1 「食育」

「食育」という法令用語があるのですが,筆者においてはかねてからその意味するところがよく分からずにおりました。最近出て来た言葉のようです。

しかし,調べれば分かるであろうことを調べずにいて横着に「分かんねーょ」で済ますのは,人間頽廃の第一歩でしょう。そこで,大きな六法全書にも収載されていない2005年の食育基本法(平成17年法律第63号)等をインターネットで調べてみたところです。

なお,食育基本法161項及び2621号に基づき国の食育推進会議によって作成された2016年度から2020年度までの5箇年計画Пятилеткаたる第3次食育推進基本計画においては,「我が国の食育の理念や取組等を積極的に海外に発信し,「食育(Shokuiku)」という言葉が日本語のまま海外で理解され,通用することを目指す。」という記述が見られます(第372))。実は「食育」概念は既に成熟し,その内容もはっきりしているものとして扱われているようです。当該概念をなお十分理解していない筆者による試みである本ブログ記事は,あるいは食育推進会議の公定解釈から大きく逸脱したものとなるかもしれません。しかし,やってみましょう。

まず,法令用語としての「食育」の定義は,食育基本法の前文第2項にあるということでよいようです。そこでは「様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し,健全な食生活を実践することができる人間を育てる食育」とありますから,「食育」とは「様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し,健全な食生活を実践することができる人間を育てる」こと,ということになります。同法の本則においては,特段「食育」に係る定義規定を設けずに,第1条から「食育」の語が自明のものとして用いられています。

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「様々な経験」1:ちゃんぽんうどん,サラダうどん,ビール及びワイン

また,食育は,食育基本法によって「生きる上での基本であって,知育,徳育及び体育の基礎となるべきものと位置付け」られています(前文第2項)。食育がないと生きていけそうもないということですから,食育は人生の最初段階において受けるものであって,「知育,徳育及び体育」がいわゆる教育ならば,教育より前のいわば無意識のレヴェルに刷り込まれるべきものということになるようでもあります。少なくとも,字を覚えることよりも優先されるべきものなのでしょう。

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「様々な経験」2()()塩辛

全き食育の成果たる人間はどのようなものかといえば,「様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し,健全な食生活を実践することができる」人間ということになります。したがって,様々な経験を通じて「食」に関する知識及び選択力を習得し得る能力が要素であって,「健全な食生活を実践すること」は可能性にとどまるわけです。食育を受けた国民全員による輝かしき「健全な食生活」の実践は必ず実現するものとは限らないし,またその必要もない(個人の選択に委ねられる。),ということになり得るところです。

 

2 「健全な食生活」

しかしながら,食育基本法の第2条から第8条までに掲げられた食育に関する「基本理念」(同法9条)に基づき推進される食育は,当該基本理念の実現までを目指すものとならざるを得ません。同法2条は「食育は,食に関する適切な判断力を養い,生涯にわたって健全な食生活を実現することにより,国民の心身の健康の増進と豊かな人間形成に資することを旨として,行われなければならない。」と規定していますから(下線は筆者によるもの),食育は,食育を受けた人間が「生涯にわたって健全な食生活を実現」する者となるようにすることを目指すのだということになります。

「健全な食生活」とは何かといえば,まずは「心身の健康の増進と豊かな人間形成に資する」ものであるということになるのでしょう(食育基本法2条。また,同法1条にも「国民が生涯にわたって健全な心身を培い,豊かな人間性を育むための食育」との文言があります。)。十分な栄養を摂って身体が健康になりその結果心が健康になる(mens sana in corpore sano erit.)というだけではなく,「豊かな人間形成」までされるというものですから仰々しいところです。

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「様々な経験」
3:ワイン及びオリーブの実

 Oleam quam primum terra tollito. Si inquinata erit, lavito, a foliis et stercore purgato.

