは『天佑ヲ保有シ万世一系ノ帝祚ヲ践ミタル日本国皇帝』の称号を称したまふ慣例である。外交文書に於いてのみ特に『皇帝』と称せらるのは,恐くは,日本の外交上の用語として,総て君主国の君主はその本国に於いて如何なる称号を称するかを問はず,一様に『皇帝』と訳称する慣例であるからであらう。」(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)264頁)

   注(2)「有衆」は,「たみ。人民。朝廷または君主から人民をよぶことば。有は,意味のない助字。」(『角川新字源』(1968年))

   注(3)「有司」は,「官吏。司(担当)があるの意。」(新字源)

   注(4)1894年7月16日「日英通商航海条約・付属議定書・付属税目調印(領事裁判権廃止・関税率引上げを実現)。8.27公布〔勅〕。’99.7.17施行。」(岩波年表)

   注(5)1876年2月27日に調印され(外務省・日本外交文書の注記にある調印日。文書の日付自体は同月26日),同年3月22日に批准・布告された我が国と朝鮮国との修好条規はその第1款において「朝鮮国ハ自主ノ邦ニシテ日本国ト平等ノ権ヲ保有セリ嗣後両国和親ノ実ヲ表セント欲スルニハ彼此互ニ同等ノ礼儀ヲ以テ相接待シ毫モ侵越猜嫌スル事アルヘカラス先ツ従前交情阻塞ノ患ヲ為セシ諸例規ヲ悉ク革除シ務メテ寛裕弘通ノ法ヲ開拡シ以テ双方トモ安寧ヲ永遠ニ期スヘシ」と規定。

   注(6)1894年8月1日の清国光緒帝の対日宣戦上諭には「朝鮮為我大清藩属二百余年,歳修職貢為中外所共知」云々,すなわち「朝鮮は我が大清の藩属たること二百余年,歳々職貢を修むるは中外の共に知る所となす」とあり(青柳篤恒述『支那時文評釈』(早稲田大学出版部・早稲田大学1906年度講義録)8頁)。

   注(7)光緒帝の対日宣戦上諭には「本年四月間,朝鮮又有土匪変乱,該国王請兵援,情詞迫切,当即諭令李鴻章揆兵赴援,甫抵牙山匪徒星散」,すなわち「本年四月の間,朝鮮また土匪の変乱あり,該国王兵を請ひ援(「剿は絶つなり略取するなり,応援して匪徒を討平するをいふ」(青柳9頁))せしむ,情詞迫切なり,(すな)(はち)李鴻章に諭令し兵を揆して(「揆は分つなり,兵員を分派するなり」(青柳9頁))赴き(すく)はしむ,(はじめ)牙山に(いた)るや匪徒星散(「星の如く散ずるなり」(青柳9頁))せり」とあり(青柳8頁)。

   注(8)1882年の済物浦条約5条に「日本公使館置兵員若干備警事」と規定。

   注(9)前回記事「一騎兵の日清戦争(2):東学党蜂起から仁川上陸まで」参照       (http://donttreadonme.blog.jp/archives/1071722709.html)。

   注(101894年6月17日発遣の在日清国特命全権公使汪鳳藻宛て陸奥外務大臣からの親展送第41号(朝鮮問題処理ニ関スル対談ノ要旨通告ノ件)には次のようにあり(日本外交文書)。

         以書簡(しょかんをもって)(けい)啓上(じょういたし)陳者(のぶれば)朝鮮国ニ於ケル目下ノ事変及善後ノ方法ニ関シ昨日御面晤ノ節帝国政府ノ提案トシテ貴国政府ニ御協議致候要旨ハ左記之通ニ有之(これあり)

         朝鮮事変ニ付テハ日清両国相(りく)力シテ速ニ乱民ノ鎮圧ニ従事スル事

         乱民平定ノ上ハ朝鮮国内政ヲ改良セシムル為メ日清両国ヨリ常設委員若干名ヲ朝鮮ニ派シ先ツ大略左ノ事項ヲ目的トシテ其取調ニ従事セシムル事〔なお,この取調協議について前日6月16日に汪公使は「然ルニ此一条ノ協議纏ラザル間ハ貴国政府ニ於テハ撤兵スルヲ肯セザル様ニ解セラレタリ」と懸念をつとに表明〕

          一財政ヲ調査スルコト

          一中央政府及地方官吏ヲ淘汰スルコト

          一必要ナル警備兵ヲ設置セシメ国内ノ安寧ヲ保持セシムルコト

         右(ねんの)(ため)茲ニ申進候本大臣ハ茲ニ重ネテ敬意ヲ表候敬具

   注(111894年6月22日に我が外務省が接受した陸奥外務大臣宛て汪公使の回答には次のようにあり(日本外交文書)。

         一韓乱告平已不煩中国兵代剿両国会剿之説自無庸議(朝鮮ノ変乱ハ已ニ鎮定シタレハ最早清国兵ノ代テ之ヲ討伐スルヲ煩ハサズ就テハ両国ニシテ会同シテ鎮圧スヘシトノ説ハ之ヲ議スルノ必要ナカルヘシ)

         一善後弁法用意雖美止可由朝鮮自行釐革中国尚不干預其内政日本素認朝鮮自主尤無干預其内政之権(善後ノ方法ハ其意美ナリト雖トモ朝鮮自ラ釐革ヲ行フヘキコトトス清国尚ホ其内政ニ干預セズ日本ハ最初ヨリ朝鮮ノ自主ヲ認メ居レバ尚更其内政ニ干預スルノ権ナカルベシ)

