筆者の母方の曽祖父の残した「由緒」書きにおける下記日清戦争関係の記載に係る考証話の今回は第2回です。1894年の朝鮮国における東学党の蜂起から曽祖父の仁川上陸までを取り扱おうと思います。

 

明治26年〔1893年〕11月1日徴兵ニ合格シテ騎兵第五大隊第一中隊ヘ入営セリ〔前回はここまで〕

明治27年〔1894年〕6月朝鮮国ニ東学党蜂起シ韓国居留民保護ノ目的ヲ以ツテ(どう)年6月11日混成旅団ヲ編成セラ(ママ)大島義昌少将ヲ旅団長トシ平城盛次少尉ヲ小隊長トシ選抜セラレテ山城丸ニ乗舶シ宇品港出帆玄海灘ヲ経テ仁川ニ向フ此ノ日山陽鉄道広島駅()()開通ノ日ナリ〔今回はここまで〕

明治27年8月1日ヲ以ツテ宣戦布告セラレ日清開戦トナル

仝7月23日京城ノ変ニ出張爾来成歓ニ牙山ニ平壌義洲鴨緑江鳳凰城ママ馬集崔家房ママ家台竜頭塞興隆勾瀇嶺海城牛荘田庄台ト転戦ス

明治27年9月15日大本営ヲ広島旧城エ進メ給ヘリ

明治28年〔1895年〕6月5日講和トナリ凱旋

仝年1112日日清戦役ノ功ニ依リ瑞宝章勲八等及び金50円幷ニ従軍徽章下賜セラル 

明治29年〔1896年〕1130日善行証書ヲ授与セラレ満期除隊トナル

 

1 東学党の蜂起

 岩波書店の『近代日本総合年表 第四版』(2001年)の1894年の部分を見ると,同年における朝鮮国の東学党蜂起について次のような記載があります。「朝鮮国ニ東学党蜂起」があったのは,いきなり同年6月のことではなく,同年2月頃から動きがあったのでした。

 

   2.15 朝鮮の全羅道古阜郡で,郡主趙秉甲に対する民衆の反乱おこる。2.25自発的に解散,政府は東学に責任ありとして弾圧を始める。

   3.29 朝鮮の全羅道で東学党蜂起。全琫準,総督となる。5.14忠清道・慶尚道に広がる。

   5.31 東学党,全州〔全羅道の首府〕を占領。朝鮮国王〔高宗・李載晃。日韓併合後は徳寿宮李太王〕,総理交渉通商事宜の袁世凱に清軍派遣を要請。6.4李鴻章,900人の派兵を指令。6.9援軍,朝鮮牙山に到着。

   6.7 日本,朝鮮に出兵を通告。6.9李鴻章,英公使に日本の朝鮮派兵阻止を要請。

   6.11 東学軍,全州を撤退。

   10.― 朝鮮,東学農民軍,再蜂起し,日本軍に抗戦。

 

東学党蜂起の時系列の日付は,大谷正『日清戦争』(中公新書・2014年)の説くところは岩波年表によるものと少し違っています。1894年2月15日の古阜における「東学異端派の指導者全琫準が地方官吏の苛斂誅求に蜂起」した事件が「一時収まった」ところまでは同じですが(大谷270頁・40頁),「再蜂起」は同年3月末のことではなく,同年「4月末に再蜂起」したのであって,具体的には4月25日に「朝鮮の全羅道茂長で,東学農民軍が蜂起」したものとされています(大谷40頁・270頁)。なお,同年6月11日の「東学軍,全州を撤退」の具体的事情は,同月1日に全州城外に到着した朝鮮政府軍に対して「農民軍は政府軍陣地を2度にわたって攻撃したが,多数の犠牲者を出して撃退され」,その後「休戦交渉が開始され,農民軍は27ヵ条の弊政改革請願を国王に上達することを条件に,6月11日に和約に応じ,全州から撤退した。」というものでした(大谷41頁)。また,岩波年表では189410月に「東学農民軍,再蜂起」とされていますが,これは11月の「第二次農民戦争」だとされています(大谷269頁)。すなわち,「大院君〔高宗の実父・李昰応〕は国王の密書を偽造して,農民軍の再蜂起を促した。これを受け取った全琫準は秋の収穫が終わるのを待って11月上旬に再蜂起」したという経緯だそうです(大谷106頁)。「東学農民軍との大規模な戦闘は,忠清道の公州に入った〔日本陸軍後備歩兵〕第十九大隊第二中隊と朝鮮政府軍を,北接〔忠清道を中心とする東学の組織〕と南接〔全羅道を中心とする東学の組織〕の東学連合軍が1120日に攻撃したことから始まった。2次にわたる公州の戦闘は12月7日まで続き,農民軍は数に勝っていたにもかかわらず,ライフル銃(スナイドル銃)を装備した日本軍の前に多数の犠牲者を出して敗北した。」とのことでした(大谷108頁)。その後,日本軍の「作戦は当初の予定を2ヵ月近く延長して1895年2月末まで続けられ」ました(大谷110頁)。「第二次農民戦争」における農民軍側の犠牲者数については,趙景達『異端の民衆反乱――東学と甲午農民戦争』(岩波書店・1998年)においては「全体の犠牲者は3万名を優に超えていたのは確実」で,「5万に迫る勢いである,との推計値」が示されているそうですが(大谷110頁),村川堅太郎=江上波夫他編『世界史小辞典』(山川出版社・1979年(第2版第19刷))の「東学党の乱」の項(佐々木正哉執筆)の「3040万の犠牲者」からは随分減っています。