 「オリーブの実が落ちちまっても急いで拾って,葉っぱでも糞でも汚れはきれいに洗っちまえばいいんだよ。」とは,いかにもあの大カトー流です(「偉大な人物と「せこさ」とに関して」参照http://donttreadonme.blog.jp/archives/1067827246.html)。

食育基本法8条には「食品の安全性が確保され安心して消費できることが健全な食生活の基礎である」とありますから,「健全な食生活」においては,安全な食品を消費して身体が健康になるだけではだめで,そこに「安心」がなければ心は病んでしまって健康ではなく,かつ,「豊かな人間形成」もなされない,ということになるようです。不殺生戒・不飲酒戒等を安全にクリアした食事を安心(あんじん)と共に摂っていればこそ,そこにおいて初めて仏教者としての「豊かな人間形成」も達成されるのだということになるのでしょうか当ブログの2018321日付けの記事である「内閣総理大臣の国会演説に見る「安心」の平成史(後編)」の17を参照http://donttreadonme.blog.jp/archives/1070539114.html)。

「健全な食生活」における「健全」な料理は更に,伝統的な日本食にして地元食であって,かつ,その食材は国内産であるものと理解されているようでもあります。食育基本法7条は「食育は,我が国の伝統のある優れた食文化,地域の特性を生かした食生活〔略〕に配意し,〔略〕農山漁村の活性化と我が国の食料自給率の向上に資するよう,推進されなければならない。」と規定しています(同法前文第4項も「食料自給率の向上に寄与すること」がされることを期待)。この「食料自給率の向上」がどんどん進めば,最終的には外国産食料は我が豊葦原瑞穂国においては一切消費されない姿となります(食育基本法前文第3項は「「食」の海外への依存」を「問題」であるものと認識)。であれば,「様々な経験を通じて」の「様々な経験」は,国産食品に係る範囲内においてという制限下のものであるということなのでしょう。とはいえ,「(ここに)大気都比売(おほげつひめ)自鼻口及(はなくちまたしり)(より)種種(くさぐさの)味物(ためつものを)取出(),種種作具(つくりそなへ)()(たてまつる)」(古事記』(岩波文庫・1963年)上巻)というふうに,我が国における食料は本来,女神の鼻孔,口腔及び肛門から安易かつ豊富に出て来るはずものでありましたから,外国の産物が食べられないことなどを心配するのは無用のことです。

また,「豊かな人間形成」がされた人間は,具体的には,「食生活が,自然の恩恵の上に成り立っており,また,食に関わる人々の様々な活動に支えられていることについて,感謝の念や理解が深ま」っている人間ということのようであります(食育基本法3条。また,同法前文第5項)。当該「感謝の念や理解」を端的に表明するためには,食事の際に祝福(benedicere)あるべし,さすれば少量の食材(quinque panes et duo pisces)でも豊かに満腹(saturatum esse)あるべしということになるのでしょうか。

 

 et acceptis quinque panibus et duobus piscibus

   intuens in caelum benedixit et fregit panes

   et dedit discipulis suis ut ponerent ante eos

   et duos pisces divisit omnibus

   et manducaverunt omnes et saturati sunt

 (secundum Marcum 6.41-42)

 

 なお,アメリカ合衆国の感謝祭(Thanksgiving)においては,感謝の対象は「自然の恩恵」でも「食に関わる人々」でもありません。

 

  …Washington also signed a proclamation for the first Thanksgiving on November 26,1789,declaring that “Almighty God” should be thanked for the abundant blessings bestowed on the American people, including victory in the war against England, creation of the Constitution, establishment of the new government, and the “tranquility, union, and plenty” that the country now enjoyed.

      (Chernow, Ron. Washington: a life. (2010) p.609)   

  ワシントンは,また,〔1789年〕1126日の最初の感謝祭のための宣言書に署名した。そこにおいては,対イングランド戦争における勝利,憲法の制定,新政府の設立並びに国家が現在享受している「安寧,統一及び豊穣」を含むアメリカ人民に与えられた惜しみない祝福に対して「全能の神」に感謝すべき旨が表明されていた。