         一乱定撤兵乙酉年両国所定条約具在此時無可更議(変乱平定後兵ヲ撤スルコトハ乙酉ノ年両国ニテ定メシ条約ニ具在スレハ〔天津条約第3款には「将来朝鮮国若シ変乱重大ノ事件アリテ日中両国或ハ一国兵ヲ派スルヲ要スルトキハ応ニ先ツ互ニ行文知照スヘシ其事定マルニ及テハ仍即チ撤回シ再タヒ留防セス」と規定〕今茲ニ又議スベキコトナカルベシ)

また,1894年7月9日の在北京小村寿太郎臨時代理公使から陸奥外務大臣宛ての電報においては,“At an interview 七月九日総理衙門王大臣 declared that Chinese Government would not enter into negotiation until Japan withdrew her troops from Corea because Tientsin Convention required immediate withdrawal of troops on the suppression of disturbance and if China and Japan detained troops there was danger that other powers might claim right to do the same. The effort of British Minister and myself has failed to induce them to make further proposals.”と報ぜられあり(日本外交文書)。

   注(12)清国政府側の認識は,光緒帝の対日宣戦上諭においていわく。「乃倭人無故派兵突入漢城,嗣又増兵万余,迫令朝鮮更改国政,種種要挟,難以理喩」,すなわち,清国が東学党蜂起に苦しむ朝鮮国王の請いに応じて同国に派兵したところ「(すなは)ち倭人故無く兵を派し突として漢城に入り,()いでまた兵万余を増し,迫って朝鮮をして国政を更改せしめ,種々の要挟(「種々の難題を提議して韓廷に要求し之を挟制するなり」(青柳9頁)),理を以て喩へ難し」と(青柳8頁)。またいわく。「日本与朝鮮立約係属与国,更無以重兵欺圧強令革政之理」,すなわち「日本と朝鮮と約を立て,与国に係属す,更に重兵を以て欺圧し強いて政を(あらた)めしむるの理無し」と(青柳8頁)。

   注(13)「要撃」は,「敵を待ちうけて撃つ。」(新字源)

   注(14)「()状」は,「よい態度・行状がないの意で,無礼,無作法。」(新字源)

   注(151894年7月25日「日本艦隊,豊島沖で清国軍艦を攻撃,英国籍の輸送船高陞号を撃沈。」(岩波年表)

        「李鴻章が2300名の兵士と武器を牙山に送るという情報は,清駐在の外交官や武官から次々と伝えられ,7月19日,政府・大本営は対清開戦を決定した。/この日,海軍に対して清軍増派部隊を阻止せよとの命令が下された。」「偵察のため先行した連合艦隊第一遊撃隊の吉野・秋津洲・浪速の俊足巡洋艦群は,7月25日早朝,豊島付近で清海軍の巡洋艦済遠・広乙に遭遇し,戦闘にいたる。いわゆる豊島沖海戦である。」「7月25日の海戦は,済遠が逃亡を図り,広乙は座礁し,日本側優勢のうちに終わろうとした。そのときさらに,砲艦操江に掩護された高陞号(清兵1100名と大砲14門を搭載)が現れる。操江は降伏したが,高陞号は浪速(艦長東郷平八郎大佐)の臨検に際して,降伏を拒んだため,日本は撃沈して,イギリス人高級船員3名だけを救助した。」(大谷正『日清戦争』(中公新書・2014年)56頁,57頁,5758頁)

豊島沖海戦に関する清国側の言い分は,光緒帝の対日宣戦上諭においていわく。「朝鮮百姓及中国商民,日加驚擾,是以添兵前往保護,詎行至中途,突有倭船多隻,乗我不備在牙山口外海面開砲轟撃,傷我運船,変詐情形,殊非意料所及,該国不遵条約,不守公法,任意鴟張専行詭計,釁開自彼,公論昭然」,すなわち日本の兵員(混成第九旅団)増派により「朝鮮の百姓及び中国の商民,日に驚擾を加ふ,是を以て兵を添へ前往して保護せしめたるに,(いづくん)はからむ行を中途に至れば,突として倭船多隻あり,我が備へざるに乗じ牙山口外(「口は港なり」(青柳10頁))の海面にありて砲を開きて轟撃し,我が運船を傷つく,変詐の情形,殊に意料の及ぶ所にあらず,該国条約に遵はず,公法を守らず,意に任せ()(ふくろうがつばさを張ったように,勢いが強くわがままなこと(新字源)。)し専ら詭計を行ひ,(きん)彼より開く,公論昭然たり」と(青柳8頁)。
  五十嵐憲一郎「日清戦争開戦前後の帝国陸海軍の情勢判断と情報活動」(戦史研究年報4号(防衛研究所・2001年3月)17頁)において紹介されている坪井航三常備艦隊司令官の伊東祐亨常備艦隊司令長官宛て1894年7月25日(21時朝鮮群山沖発)付け報告書では「午前7時5分敵艦ト相近ツク殆ト3千「メートル」許リニシテ我ヨリ発砲ヲ始ム」とあり(21頁)。

ところで,明治天皇の対清宣戦の詔勅の作成日付は1894年8月1日ですが,実は同月2日の官報号外に掲載されています。8月2日に至って同日の閣議で当該詔勅の文案について妥協が成立し当該案をもって明治天皇の裁可を受け,同日付けの官報号外に掲載されたものですから(大谷68頁),1894年「8月1日ヲ以ツテ宣戦布告セラレ日清開戦トナル」とは本来いえないはずです。8月1日開戦日説は,「最も根拠薄弱」とされています(大谷68頁)。