なお,そもそもの東学については,「東学は没落両班(ヤンパン)の崔済愚が1860年に提唱した民衆宗教で,キリスト教を意味する西学に対して東学と称した。崔済愚が処刑された後,第2代教主崔時亨のもとで,東学は朝鮮南部一帯に広がり,さらに拡大した。崔時亨は政府の弾圧を避けるため「守心正気」の内省主義を東学教徒に求めたが,一方で民衆の変革志向に期待する東学異端派も存在した。」と紹介されています(大谷40頁)。

 

2 日本政府による半島派兵決定

当時の我が国は第2次伊藤博文内閣の時代でした。外務大臣陸奥宗光,陸軍大臣大山巌,海軍大臣西郷従道,内務大臣井上馨,文部大臣井上毅,逓信大臣黒田清隆,内閣書記官長伊東巳代治。

しかし,第2次伊藤博文内閣は,第6回帝国議会の衆議院を相手に窮地に陥っていました。(また,貴族院も批判的で,年初の1894年1月24日には「近衛篤麿〔当時2歳の文麿の父〕・谷干城ら貴族院議員38人,首相伊藤博文に忠告書を送り,衆議院の条約励行論〔不平等条約改正交渉を進める政府に対する排外主義的反対運動。居留地外での外国人の活動を現行条約どおり厳格に制限せよとするもの〕抑圧に抗議。」ということが起っています(岩波年表)。)

1894年5月31日,衆議院は内閣弾劾上奏案を可決します。この上奏は,「両議院ハ各天皇ニ上奏スルコトヲ得」との大日本帝国憲法49条に基づくものです。議院法(明治22年法律第2号)51条1項には「各議院上奏セムトスルトキハ文書ヲ奉呈シ又ハ議長ヲ以テ総代トシ謁見ヲ請ヒ之ヲ奉呈スルコトヲ得」とありました。当該弾劾上奏の文章は次のとおり(第6回帝国議会衆議院議事速記録第14369370頁掲載の特別委員長(江原素六)報告書のもの)。

 

     上奏

      衆議院議長楠木正隆誠惶誠恐謹ミ

    奏ス

  叡聖文武天皇陛下登

    極ノ首メ五事ノ誓文ヲ下シ明カニ億兆ニ示シ給ヒ上下心ヲ一ニシ盛ニ経綸ヲ行ハシム

    大詔ノ厳ナル屹トシテ山嶽ノ如ク

  天恩ノ厚キ穆トシテ春風ニ似タリ等瞻迎景従日夜孳々トシテ

    盛徳ヲ翼賛シ

    鴻志ニ奉答セント欲スルモノ年已ニ久シ然ルニ比年閣臣ノ其施設ヲ誤リ内治外交共ニ其職責ヲ失シ動モスレハ則チ累ヲ帝室ニ及ホスニ至ル曩ニ第4期帝国議会ニ方リ閣臣ノ見ト等ノ議ト相触レ等内閣ト並ヒ立ツ能ハス謹テ上奏以テ罪ヲ俟ツ

  陛下畏クモ誓文ノ意ニ基ツカセラレ

    大詔ヲ下シ在廷ノ臣僚及帝国議会ノ各員ニ告ケ和協ノ道ニ由リ以テ大事ヲ補翼シ有終ノ美ヲ成サンコトヲ望ミ特ニ閣臣ニ命スルニ行政各般ノ整理ヲ以テシ給ヘリ国務大臣モ亦隆渥ノ

  聖旨ヲ奉シ第5期帝国議会ヲ期シ政綱ヲ振厲シ政費ヲ節減シ海軍ヲ釐革センコトヲ誓ヘリ是ニ於テカ挙国ノ民

  陛下カ輿論ヲ嘉納シ給フヲ聴キ額手シテ第5期帝国議会ヲ俟チ来蘇ノ慶アランコトヲ翹望セリ然ルニ閣臣ノ経営一時ヲ弥縫スルニ止マリ政綱未タ振厲セス海軍未タ釐革セス惟僅ニ費途ヲ節シ吏員ヲ沙汰シ以テ大事ヲ模稜スルニ過キス特ニ外政ニ至テハ偸安姑息唯外人ノ歓心ヲ失ハンコトヲ是レ畏レ内外親疎軽重ノ弁別ヲ顚倒スルニ至ル是レ等カ偏ヘニ