 ところで,食について「自然の恩恵」や「食に関わる人々」に対して感謝すべしとする
2005年の我が食育基本法は,その60年前の先の大戦における敗戦によりもたらされた我が国における「我国体に戻り」たる「浅間しき次第」(1882年の明治天皇の軍人勅諭に見られる表現)を反映するものとも解し得るかもしれません。すなわち,皇室祭祀の新嘗祭に関する明治元年(
1868)十一月十五日の政府の布告は人民に対し「面々,毎日食し候米穀は,其元,天祖の賜物なる事を知り,御国恩のかたじけなき事を相わきまへ候はば,遊興安臥して在るべきにあらず。寒村僻邑の土民,雨を祈り晴を願ひ候も,必ず感応之有り,況や天下一同,至尊の御仁慮を体認し奉り,共に祈請し奉るに於ては,神祇の冥感,殊にすみやかなるべき事に候。」と「天祖の賜物」について「御国恩の辱き事を相弁へ」るべきことを訓戒していたところでしたが(村上重良『天皇の祭祀』(岩波新書・1977年)69頁参照),食育基本法の文言からは,食が「天祖の賜物」であることも「御国恩の辱き事を相弁へ」るべきことも読み取り難くなっているからです。なお,上記布告での「天祖の賜物なる事」とは,「まず,皇国の稲穀は,天照大神,うつしき蒼生あおひとぐさの食して活すべきものなりと詔命あらせられ,天上に於て,,長田に殖えさせ給ひし稲を,皇孫降臨の時,下し給へる」との「神恩」の働きを意味します(村上68頁参照)。

 

3 我が国民の正しい在り方

 現在の我が国では「国民は,家庭,学校,保育所,地域その他の社会のあらゆる分野において,〔食育基本法の〕基本理念にのっとり,生涯にわたり健全な食生活の実現に自ら努めるとともに,食育の推進に寄与するよう努めるものとする。」との責務が全国民に負わされています(食育基本法13条)。この責務を果たそうと努めない者は非国民であるということになります。しかしながら,「健全な食生活」とは何かということがはっきりしなければ,愛国的国民は一向安心できません。また,「食育の推進に寄与」するためには具体的に何をすべきかが明らかでなくてはなりません。

 

4 第3次食育推進基本計画における具体的目標

 国の食育推進会議による第3次食育推進基本計画(2016年度から2020年度まで)を見てみましょう。

 第3次食育推進基本計画は,その第22において「食育の推進に当たっての目標」を掲げています。そこにある15の見出しは,①食育に関心を持っている国民を増やす,②朝食又は夕食を家族と一緒に食べる「共食」の回数を増やす(この「共食」は,トモグイと読んではいけないのでしょう。),③地域等で共食したいと思う人が共食する割合を増やす,④朝食を欠食する国民を減らす,⑤中学校における学校給食の実施率を上げる,⑥学校給食における地場産物等を使用する割合を増やす,⑦栄養バランスに配慮した食生活を実践する国民を増やす,⑧生活習慣病の予防や改善のために,ふだんから適正体重の維持や減塩等に気をつけた食生活を実践する国民を増やす,⑨ゆっくりよく噛んで食べる国民を増やす,⑩食育の推進に関わるボランティアの数を増やす,⑪農林漁業体験を経験した国民を増やす,⑫食品ロス削減のために何らかの行動をしている国民を増やす,⑬地域や家庭で受け継がれてきた伝統的な料理や作法等を継承し,伝えている国民を増やす,⑭食品の安全性について基礎的な知識を持ち,自ら判断する国民を増やす及び⑮推進計画を作成・実施している市町村を増やす,というものです。

 

1)食育に関心を持っている国民を増やす

 「食育に関心を持っている国民を増やす」との目標については,2015年度においては国民の75パーセントしか食育に関心を持っていなかったところ,2020年度までには90パーセント以上を目指すそうです。最終的には全国民が食育に関心を持たねばならないのです。日本国憲法19条には「思想及び良心の自由は,これを侵してはならない。」などと書いてありますが,食育に係る関心の有無それ自体に限れば,思想でもなければ良心でもないということでしょう。「「思想及び良心」の自由の保障すなわち沈黙の自由の保障の対象は宗教上の信仰に準ずべき世界観,人生観等個人の人格形成の核心をなすものに限られ,一般道徳上,常識上の事物の是非,善悪の判断や一定の目的のための手段,対策としての当不当の判断を含まない」とする長野地方裁判所昭和3962日判決(判時3748頁)を引用しつつ,当該判決の採用する憲法19条の解釈を是とする説があります(佐藤幸治『憲法(第三版)』(青林書院・1995年)485486頁)。

 「食育に関心を持っている国民を増やす」ことにあるいはつながるであろうこのブログ記事を書いている筆者などは,「食育の推進に寄与するよう努め」ている(食育基本法13条)愛国的国民として,お上からほめていただけるものでしょうか。