実のところ,日清戦争の開戦日がいつであるのかについては,7月23日説から8月2日説まで種々の議論があったところです(大谷6869頁参照)。

この点について,美濃部達吉の断案は次のとおり。

すなわち,美濃部は,開戦の決定(大日本帝国憲法13条は「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」と規定)の外部に対する表示は二つの行為に分かれており「一は敵国に対する宣戦の行為であり,一は国民に対する宣戦の布告である」と分析した上で,敵国に対し正式の通告を要するとする明治45年条約第3号たる開戦に関する条約より前の状況について,「敵国に対する宣戦の行為は,対外的の行為であるから,国際法に従つて行はれねばならぬ。従来は此の点に付いての成文法規の定なく,必ずしも形式的に開戦の意思を通知することを要せず,事実上に戦争行為を開始することに依りて開戦し得べきものとせられて居た。明治27年の日清戦役及び明治37年の日露戦役は,共に事実上の戦争行為に依つて開戦せられたのである。」と述べているところです(美濃部267頁)。したがって,日清戦争における日清間の宣戦行為は,「事実上に戦争行為を開始」したものである1894年7月25日の豊島沖海戦ということになります。同年9月10日の伊藤内閣の閣議で,7月25日が開戦日であると決定されているところです(大谷69頁・242頁)。

それでは1894年8月1日の日付で作成・同月2日外部表示の明治天皇の詔勅は何だったのかといえば,美濃部の説明によれば,「国民に対する宣戦の布告は,詔書を以て公布せられる。それは敵国に対して既に開戦せられた後直に発表せらるもので,開戦せられたことの事実を国民に宣示し,以て国内法上に戦時の状態に入れることを明白ならしむるのである。勿論,此の詔書に依つて始めて戦時に移るのではなく,事実上に戦争が開始せられたならば,当然戦時となるのであるが,此の詔書に依つてそれが国民に対し明示せられるのである。」ということでした(美濃部267268頁)。

  

2 仁川宿営の日々(1894年6月23日まで)

 さて,上陸翌日の1894年6月17日に早速怪魚「メタ」に苦しめられ七転八倒する者を出した混成第九旅団の兵士らの仁川宿営の日々はどのようなものだったのでしょうか。原田敬一佛教大学教授の紹介する同旅団の野戦砲兵第五聯隊第三大隊第五中隊の将校の日誌(「混成第九旅団の日清戦争(1)―新出史料の「従軍日誌」に基づいて―」佛教大学歴史学部論集創刊号(2011年3月)。砲兵中隊の将校の日誌ではありますが,気候や周囲の情景は騎兵中隊にも共通でしょう。)及び大島義昌旅団長の参謀総長宛て混成旅団報告第5号ないし第6号(同月21日,22日及び24日付け。22日付け及び24日付けのものはいずれも第6号との番号が付されていて重複。いずれもアジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることができます。)によって見てみましょう

 

  1894年6月18日 「曇午後8時ヨリ降雨」

    前日の雨が止んだゆえか,砲兵部隊は仁川から2里ばかり離れた長山里まで行軍訓練をしています。その際の地元の人々の様子に関する印象は,「其経路中朝鮮町ヲ通過ス,(どう)町ハ(もとよ)リ全国ノ風習トシテ不潔臭気々トシテ鼻ヲ突ク」ということでした「憤々」は「心がおだやかでないさま」(新字源)ですので,あえて「芬々」の誤りと解する必要はないでしょう。

    早速「本日ヨリ酒保ヲ開カル。」「酒保」は,「軍隊で兵士に日用品・飲食物を売る店」です(新字源)。(以上,砲兵中隊従軍日誌)

    混成旅団報告では,この日の天気は「午前晴 午後大雨」でした。筆者の曽祖父の上官たる豊辺新作騎兵第一中隊長は,大島旅団長に随行して漢城に赴いています。いわく,「午前7時旅団長入京〔大鳥〕公使ニ協議ノ為メ発途午後4時40分着(随行長岡参謀,平岡副官,槁本第二大隊長,永田砲兵大隊長,柴田野戦病院長,豊辺騎兵中隊長,列外ニ福島中佐上原少佐騎兵下士卒16内下士1卒10名ハ京城駐屯大隊長〔一戸兵衛少佐〕ニ属スヘキモノ)」。

  6月19日 「雨天」

    「前夜風雨ノ為メ厩破壊シ修繕ス」(以上,砲兵中隊従軍日誌)。砲兵部隊の厩が壊れているのに騎兵中隊の厩は無傷であった,ということではなかなかないでしょう。アジア歴史資料センターのウェブ・サイトで見ることのできる「第6月16日仁川港居留地舎営割」添付の地図によれば,騎兵及び砲兵の「騎砲各隊馬厩」は宿営地から離れたところの同じ場所に隣接してあったようです。

    混成旅団報告には「京城分屯大隊ノ患者次第ニ減ス済物浦ニ於テ胃加答児多シ」とあります。胃カタルすなわち胃炎は,なお「メタ」の(たた)りの去らざりしものか。

  6月20日 「晴天」(砲兵中隊従軍日誌)

    混成旅団報告によれば「〔大島〕旅団長此日〔漢城から〕帰仁ノ途ニ上ル楊花鎮ノ渡場漲水ノ為メニ渡ル(こと)能ハス汽船ヲ以テ帰着ス」とのことでした。

  6月21日 「晴天」

    「午前砲廠及厩ヲ舎営地ノ東方ニ移転ス」(以上,砲兵中隊従軍日誌)。「騎砲各隊馬厩」は舎営地の北西に離れてあったのですが,この日騎兵の厩も砲兵のそれと一緒に「舎営地ノ東方ニ移転」したものかどうか。「「従軍日記」は,舎営地等を仁川居留地の東方に移した,と淡々と記すが,これらはいずれ確実になるソウル駐屯への準備であった。」と説明されています(原田28頁)。ただし,混成旅団報告の23日の項によれば「其後6月19日〔大島〕旅団長入京ノトキ〔大鳥〕公使ヨリ各国租界ニハ舎営スルヲ断ルトノヿニ付キ電報ヲ以テ其撤去ヲ舎営司令官ニ命シ20日ニ於テ各隊全ク日本居留地幷ニ日本居留民所有地(公園附近)ノミニ幕営スルヿトナレリ」といったことによる移動もあったようです。