  聖旨ニ背戻センコトヲ恐レ戦競自ラ安スル能ハサル所以ナリ等区々ノ微衷

    恭ク

    大詔ニ遵ヒ努メテ経綸ヲ画シ至誠以テ

  天意ニ奉答セント欲スト雖モ閣臣常ニ和協ノ道ニ背キ等ヲシテ大政翼賛ノ重責ヲ全フスル能ハサラシム此ヲ以テ等閣臣ニ信ヲ置ク能ハサルナリ今ニシテ之ヲ匡正セスンハ等窃ニ恐ル憲政内ニ紊乱シ国威外ニ失墜センコトヲ是レ等カ黙セント欲シテ黙スル能ハス敢テ赤心ヲ披瀝シ

  闕下ニ陳奏スル所以ナリ仰キ願クハ

  陛下天地覆載ノ恩ヲ敷キ日月ノ照鑿ヲ垂レ玉ハンコトヲ衆議院議長楠木正隆誠惶誠恐謹ミ

    奏ス

 

当該上奏の文書は,1894年6月1日に楠木議長が参内して土方久元宮内大臣経由で奉呈されました(第6回帝国議会衆議院議事速記録第15378頁)。

しかして同じ1894年6月1日,在朝鮮国日本公使館書記生である鄭永邦(明の遺臣・鄭成功の子孫とされます。長崎通事出身)は駐劄朝鮮総理交渉通商事宜の袁世凱を訪ねて会談し,情報を収集,それを承けて日本公使館の杉村(ふかし)一等書記官(大鳥圭介公使が休暇中のため代理公使)は「全州 fell into hands of rebels yesterday. 袁世凱 said Corean Government asked Chinese reinforcement. See 機密第六十三号信 dated 五月廿二日.」という電報を同日発し,当該電報(電受第168号)は翌2日に東京の外務省に到達しました(大谷4345頁,41頁)。なお,当該電報において言及されている杉村一等書記官の同年5月22日付け(同月28日外務省接受)の機密第63号信(「全羅忠清両道ノ民乱ニ付鄙見上申ノ件」)には,「(さて)支那兵カ万一入韓(公然通知ノ手続ヲ践ミ)スルニ至ラバ朝鮮将来ノ形勢ニ向テ或ハ変化ヲ来スモ難計(はかりがたき)ニ付我ニ於テモ差当リ我官民保護ノ為メ又日清両国ノ権衡ヲ保ツカ為メ民乱鎮定清兵引揚迄公使館護衛ノ名義ニ依リ旧約ニ照シ出兵可相成(あひなるべき)ヤ又ハ清兵入韓候トモ我政府ハ別ニ派兵ノ御沙汰ニ及ハレサルヤ右ハ大早計ニ似タリト雖モ(かね)テ御詮議相成候様致度候」とあったところです(日本外交文書)。ここでの「公使館護衛ノ名義ニ依リ旧約ニ照シ出兵」の「旧約」については,1882年8月30日に調印された我が国と朝鮮国との間の済物浦条約の第5条1項に「日本公使館置兵員若干備警事」とありました。また,「公然通知ノ手続」としては,1885年4月18日に伊藤博文と李鴻章とが取りまとめた日清間の天津条約に「将来朝鮮国若シ変乱重大ノ事件アリテ日中両国或ハ1国兵ヲ派スルヲ要スルトキハ応ニ先ツ互ニ行文知照スヘシ其事定マルニ及テハ仍即チ撤回シ再タヒ留防セス」とありました。

 陸奥宗光の『蹇蹇録』には1894年6月2日の我が国政府の動きについて次のようにあります。

  

  〔前略〕6月()1日()〔5月31日〕に至り衆議院は内閣の行為を非難するの上奏案を議決するに至りたれば〔6月1日に議長により上奏〕政府は止むを得ず最後の手段を執り議会解散の詔勅を発せられむことを奏請するの場合に至り翌2日内閣総理大臣の官邸に於て内閣会議を開くことなりたるに(たま)(たま)杉村より電信ありて朝鮮政府は援兵を清国に乞ひしことを報じ来れり是れ実に容易ならざる事件にして若し之を黙視するときは既に偏頗なる日清両国の朝鮮に於ける権力の干繋をして尚ほ一層甚しからしめ我邦は後来朝鮮に対し唯清国の為すが儘に任ずるの外なく日韓条約の精神も為めに或は蹂躙せらるの虞なきに非ざれば余は同日の会議に赴くや開会の初に於て先づ閣僚に示すに杉村の電信を以てし尚ほ余が意見として若し清国にして何等の名義を問はず朝鮮に軍隊を派出するの事実あるときは我国に於ても亦相当の軍隊を同国に派遣し以て不慮の変に備へ日清両国が朝鮮に対する権力の平均を維持せざるべからずと述べたり閣僚皆此議に賛同したるを以て伊藤内閣総理大臣は直に人を派して参謀総長〔有栖川宮〕熾仁親王殿下及参謀本部次長川上〔操六〕陸軍中将の臨席を求め其来会するや(すなは)ち今後朝鮮へ軍隊を派出するの内議を協へ内閣総理大臣は本件及議会解散の閣議を携へ直に参内して式に依り 聖裁を請ひ裁可の上之を執行せり

 