  6月22日 「晴天」(砲兵中隊従軍日誌)

    混成旅団報告では「風又雨」とあり,また「午後晴」となっています。

  6月23

    混成旅団報告では,この日は「晴又曇」,「大鳥公使ヨリ清国四五千ノ兵ヲ出ス確報ハ衝突ハ免レサルヘシ速ニ兵ヲ京城ニ入レラレタシ後続兵モ同様ニタノムトノ報アリ」ということになり,しかして「軍機一変セリ午後5時会報ヲ以テ明24日行軍ニ関スル部署ヲ定ム其大要左ノ如シ」とされての大要の「3」は,「本隊ノ行軍序列ハ騎兵中隊歩兵2中隊砲兵大隊(1中隊)歩兵第十一聯隊野戦病院大行李」ということでした。いよいよ翌日は漢城に向けて出発。その本隊の先頭は騎兵でありますから,筆者の曽祖父の「選抜セラレテ」感はひとしおだったことでしょう。 

 

3 龍山屯営(その1:1894年6月24日から同年7月5日まで)

それまで仁川にいた混成第九旅団は,1894年6月24日,朝鮮国の首都である漢城の南郊にしてかつ漢江の北岸である龍山に移動し,そこに留まります。

 

  1894年6月24日 「晴天」(砲兵中隊従軍日誌)

    「23日夜ノ報告ニ於テ記載セシ順序ニヨリ諸隊仁川出発途中大ナル困難ヲ以テ午後6時当幕営地〔龍山〕ニ到着ス輸卒ノ人員行李ニ比シテ小数ナル為メ出発前兵站監ニ命シ人夫ヲ雇ヒ入レシムヘキ筈ナリシカ韓人其命ニ従ハサルモノト見(ママ)1名ヲモ雇入ル(こと)能ハス已ムヲ得ス甚シキモノニアリテハ1駄分ヲ二人ニテ運ハシムルヿトナリ之カ為メ大行李ノ到着ヲ意外ニ遅延シ其全ク到着セシハ翌25日朝ナリシ」(1894年6月26日付け大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団報告第7号(アジア歴史資料センター))

    「此日炎暑甚敷(はなはだしく)整々堂々タル我軍隊ハ兵卒モ飲用水ノ欠乏ヨリ日射病ヲ起シ終ニ路傍ニ倒ルニ至リシ者多数アリ(消し:タルコト)。/本日ノ行程8里ト云フト雖モ実際ハ10里ノ余アリ。」(砲兵中隊従軍日誌)

    「茲ニ悲ムヘキ一事ハ途中ニ於テ歩兵第十一聯隊第六中隊ノ現役兵1名日射病ヲ以テ遂ニ死亡セリ」(前記大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団報告第7号)

    なお,この日水源府に向けて騎兵将校斥候が出されています(1894年6月25日付け混成第九旅団情報(アジア歴史資料センター))。

  6月25日 「晴正午93度〔摂氏33.9度〕」(同日付け前記混成第九旅団情報)

    「午前6時昨夕ノ食事補給トシテ結飯1ケツ分配,(どう)地飲用水不充分ニシテ馬匹水飼ハ露果ト云フ仝地ヲ距ツル約2千米突(メートル)ノ処ニ於テナス。/幕営地ノ南方ニ旅団騎兵工兵隊アリ,背面ヨリ西ニ当リテハ歩兵隊アリ,何レモ幕営。/京城ノ居留民来リ酒保ヲ開キ其物価左ノ如シ。/卵2銭5厘 氷水3銭5厘 手紙3銭 砂糖35銭 酒40銭 牛肉25銭 封筒3銭 菓子ハ本国ニ3倍ス。」(砲兵中隊従軍日誌)

    「明日ヨリ諸隊交番ニ京城及其附近ニ行軍演習ヲ催サシムル筈猶竜山附近測図ニ着手ス又(すう)(まつ)欠乏ノ為メ近郊ニ於テ生草刈取ニ着手セシムル筈ナリ」(同日付け前記混成第九旅団情報)

    行軍演習をしなければ,手持無沙汰のお兄ちゃんたちがとぐろを巻く男の臭い芬々たるただの群衆になってしまいます。

  6月26日 「晴天 朝92度〔摂氏33.3度〕正午102度〔摂氏38.9度〕」(砲兵中隊従軍日誌)

    この日砲兵部隊は漢城まで行軍演習を行っています。

    「午前6時40分ヨリ京城ニ向ケ行軍ヲナス,崇礼門ヲ入テ大道ヲ貫キ迂回シテ我公使館ヘ至ル,時ニ我帝国臣民五六輩ハ軍隊万歳ヲ三称ス,(どう)時清国人ノ在ル者ハ下等社会ノ者ト公使館ニ数十名アルノミナリ,我公使館ハ京城市街(ママ)一眼ニ見下ス可キ高地ニシテ特ニ支那公使館ハ僅カ5百米突(メートル)不過(すぎず),王城所在地ハ千米突以上。/飲用水ハ公使館背後ノ山渓ヨリ流出シ其質尤モ良シ,其山腹ニ於テ砲列ヲ敷キ昼食ヲナス,午後4時帰営ス。/此日炎暑甚敷全身出(ママ)瀧ノ如シ。」(砲兵中隊従軍日誌)