当該閣議において,混成1個旅団の半島派兵が決定され(大谷4546頁,御厨貴『明治国家の完成 18901905』(中央公論新社・2001年)284頁),「距離的な便宜から,広島に師団司令部を置く第五師団の第九旅団(歩兵第十一聯隊と歩兵第二十一聯隊を基幹とする)を抽出して編制」するところまで決まっています(原田敬一「混成第九旅団の日清戦争(1)―新出史料の「従軍日誌」に基づいて―」佛教大学歴史学部論集創刊号(2011年3月)20頁)。

同日,参内の楠木衆議院議長に対して土方宮内大臣から前日の「衆議院ノ上奏ハ御採用ニ相成ラス」との口達があり,更に衆議院は大日本帝国憲法7条により解散せしめられました(第6回帝国議会衆議院議事速記録第16428頁)。貴族院は,停会です(大日本帝国憲法44条2項)。

「条約励行論から間髪をおかず日清戦争へ。この時点で日清戦争が起きたということは,ナショナリスティックな国民の感情のはけ口をつくったという点で,少なくとも日本の統治の安定という意味では,まさに「天佑」であったと言わざるをえないだろう。」ということになります(御厨279280頁)。

 半島派兵決定の閣議があった1894年6月2日に大山陸軍大臣,西郷海軍大臣,有栖川宮参謀総長及び中牟田倉之助海軍軍令部長宛てに下された勅語には,派兵目的として「同国〔朝鮮国〕寄留我国民保護」との文字があったそうです(大谷46頁)。


3 大島混成旅団の編成

 1894年6月3日,寺内正毅参謀本部第一局長は「混成1旅団ノ編制表」を有栖川宮参謀総長に提出します(原田21頁)。当該混成旅団たる混成第九旅団の編制は,原田敬一佛教大学教授によれば,歩兵第九旅団に「野戦砲兵第五聯隊の第三大隊本部と第五中隊(〔略〕野砲6門),工兵第五大隊の第一中隊,騎兵第五大隊,第一野戦病院(師団に属すもの),輜重隊半部,兵站監部・司令部1箇」が付加された「合計約8000名」の規模のものとされています(原田22頁)。大谷専修大学教授によれば「混成旅団は歩兵第九旅団(広島を衛戍地地とする歩兵第十一連隊と二十一連隊が所属)を基幹に,これに騎兵1中隊,砲兵1大隊(山砲),工兵1中隊,輜重兵隊,衛生部,野戦病院および兵站部を加えて編成された」(大谷47頁),「戦時定員で8000名を超える」もの(大谷45頁)ということになります。筆者にとっての最関心事である騎兵部隊について,騎兵第五大隊全部が混成第九旅団に属したのか,それとも同大隊の第一中隊だけだったのか,少々分かりにくい(外山操=森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧第1巻』(芙蓉書房・1993年)171頁においては,騎兵第五大隊第一中隊のみが混成第九旅団に属していたことになっています。)。しかして早くも,参謀総長に編制表が提出されたこの日の「午後9時55分新橋発広島ママ行きの列車には,参謀本部第一局員東条英教少佐〔当時9歳の英機少年の父〕が乗り込み,第五師団司令部に渡す動員計画や戦闘序列などを記した重要書類をしっかりと持っていた。」という運びになります(原田21頁)。ただし,山陽鉄道の「糸崎・広島間開業し,兵庫・広島間の鉄道開業」となったのは同月10日のことなので(岩波年表等),東条少佐が同月3日夜に新橋から乗った列車がそのまま「広島行き」であったということはないでしょう(大谷47頁では,東条少佐の乗った新橋発の列車の行先までは書いてありません。)。

 1894年6月5日,大鳥圭介駐朝鮮国公使は,海軍陸戦隊70名及び巡査21名を伴い巡洋艦八重山に乗り込み朝鮮国の仁川に向かいます(原田21頁)。本野一郎参事官も一緒です(大谷47頁)。陸軍においては,「東条少佐も,この日昼頃ようやく広島に着き,野津道貫第五師団長に大本営命令を直接伝えた。協議の後,午後4時野津師団長は,大島義昌第九旅団長に,充員召集を下令する。」という動きとなりました(原田21頁)。さて,ここに出て来る「大本営」なのですが,参謀本部内に大本営を置くことが決まったのが東条少佐の旅行中の前日4日のことであり(大谷47頁),設置されたのは正に同少佐が広島に到着した6月5日のことでした。同日午後に打合せを行った東条少佐,野津中将等に対して,大本営設置の連絡が既に伝わっていたものかどうか。

 なお,当該大本営は1893年5月19日裁可,同月22日公布の戦時大本営条例(明治23年勅令第52号)に基づくものであって,同条例1条には「天皇ノ大纛下ニ最高ノ統帥部ヲ置キ之ヲ大本営ト称ス」と規定されていました。「大本営ニ在テ帷幄ノ機務ニ参与シ帝国陸海軍ノ大作戦ヲ計画スルハ参謀総長ノ任トス」とされ(同条例2条),当時は参謀総長が海軍の大作戦についても責任者とされていました。1894年「6月5日,愈初の大本営の設置が令せられた。そして時の参謀総長陸軍大将有栖川宮熾仁親王には,大本営幕僚長として輔翼の大任に(あた)らせ給ひ,其の下に於て陸軍高級参謀としては参謀本部次長陸軍中将川上操六,海軍高級参謀としては海軍軍令部長中牟田倉之助の両名が,相並んで総長宮を輔佐し奉つたのである。」ということです(山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)269頁)。

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日清戦争開戦時の参謀総長・有栖川宮熾仁親王(東京都港区南麻布有栖川宮記念公園)


 1894年7月1日調べの陸軍現役将校同相当官実役停年名簿によれば,歩兵第九旅団長の大島義昌少将は,山口県士族従四位勲三等,年齢は44年となっていました。

 原田佛教大学教授が「佛教大学歴史学部論集」に連載して紹介する混成第九旅団野戦砲兵第五聯隊第三大隊第五中隊の将校(ただし,氏名不詳)による従軍日誌(原田20頁。以下「砲兵中隊従軍日誌」といいます。)によると,東条少佐広島到着日の翌日である6月6日(晴れ)の夕方には,野戦砲兵第五聯隊第三大隊に動員下令がありました(原田21頁)。騎兵第五大隊第一中隊にも同じ頃動員下令があったかといえば,1895年8月24日付けの同中隊の経歴書(アジア歴史資料センター)によれば,「6月5日動員ノ令下ル」とあります。

 筆者の曽祖父が直属将校として特に名を記している騎兵第五大隊の平城盛次小隊長は,1894年7月1日調べの陸軍現役将校同相当官実役停年名簿によれば,大隊附,長崎県士族正八位,年齢は25年6箇月となっています。筆者の曽祖父からすると,年齢の近い頼れる兄貴のような優秀な騎兵少尉殿であったということでしょう。

 砲兵中隊従軍日誌によれば,6月6日から直ちに「軍医ハ戦役ニ堪ユル者ト堪ヘザルモノヲ区別シ其手続ヲナス」とあります(原田21頁)。「由緒」書きにおける「選抜セラレテ」という力の入った表現に,筆者は曽祖父の誇らしげな自恃を感じたものですが,まずは軍医による「選抜」があった模様です。

 6月7日(晴れ)の砲兵中隊従軍日誌によれば,砲兵は「第一種衣袴(即新絨衣)」の分配を受けています(原田22頁)。

 6月8日(雨)には,「〔前略〕諸隊ハ来ル1011日ノ間ニ宇品港ニ着スル輸送船ニ乗載シ仁川ニ向テ出発セシム可シ/但シ軍艦吉野ヲ以テ護衛セシム」との命令が大本営の「参謀長 有栖川熾仁親王」から到達しています(「砲兵中隊従軍日誌」原田22頁)。砲兵中隊従軍日誌によれば,この日の段階における一般兵士の様子は,「此日下士卒満期々限ヲ延スノ報ニ接シ各兵士ハ始メテ其意ナラザルヲ知リ千差万別ノ評ヲ下スト雖モ未タ其実戦遠ク派遣セラルヽトハ素ヨリ知ル者ナク亦規律厳ニシテ柵ハ空天ニ貫カントスル高柵ノ内ニ別世界ヲ織組シ居ル吾人軍人何ソ之レヲ知ルニ由アラン」というようなものでした(原田22頁)。動員下令はあったものの,いまだに作戦命令は教えられておらず,「千差万別ノ評ヲ下ス」ばかりとの情況です。同日,騎兵第五大隊第一中隊の動員は完成しています(同中隊経歴書)。

 6月9日(晴れ)には,野戦砲兵第五聯隊第三大隊(第六中隊を除く。)は「明日出発」である旨の命令を受けています(「砲兵中隊従軍日誌」原田22頁)。騎兵第五大隊第一中隊等他の部隊も同様出発に関する命令を受けたことでしょう。ただし,一足先に朝鮮国に向かわせられた部隊もあり,「歩兵1大隊(第十一連隊第一大隊,大隊長一戸兵衛少佐)が先発隊として,6月9日に宇品を出航,12日仁川に到着した」ところです(大谷4748頁)。

 

4 大島混成旅団第1次輸送隊の出航

 筆者の曽祖父の記述によれば,曽祖父は山城丸に乗船して6月11日に宇品港を出たようであり,しかしあるいは山陽鉄道の糸崎・広島間の開業日であった6月10日に出港したようにも読み得ます。これについては,騎兵第五大隊第一中隊経歴書によれば「6月11日衛戍地広島出発同日宇品ニ於テ乗舩出発(2ヶ小隊ヲ中隊長自ラ引率)」ということでした。6月11日は,大島旅団長が宇品港を出た日でもあります。