    38度の高温下で昼食が食べられたものかどうか。いずれにせよ,大汗はかいたものの熱中症にならなかったのは何よりでした。

  6月27日 「晴天」

    「当隊ハ当分当地ニ滞在ノ積リニテ仮厩設置。」(以上,砲兵中隊従軍日誌)

    砲兵隊は「当分当地ニ滞在」するのかと腰を落ち着ける気分の模様ですが,豊辺大尉率いる騎兵中隊は偵察活動に忙しい。この日付けの大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団報告第8号には「明28日騎兵1分隊ヲ開城府方向ニ派遣ス」とあります。

  6月28日 「晴天」

    砲兵中隊では「午後中隊ノ馬匹1頭放走ニ探索ノ為メ東方ニ向テ出張仝日帰営ス」との騒動があったようです。(以上,砲兵中隊従軍日誌)

  6月29日 「晴天」(砲兵中隊従軍日誌)

    「水原方向ニ出シタル騎兵斥候ノ報告午後3時10分到着曰ク軍浦塲及水源地方ニ支那兵ヲ見ス/当斥候ハ尚南陽府方向ニ進テ捜索セントス」(1894年6月30日付け大島旅団長発参謀総長宛て第10号報告)

  6月30日 「晴天,午後3時ヨリ雨」

    砲兵中隊は,「午前6時ヨリ東方2里余ノ処ニ行軍,(どう)11時帰営,時ニ韓人我軍隊ノ整トシテ秩序正シキヲ見舌ヲ捲テ感スルノミ」と,地元住民にびっくり感心されて気をよくしています。(以上,砲兵中隊従軍日誌)

  7月1日 「雨」

    砲兵中隊は「午前午後共休業。」(以上,砲兵中隊従軍日誌)

    この日は日曜日でした(原田31頁)。

    なお,この日「両陛下ヨリ渡韓ノ軍人軍属ヘ酒烟草ヲ賜ハルヘキ恩命ヲ受ク依テ各隊長ニ恩命ヲ伝ヘ各隊ニ於テ兵卒ヲ整列セシメ御賜ノ恩ヲ達ス」ということであったそうですが(1894年7月6日付け大島旅団長発参謀総長宛て第11号報告),砲兵中隊の兵卒への伝達は翌7月2日正午になり,かつ,「該品ハ不日到着ノ上分配ノ事」ということだったそうです(砲兵中隊従軍日誌7月2日の項)。

    日曜日ですが騎兵は忙しく,筆者の曽祖父の直属上官たる平城騎兵少尉による坡州及び臨津附近に異常は無い旨の報告がこの日旅団に着いています(上記大島旅団長発参謀総長宛て第11号報告)。

  7月2日 「風雨」

    「天幕中雨(あふれ)甚タ困難,郷里ノ両親ヲ思フノ念交々(こもごも)換ル」(以上砲兵中隊従軍日誌)

  7月3日 「曇」

    「尚雨溢甚敷(はなはだしく)困難不尠(すくなからず)」(以上砲兵中隊従軍日誌)

    「歩兵第十一聯隊第九中隊長大尉岡徳吉病気(胃病)ニテ仁川兵站病院ヘ入院ノ処死去ノ旨通報シ来ル」(前記大島旅団長発参謀総長宛て第11号報告)

    メタその他の朝鮮国の食及び水が,岡大尉の命取りとなってしまったものでしょうか。

  7月4日 「雨」(砲兵中隊従軍日誌)

  7月5日 「時々雨」(砲兵中隊従軍日誌)

    この日午後7時,平城盛次少尉は牙山方向の清国兵の動静を捜索すべしとの旅団長命令を受け,翌同月6日から同月14日まで偵察行に出ています。アジア歴史資料センターのウェブ・サイトに当該偵察行に係る平城少尉の報告書が掲載されていますので,以下に当該報告書を転載します。筆者の曽祖父が当該偵察行に同行したかどうかは不明ですが,同行したものと考えた方が,当然面白い。

 

 4 平城少尉の牙山方向・振威県方面偵察行(1894年7月6日から同月14日まで)

 

7月5日午后7時旅団長(より)将校斥候トナリテ牙山方向清兵ノ動静ヲ捜索スルノ命ヲ受ケタリ猶近日中ニ聶〔士成〕提督朝鮮国王謁見トシテ上京スルニ付キ果シテ謁見ナルヤ否ヲ確ムル任務ヲ与ヘラレタリ是ニ於テ急報告ヲ要スル計ラレサルヲ以テ下士1名兵卒3名(より)成ル逓騎ヲ中途ニ配置スル(こと)ヲ命セラル

7月6日午前6時下士1名兵卒8名ヲ率(ママ)龍山ヲ発シ9時安場ニ達シ此ニ下士1名兵卒3名ヲ逓騎トシテ残留セリ午前1130分軍浦塲ニ於テ先キニ此方向ニ出タル将校斥候ニ出会シ牙山方向ノ情況ヲ聞キ水源ニ向テ出発午后2時水原府ニ達シ尚ホ進テ龍仁県ニ至ル道路ノ岐分点ニ至リ午后5時ニ至リ退却シ水源ニ宿営セリ無異状(いじょうなし)此日ハ公使館(より)出テシ警以下3名モ亦来テ宿営セリ

7月7日午前6時兵卒2名ヲ率(ママ)水原ヲ発シ振威ニ向フ午前11時振威ニ達ス県庁ノ空舎ニ薪炭藁米麦等ノ充実スルヲ見ル県官ニ問フニ支那兵宿泊ノ準備ナリト云フ又(どう)室内ニ左ノ掲示アリタリ