砲兵中隊従軍日誌の6月11日(午前曇り,午後晴れ)の項に「午前5時呉港ヲ抜錨シテ宇品港ニ至リ其間約1時間我旅団長及随行ノ者3名海軍将校2名及信号手3名乗セ(どう)6時10分宇品ヲ発シテ仝6時40分宮島ノ沖ヲ通過ス」とあります(原田23頁)。更に同項には,同日午後「5時25分安岡〔現在は下関市〕ニ着ス,時ニ第1次輸送船中幾分ハ此処ニ集合セリ,之(ママ)昨夜我船ノ呉港ニ至リシ内ニ其レ々当地ヲ指シテ集マリシモノ。/時ニ軍艦吉野ハ既ニ茲ニアリテ信号ニ曰ク(どう)行ス可キ兵庫丸未タ着セザルモ今ヨリ行進ヲ起シ我ニ随行ス可シト,依テ5時40分抜錨。/午後6時10分 連島〔六連島〕ノ北方ヲ進ム,我先登ハ吉野艦ニシテ輸送船中我近江丸ハ先登ニ至リ之レニ次クハ山城酒田遠江越後熊本千代(ママ)住ノ江和可ノ浦等ニシテ縦隊トナリテ進ムとあります(原田23頁)。(なお,アジア歴史資料センターのウェブ・サイトにある大島義昌旅団長作成名義の1894年6月17日付け「広島出発ヨリ仁川到着迠ノ景況報告」によると,宇品抜錨は6月11日「午前5時半」,門司到着は「午后4時」,同日「午後4時過キ六連島附近ニ集マルモノ近江越後酒田熊本遠江ノ5艘ナリ他ノ兵庫仙台住ノ江山城ノ4艘ハ未タ六連島ニ来ラス午后5時30分吉野艦ト共ニ先ツ集合セル5艘ヲ以テ抜錨ス」ということで砲兵中隊従軍日誌の記述と時刻及び同日の輸送船団構成の輸送船名について若干の異同があり,同月「13日午前6時20分兵庫仙台住ノ江山城ノ4艘追尾シ来リ運送船ノ全数始テ集マル」ということとなっていました。)

砲兵中隊従軍日誌の記者の部隊は6月10日(雨)の午前4時30分に広島の屯営を発し,「既ニ大手町一丁目ニ至ルヤ市民起床シ決然トシテ余輩ノ出師ヲ望見ス」との広島市民の見送りを得て午前6時宇品港着,午前10時近江丸に乗船ということになったのですが,「馬ハ常ノ乗船演習ニ熟練シ居ラザルヲ以テ乗船殆ント困難ス」ということで時間がかかり,宇品抜錨は午後6時30分になってしまっていました(「砲兵中隊従軍日誌」原田23頁。それから近江丸は水の積込みのために呉港に寄港しています。)。

広島からの出発に際しての大島義昌旅団長の訓示は次のとおりでした(アジア歴史資料センターのウェブ・サイトにあります。)。

 

 斯ノ名誉ナル出師ニ際シ混成旅団ノ将校以下諸員ニ告ク

 今ヤ朝鮮国ノ匪徒其勢日ニ猖獗ニシテ而シテ朝鮮政府ノ力善ク之ヲ鎮圧スル(こと)能ハス匪徒将ニ京城ニ迫ラントスルノ勢アリ

 陛下至仁在同国帝国公使館及在留帝国人民保護之大御心ヲ以テ我旅団ヲ同国ニ派遣シ玉フ我旅団業已ニ此ノ大任ニ膺ル宜ク忠勇尽職上下一致以テ其奏効ヲ期セサル可カラス

 我旅団素ヨリ朝鮮ノ内治ニ干渉シテ其匪徒ヲ鎮定スルノ当務ヲ有セス即チ当団ノ動作全ク平時姿勢ニ在リ然而事体総テ外国ニ関係ス乃チ一卒ノ動作モ亦大ニ帝国軍隊ノ声誉ニ関スルヲ以テ各幹部宜ク其部下ヲ戒飾シ仮初ニモ粗暴ノ振舞ヲ為スヿナク又朝鮮国官民並ニ同国在留ノ外国人ニ対シテハ侮ラス又懼レス一層ノ穏和ヲ旨トシ以テ帝国軍隊ノ名誉ヲ発揚スルニ勉ム可シ

 支那国モ亦軍隊ヲ朝鮮国ニ発遣セリトノ説アリ果シテ信ナラン乎若シ或ハ相会スルノ時アランカ

 陛下修好善鄰ノ大御心ヲ奉体シ軍隊ノ礼儀ヲ重ンシ其武官ニ対シテハ官等相当ノ敬意ヲ表シ親密ヲ主トシ苟モ喧噪等ノ事アルヘカラス

 飲食ヲ莭シ摂生ヲ守ルハ軍人ノ貴重スヘキ事タリ夫レ祗役中疾病ノ害毒ヲ流スヿ硝烟弾雨ヨリモ尚且ツ甚シキモノアリ前年台湾ノ役ニ徴シテ知ル可キナリ今ヤ我旅団ハ炎暑ノ気候ニ向ヒ水土ニ慣レサルノ地ニ臨マントス各幹部及衛生諸官ハ厚ク注意ヲ加ヘ部下ヲ訓戒シ一人ノ不注意ハ啻ニ自己ノ生命ヲ危フスルノミナラス延イテ全団ノ利害ニ関スル所以ノモノヲ了觧シ自愛摂養セシメ一人ト雖𪜈(とも)疾病ノ為メニ不帰ノ鬼ト為サシムヘカラス