迎接使 道主 軍官1員 従2人 警吏1人 通詞1人 執事1人 旗手10人 夫馬10

右ハ支那兵歓迎ノ準備ナリトス午后1時警部等モ亦振威ニ来リ本日此ニ宿営セリ午后1時振威ヲ発シ水源ニ退テ宿泊セリ別ニ無異状(いじょうなし)

7月8日午前6時3名ヨリナル斥候ヲ龍仁県ニ至ル道路ノ岐分点ニ出セリ午(ママ)9時礼正邪出水原ニ来リ同10時出発振威方向ニ至レリ探求ス(ママ)国王ノ勅詞ヲ奉持シテ全羅道ニ行ク者ナリト云フ午后1時警部等水原ヨリ来リ左ノ報告ヲナセリ(聶氏ハ7日出発全州ニ至レリ支那兵一部ハ天安郡ニアリト)午后3時日本人ノ牙山方向(より)帰リ来ルヲ認メテ聞キタルニ仁川ノ者ニテ牙山ノ方向ニ商用ニ至レリト同人ノ言ニ曰ク(牙山ノ兵ハ徴発セル駄馬ヲ(かい)雇シ(ふね)ヲ集メ居レリ其舩ハ朝鮮舩ニシテ約30艘アリタリト云フ其名義ハ沿海ヲ測量スト云ヘリト)午后5時斥候帰過セルモ異状ナシ

9日前日ノ如ク斥候ヲ出セルモ無異状(いじょうなし)

10日モ亦前日ノ如ク斥候ヲ出セルモ無異状(いじょうなし)午後日本公使舘ニテ使用セル朝鮮人ノ来リ報シテ曰ク牙山方向ヨリ来ル通行人数名ニ聞クニ昨9日夕天安ヨリ支那兵屯浦ニ来リ道路修繕中ナリト云ヘリ其他異状ナシ

11日午前6時30分水源ヲ発シ振威ニ至ルニ支那人10名余七原駅ニアリト土人ノ言故ニ七原駅ニ至レルモ支那人10数名内乗馬者4名アリテ旅装ハ商人風ナルモ馬具長靴等

ヲ以テ見レハ全ク軍人ナリシ此支那人ハ皆水原方向ニ行進セリ午後5時七原駅ヨリ北方約3千(メートル)ノ一軒屋ニ宿泊セリ

12日午前4時振威ニ(かえ)リ7時30分伝騎ヲ以テ旅団長ニ左ノ報告ヲナセリ(在別紙〔筆者註:当該別紙は略〕)此日猶振威ニ止マレリ

13日午前7時30分出発午後1時水源ニ()着シ直ニ官衙内ノ動静ヲ窺シモ別ニ異ナシ只1人支那人昨日官衙ニ来レルノミ其支那人ハ(どう)日振威ニ向ケ(かえ)レリト此日水原ニ宿営セリ此夜官衙ノ役人来リ留守ヨリ判官ニ与ヘタル書面ヲ示シ我斥候ノ官衙内ニ宿営スルヲ謝絶スルヲ以テ之レヲ写シ置ケリ

14日午前5時ヨリ判官宅ニ至リ前夜示セル書面ニ就テ厳重ナル談判ヲナシ午前8時水源ヲ発シ午後2時龍山ノ本隊ニ(かえ)尚ホ左ノ報告ヲナセリ

報告書中天安郡ノ兵屯浦ニ来リ(ママ)云ヘルモ屯浦ニ出テタル支那兵天安郡ニ在ル支那兵ニ非スシテ牙山ヨリ出セルモノナリ天安郡ニハ今猶依然屯在セリ

             明治27年7月15日 陸軍騎兵少尉平城盛次


 5 龍山屯営(その2:1894年7月14日から同月22日まで)

 

  1894年7月14日 「晴天」(砲兵中隊従軍日誌)

    同日付けの長岡外史少佐の混成旅団参謀報告(アジア歴史資料センター)には,「牙山方向騎兵将校斥候交代」との見出しの下,「本方向ノ斥候ハ此迠将校1下士2兵卒8名ノ処本14日旧斥候〔平城少尉〕帰来兵卒人員ノ少キ為メ疲労甚シキ報告アリシヲ以テ明15日交代ノモノヨリ将校1下士2名兵卒14名ニ改メラレタリ/帰営セシ将校斥候ヨリハ一モ新報ナシ只水原牧司両三日前ヨリ外務衙門ノ訓令ヲ受ケタリト称シ宿舎ノ世話食事ノ周旋等ヲ謝絶シ頗ル不自由ナリシトノ報アルノミ亦以テ朝鮮政府ノ日ニ我邦ヲ疎外スルヲ知ルニ足ル事ニ御座候/水源牧司ノ外務衙門訓令ナリトテ我騎兵将校ニ示シタルモノハ明日送呈スヘシ/依テ明日出ス斥候ニハ更ニ綿密ノ方策ヲ授ケ水源牧司ニ厳談スヘキ旨ヲ授ケラル」とあります。朝鮮国の役人が生意気だと息巻くばかりで平城少尉の苦心の偵察については「一モ新報ナシ」と言われてしまうとがっかりです。

  7月15日 「晴天」

    「此日軍楽隊ハ団本部ニ於テ楽奏,其声音絶佳ナリ。」(以上,砲兵中隊従軍日誌)

    この日は日曜日でした(原田33頁)。

  7月16日 「晴天」

    「午前〔砲兵〕大隊行軍予定ノ処降雨ノ為メ見合」「此日安芸宮島神社及ビ加藤清正公ノ守護札寄贈品到着,各人ニ分配。/亦京城居留民一(どう)及ヒ公使書記官等軍人慰労ノ為メ酒1合ツ及牛肉少量ツヽ寄贈。/青色ノ毛布到着,各人1枚支給。」(以上,砲兵中隊従軍日誌)

  7月17日 「晴天」(砲兵中隊従軍日誌)

    この日英国兵及び米国兵が漢城に入るとの報が至り,翌日付けの混成旅団参謀報告第7号(アジア歴史資料センター)において長岡参謀憤慨して曰く。

    「是ヨリハ〔日英米〕3国兵ノ入込ミテ細故ノ衝突多カルヘク特ニ英兵ハ喧嘩買ヒノ為メニ入京セシムル実殆ント確実ナルヲ以テ諸隊ニ厳達シテ可成(なるべく)喧嘩ヲ避ケ多少打タルトモ堪忍シテ大事ノ前ハ小事ト心得談判上ニテ(かたき)ヲ取ル見込ナレハ決シテ衝突ニ買ハル(べか)ラサル(こと)ヲ達セラレタリ軍隊教育上ニ就テハ打タレテモ猶ホ我慢セヨトハ残念至極ノ(こと)ナレ(ども)不得止事(やむをえざること)奉存候(ぞんじたてまつりそうろう)

    前日(16日)付けでロンドンにおいて日英通商航海条約・付属議定書・付属税目が調印されたはずですが,現場の長岡少佐は英国人が嫌いです。

  7月18日 「晴天」(砲兵中隊従軍日誌)「午前4時温度77度〔摂氏25度〕 午后2時同96度〔摂氏35.6度〕」(同月19日付け大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団報告第11号(アジア歴史資料センター))

    「18日(水)は大本営が開戦へと踏み切る日となった。天津の神尾光臣中佐〔同月20日付け大島旅団長発参謀総長宛て報告第12号(アジア歴史資料センター)では「少佐」〕から,清国軍6営(約3000人)が翌日出発予定,という電報が18日午後3時45分大本営に到着した。同日午後9時発の参謀総長発大島旅団長宛て電報は,聯合艦隊は22日佐世保出航予定,清国軍の増派に「其軍艦輸送船ヲ破砕」せよと命令,混成旅団も,清国軍増派情報を得れば「首力ヲ以テ眼前ノ敵ヲ撃破スベシ」と指示し,開戦へ大きく舵を切っている。/18日午後9時発の参謀総長電報は,混成旅団司令部におそらく19日中には到着しただろう。また19日未明,漢城に帰任する大本営参謀福島安正中佐が龍山の旅団司令部を訪れ,「大本営の内意」として「清国将来若シ軍兵ヲ増発セハ独断事ヲ処スヘシ」と大島旅団長に伝えた。ここに旅団の独断による戦闘開始が許可されたことになる。」(原田3334頁)

  7月19日 「晴 午前4時74度〔摂氏23.3度〕 午后2時95度〔摂氏35度〕」(前記大島旅団長発参謀総長宛て報告第12号)

    「此日山口県有志者ヨリ寄贈シタル夏橙各人ニ二三個ツ給与,時節的尤モ佳評。/午前11時朝鮮国ノ将官洪啓進来リ〔上記大島旅団長発参謀総長宛て報告第12号では「洪啓薫」で「午前10時」来営〕我幕営内ヲ見物ス,帰路歩兵隊ハ演習ヲナス,其規律動作尤モ整頓シ(どう)将軍ノミナラズ我将校ニ至ル迄満足ノ意ヲ表ス。/此日支那公使〔袁世凱〕ハ逃亡シ公使館ハ支那ノ国旗ヲ挙ケタルマ行衛知レズ。」(砲兵中隊従軍日誌)

    「午後3時過キ入京〔大鳥〕公使ニ面会セリ其協議ノ大要左ノ如シ

      旅団ノ首力ヲ以テ明20日中ニ清国増加兵出帆ノ確報ニ接セサルトキハ(確報ニ接スルトキハ大同江ヘノ上陸ヲ慮ル為メ南進スル(こと)能ハス)21日夕方ヨリ行軍ノ名義ヲ以テ牙山方面ニ進ム

      旅団出発ノ翌日公使ヨリ最終ノ談判ヲ朝鮮政府支那公使ニ申込ミ及ヒ各国公使ニ通告ス

      旅団ハ行進ヲ続行シ兵力ヲ以テ牙山ノ清兵ヲ引払ハシム

      朝鮮ノ国有電信線ヲ我有トシ軍用ニ用ユル(こと)

      京城守備隊ハ1大隊(2中隊)トスル(こと)」(同月20日付け大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団秘報(アジア歴史資料センター))

  7月20日 「雨」(砲兵中隊従軍日誌)「前4時75度〔摂氏23.9度〕 后2時91度〔摂氏32.8度〕」(同月21日付け大島旅団長発参謀総長宛て報告第13号(アジア歴史資料センター))

    「午前6時恩賜ノ酒5勺ツヲ分配ス。/此日午後降雨甚シキ天幕内ニ溢ル,雨水全身ヲ潤ス,而シテ実戦将ニ起ラントシ守備(ますます)厳然タリ。」(砲兵中隊従軍日誌)

    7月下旬は「梅雨明け十日」といって夏山の最高のシーズンなのですが,雨は嫌ですね。藪漕ぎテント泊で毎日雨だったワンダーフォーゲル部の南会津夏合宿は消耗ショーモーでした。