 航海中軍紀風紀ヲ恪守スルハ勿論艦舩事務員ノ通報ハ之ヲ遵行シ仮令異変ノ時ト雖𪜈将校ノ命令アル時ニアラサレハ自席ヲ離レ若クハ騒擾スルヿアルヘカラス

 困苦欠乏ニ耐フルハ軍人ノ本色ナリ朝鮮ノ地供給力ニ乏シ想フニ意外ノ困苦ニ遭遇スルノ時機多カラン我旅団ハ帝国軍人ノ堪忍力ヲ試験スルノ好運ニ際会セリ勉メスンハアルヘカラス

 我旅団出師ノ事皆将来帝国陸軍進歩ノ好材料ナラサルハナシ各官此意ヲ以テ典則其他百般ノ業務ニ就キ彼是参照潜心其利弊ヲ研究シ毎週報告ヲ懈ル勿ランヿヲ


 なお,「第1次輸送船」があれば「第2次輸送隊」があるのですが,筆者の曽祖父の属した「第1次輸送隊(大島旅団長の率いる部隊,混成旅団の約半分)が16日に仁川に到着して上陸を開始した」一方(大谷48頁。なお,到着自体は後に見るように15日からです。),混成第九旅団の残部である「第2次輸送部隊は〔1894年〕6月24日に宇品を出帆し,27日に仁川に着き,29日に漢城郊外の龍山に到着」しています(大谷5152頁)。

 

5 玄海灘を越え仁川港へ

 砲兵中隊従軍日誌によれば,6月11日夜の玄界灘の様子は,「当時音モ名高キ玄海ニシテ鳥モ通ハズ(ひた)スラ大浪ノ織ルカ如キノミ」というものでした(原田23頁)。詩的表現です。

 6月12日(晴れ)には「午前4時左方ニ壱岐ヲ見ル,仝7時対馬ヲ右ニ見ル」ということでしたが,「本日ヨリ船酔ヲ催フスルモノ多」しという状態となりました(「砲兵中隊従軍日誌」原田24頁)。中国山地の盆地出身であった筆者の曽祖父も,山城丸船内で船酔いを催したものか。

 6月13日(晴れ)には遅れていた兵庫丸が第1輸送隊に加わります(「砲兵中隊従軍日誌」原田24頁)。その後「夕食ノ頃海上一面ニ大霧起リ為メニ咫尺弁セズ,各船其序列ヲ失ス」ということになりました(「砲兵中隊従軍日誌」原田24頁)。船酔いに加えて大霧と,海はこわい。

 6月14日(雨)には霧なお濃く,「序列ヲ失」したままの各船は,島嶼及び岩礁の多い半島西側の海を進むのに難渋します。近江丸について見れば,「午前11時頃突然行進ヲ留ム,驚キ右ヲ見レハ島嶼或ハ岩礁嶬峨トシテ並立セリ,其時漸ク霧少シ晴ルヲ以テ之レヲ知ルヲ得タリ,今一歩ヲ進メハ余等将来成ス有ルノ大業ヲ負担セシ身ヲ空シク魚(ママ)ニ葬ルノ惨界危難ニ陥ル可キ,幸ニシテ虎口ヲ逃レ九死ニ一生ヲ得タルモ長大息各兵士顔色生草タリというようなこともありました(「砲兵中隊従軍日誌」原田24頁)。「午後8時〔吉野は〕信号シテ曰ク仁川ニ向ケ各船行進ヲ起シ安全ナル処ニ於テ碇泊ヲナセ,蓋シ前夜来風雨甚シク到底現在ノ位置ニ有ルコト能ザルヲ以テナリ/時ニ山城丸モ亦来リ会セシガ覆盆傾ノ大雨来リ,波浪甚シク烈風ノ為メニ見ル内ニ錨1箇ヲ切断セラレタリ〔後略〕」ということで(「砲兵中隊従軍日誌」原田24頁),仁川への航海は,決して安全・安心かつ快適なものではありませんでした。

 6月15日(霧かつ雨)には,ようやく仁川港到着です(「砲兵中隊従軍日誌」原田25頁)。「大霧のため船団の進行は別れ別れになり,吉野,近江丸,住ノ江丸だけがまず到着し,次いで他の輸送船も着き始めた。15日に巡洋艦吉野に守られて仁川に入港したのは,近江丸,兵庫丸,仙台丸,住ノ江丸,山城丸,酒田丸の6隻。翌16日巡洋艦千代田に護衛されて熊本丸,越後丸,遠江丸の3隻が入港した(『日清戦史』第1巻123頁)。」(原田25頁),ということです。山城丸乗船の筆者の曽祖父も15日に仁川港に着いたわけですが,直ちに上陸することはできませんでした。「混成第九旅団には,仁川港に到着はしたが,上陸はさし止める,という八重山艦経由の大本営命令が伝えられた。これは,混成旅団8000名の派兵というのが「居留民保護」という名目からは多すぎ,欧米公使館の疑惑を招く,という大鳥圭介公使の判断により指示となったもの」だそうです(原田25頁)。しかしながら,結局,「15日に仁川港に到着した第1次輸送隊は,「輜重及荷物ヲ除クノ外16日中ニ悉ク」(〔『日清戦史』第1巻〕111頁)仁川港に上陸し,仁川の日本居留地付近に宿営した(同)。上陸したのは人員2673名と馬匹186頭だった(同)。」ということになりました(原田25頁)。