    「午後1時頃〔大鳥〕公使ノ命ヲ帯ヒ本野外務参事官来営公使ノ旨ヲ伝フル(こと)大要左ノ如シ

      1 朝鮮政府強硬ニ傾キ本日我公使ニ退兵ヲ請求セリ依テ我凡テノ要求ヲ拒絶シタルモノト見傚シ断然ノ処置ニ出ル(こと)ニ決ス

      2 即チ2日間ヲ期シ清国ノ借来兵ヲ撤回セシムヘシト要求シタリ

      3 若シ2日間ニ確然タル回答無ケレハ猶ホ1大隊入京セシメラレタシ

      4 夫レニテモ行カサレハ王城ヲ囲ム

      5 王城ヲ囲ミタル後ハ大院君日本人若干名ヲ()()入閣スル筈(確カナリヤト問レシニ確カナリト云ヘリ)

      6 大院君入閣ノ上朝鮮兵力ニテ支那兵ヲ撃ツ(こと)能ハサレハ帝国軍隊ヲ以テ之ヲ一撃ノ下ニ打チ掃フ

      7 依テ昨日御協議セシ牙山行ハ暫ク見合セラレタシ

本処置ハ名正シク事後ニハ旅団ノ運動ニ至大ノ便利ヲ与フヘキ見込アルヲ以テ小官ハ之ニ同意ヲ表シタリ

本野参事官去ル後30分大本営電報命令

32号ヲ受領シタリ

    一本命令ニ依リ小官ニ与ヘラレタル任務ヲ果サントスル為メニハ勢ヒ一刻モ速ニ朝鮮政府ノ向背ヲ決セシメサル()カラス依テ小官ハ明日公使ニ協議シ第3項即チ若シ2日間ニ確然タル回答無ケレハ猶1大隊ヲ入京セシムルトノ示威的運動ヲ止メ短兵急ニ王城ヲ囲ムノ策ニ出ル(こと)ヲ勧メントス」(前記大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団秘報)

   「午後4時会報

     一命令ヲ下セシ後二三時内ニ発程スルニ至ルヤモ難計(はかりがたく)背負袋ヲ用(ママ)背嚢ヲ用(ママ)ス行李ハ一切携行セス工兵騎兵衛生隊ノ炊具ハ携行セサル考炊事卒ハ輸卒ヲ用ヒ其残余ハ兵站部ヘ交付スヘシ(此(こと)ハ一般筆記ヲ禁ス)

      部隊長ノミ承知アリテ部下ニ預メ達スヘカラス

     一将校以下不在者ハ其徃先(いきさ)キヲ預知シ得ル如クシ呼集ニ使者ヲ以テ呼帰シ得ル如クスヘシ

     一尚昨日会報ノ如ク外国人ニ対スル(こと)ニ付懇々訓示セラル」

 「午后9時発各隊エ当分行軍スル(こと)ヲ禁セリ」(以上前記大島旅団長発参謀総長宛て報告第13号)

  同日午後1125分発の大鳥公使から陸奥外務大臣宛ての電報は次のとおり(日本外交文書)。

 

   Mutsu,

        Tokio.

         I made the demand to the Corean Government for the construction of barracks for our soldiers 七月十九日 and that of the driving out of Chinese troops now in Corea under the pretext of protecting tributary state 七月廿日 on the ground that their long presence in Corea infringes her independence. Date fixed for answer 七月廿二日. If they fail to give satisfactory answer within date I intend to give great pressure upon the Corean Government and by this opportunity to bring about some radical changes in Corean Government. It appears that on account of sudden departure of 袁世凱 Chinese party in the Corean government seems weakening.

                                                                Otori.

        Seoul July 20, 1894.       11.25 p.m.

        Rec’d  21, 〃     11.45

  7月21日 「大風雨」

    「此日兼而(かねて)命令アリシ恩賜ノ煙草到着,各人ニ1包ツ分配セラル,誠ニ天恩ノ厚キニ感涙スルノ外ナキナリ,此時ニ当リ戦闘既ニ起ラントシ出戦準備(いよいよ)密,各人ノ背嚢ヲ納メ布嚢ヲ渡シ半紙2帖ハ必ス所持ス()キ旨命示セラレタリ。」(以上砲兵中隊従軍日誌)

  7月22日 「風雨」(砲兵中隊従軍日誌)

    「本日午前7時ノ密議,公使ノ求メニ依リ計画及準備セル(こと)左ノ如シ

     一各隊ニ通弁ヲ分付ス

     一明23日午前3時半迠ニ公使ヨリ通牒ナケレバ軍隊ハ直ニ出発王城ヲ脅威ス

     一彼レヨリ発砲スルトキハ正当防禦スル事別ニ通知セス銃声ニテ知ルベシ

     〔以下略〕」(同月23日付け大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団報告第15号)

    「午後3時明2時30分呼集ヲ以テ出師ノ武装ヲ以テ野外演習ヲ行フト示サル」(砲兵中隊従軍日誌)

    「一午後6時報第2号ノ電報ヲ大本営ヘ呈ス

        公使ノ求メニ依リ明朝王宮ヲ囲ム開戦ハ免レザルベシ((ならび)ニ今後ノ決心ヲ述ブ)」(前記大島旅団長発参謀総長宛て混成旅団報告第15号)

「7月22日夜,朝鮮政府の回答が日本公使館に届く。予想通り拒否の回答であった。」(大谷61頁)

                                  (つづく)
 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

1500002 東京都渋谷区渋谷三丁目5‐16 渋谷三丁目スクエアビル2階

電子メール:saitoh@taishi-wakaba.jp


1894年の夏は暑かったようですが,今年(2018年)の夏も暑い。

夕方に銭湯でひとっ風呂というのはよい消夏策でしょう。

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つるの湯(東京都台東区浅草橋)


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まつの湯(東京都品川区中延)    




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