 

6 仁川上陸

 6月16日(曇り,午後晴れ)の砲兵中隊従軍日誌によれば,「午前7時50分吉野信号シテ曰ク陸兵上陸ヲ始ム可シ」とのことで,「午前8時ヨリ人馬及ヒ材料ノ上陸ニ着手シ(どう)港海岸ニ砲廠ヲ作リ哨兵ヲシテ之レヲ守ラシム」云々ということになりました(原田27頁)。
 
アジア歴史資料センターのウェブ・サイトにある混成第九旅団の「第6月16日仁川港居留地舎営割」を見ると,騎兵の人員は110人で,一人当たり1畳が割り当てられています。他に歩兵2072人,砲兵271人,工兵252人,輜重兵84人,野戦病院人員169人及び兵站部人員54人(合計すると3012人となってしまって,2673という数字と整合しないのが悩ましいところです。)。地図を見ると,騎兵の宿営した場所の南には工兵がいて更にその先は海,騎兵の西隣は兵站部,北には歩兵で更にその先が日本領事館,東も歩兵の大軍です。日本領事館の西に砲兵が陣取り,その西隣には清国租界があり,更にその先の岬には英国領事館がありました。テント生活(幕営)ではなく,まずは「狭縮」ながらも家屋に宿営です。その理由は,1894年6月17日作成の大島旅団長から有栖川宮熾仁参謀総長宛て混成旅団報告第4号(アジア歴史資料センターのウェブ・サイトにあります。)によれば,「目下旅団カ幕営ノ用意アルニ拘ラス幕営ニ決セサルモノハ旅団ハ今日ニモ明日ニモ前進シテ京城ニ侵入スルノ勢ヲ示サンカ為メナリ是レ示威ヲ以テ清兵ノ決心ヲ促サンカ為メナリ」ということでした。しかしながら,「仁川滞在数日ニ渉ルトキハ徒ラニ居留民ノ迷惑ヲ(商売上)起サシムルヲ以テ止ムヲ得ス幕営スルニ至ルヘシ」と予定はされていたところです。

 仁川は「新開地ナルモ日本人最モ多ク,支那人之レニ次キ,米仏英人アリ」という町でした(「砲兵中隊従軍日誌」原田27頁)。前日の第一印象では,近江丸の「甲板上ヨリ仁川港市街ヲ望メハ一面盛ンナル市街ト察セラル,黒灯ハ戸々ニ起リ(ママ)瓦作リノ家ニ至モ亦少カラズシテ其望見最モ佳ナリシ」(「砲兵中隊従軍日誌」原田25頁)との悪くはないものではあったのですが,実際の仁川はどうであるかといえば,これは我が軍兵士らにとってなかなか快適ではなかったようです。砲兵中隊従軍日誌の6月16日の項に更にいわく(原田27頁)。

 

  韓人ハ一斑不潔ニシテ一種ノ臭気アリ,我砲廠ニ接シ亦ハ其間ヲ遮ラントスルヲ禁止スルニ皆畏懼シテ走リ,為メニ相衝突スルヲ見ル,亦其小胆ナル一斑ヲ伺フニ足ル

 

  平時ニ於テモ飲用水乏シク水ヲ売ルモノアリト,特ニ日本ノ大群上陸飲用水ノ欠乏ニ困却ス

 

飲む水が足らぬとても,出る物はまた出る。「ついで屎尿の処理が問題となった。内地の駐屯の場合,農家の肥料として処理していたが,それができず困ったことになった。」と原田佛教大学教授はあっさり記しておられますが(原田27頁),ワンダーフォーゲル用語でいうところのキジ花が宿営地周辺に咲き乱れ,独特の香気芬々ということになってしまっていた,という表象は,余りさわやかではありません。1894年6月21日の大島旅団長の有栖川宮熾仁参謀総長宛て混成旅団報告第5号(アジア歴史資料センターのウェブ・サイトにあります。)には「又下肥排棄ノ為メニモ数多ノ人夫ヲ要スル等予想外ノ出来事多シ」とありますから,一応宿営場所の汲取便所に溜めてはいたものでしょう。)

半島の魚も日本の青年たちに友好的ではありませんでした。砲兵中隊従軍日誌6月17日(雨)の項には,次のように記されています(原田27頁)。

 

 (どう)港ニ滞在

 本夜(ママ)食物ハ「メタ」ト称スル海魚ナリシガ元来本品ハ一夜間水中シテ後之レヲ煮ル可キ者ナルニ之レヲ塩煮セシ故カ忽チニシテ吐瀉シ(ママ)痛甚シク或ハ下痢等ニテ突然患者甚シ。

 

 宿営所には苦痛の声が満ち,便所の奈落に積もるキジ花のお花畑には更に肥やしが加えられたようです。

                                   (つづく)

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

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