 

2)朝食又は夕食を家族と一緒に食べる「共食」の回数を増やす

 「朝食又は夕食を家族と一緒に食べる「共食」の回数を増やす」ことについては,当該共食回数を2015年度の現状値週9.7回から2020年度は週11回以上にするそうです。これも将来的には週14回が達成されるべきものでしょう。婚姻の実体意思(真に婚姻をする意思)の内容は「常識的には,ローマで言われていたという「食卓と床をともにする関係」に入る意思といえる」とされており(星野英一『家族法』(放送大学教育振興会・1994年)55頁),更に「ローマ法における最も古い宗教上の婚姻方式は,「パン共用式婚姻(confarreatio)」と称するもので,ローマのパンの最古の形である「ファール(far)」を,儀式的に男女が共同で食した。」とのことですから(オッコー・ベーレンツ=河上正二『歴史の中の民法――ローマ法との対話』(日本評論社・2001年)141頁),我が食育推進会議の婚姻観,ひいては家族観は古代ローマ以来の伝統的なものである,ということになるのでしょう。父たるもの,妻子を食わせるべし。

 

  Pater noster…

       panem nostrum supersubstantialem da nobis hodie

       (secundum Mattheum 6.9, 11)

  父ちゃん・・・腹ペコだからおいらたちのパンを今ちょうだい。

 

3)地域等で共食したいと思う人が共食する割合を増やす

「地域等で共食したいと思う人が共食する割合を増やす」ことについては,当該共食がされる割合を,2015年度の現状値64.6パーセントを2020年度には70パーセント以上にするそうです。「地域や所属するコミュニティ(職場等を含む)」とありますから(下線は筆者によるもの),仕事上の接待での共食も含まれるものと解してよいのでしょう。「家族との共食は難しいが,共食により食を通じたコミュニケーション等を図りたい」お得意さまについて,そのような思いを忖度(そんたく)して差し上げ,料理屋等で接待申し上げるのは,単なる利己的な営利営業活動といったまらないものにとどまるものではなく,我が国における食育の推進に寄与する活動でもあるのでした。

ところで,非婚少子化が進み伝統的家族の減少しつつある我が国においては,将来は,「彼らは共同食堂で共食し,駐屯地の兵士らのような共同生活を行うものとする。」(プラトン『国家』416 e)というところまで行くものかどうか。しかし,食育推進会議もさすがにそこまでは考えてはいないようです。

 

4)朝食を欠食する国民を減らす

「朝食を欠食する国民を減らす」ことについては,朝食を欠食する子供の割合を2015年度の現状値4.4パーセントから2020年度には零パーセントに,朝食を欠食する20歳代及び30歳代の男女の割合を2015年度の現状値24.7パーセントから2020年度には15パーセント以下にするそうです。40歳代以上となれば,朝食は食べなくてもよいようです(反対解釈)。それとも,40歳以上はもはや国民の数には入らないのでしょうか。確かに,40歳を過ぎた臣民には第二国民兵役すらも既にお役御免ではありました(1943111日改正前兵役法(昭和2年法律第47号)92項)。

しかし,そもそも朝食については「〔中世の〕修道院では,ローマ時代の慣習に従い,第9時(nona hora),すなわち午後3時に最も大切なお祈りをしてからその日の唯一の食事をした。〔略〕この時の食事をフランス語ではdéjeunerと言ったのである。ところが,厳しい労働のために,ただ1回の食事では空腹に悩まされることが多く,déjeunerまでに軽い食事をする習慣が生まれ,この食事をフランス語でpetit déjeunersmall breakfast)と呼んだ。今日では一般に「朝食」という意味をもつ。」ということではあったそうです(梅田修『英語の語源事典』(大修館書店・1990年)209頁)。厳格に一日一食をなお守る伝統主義的修道院において祈り,かつ,働く(orant et laborant)清らかな生活を送る若き僧尼らに対して,いやしくも日本国民たる者は必ず朝食を摂るべしと啓蒙・食育することは,信教の自由(日本国憲法20条1項前段)を侵す余計なお世話であるということにはならないのでしょうか。それとも,朝食を摂らないということは,そもそもからして我が国の安寧秩序を妨げることになるのか,臣民たるの義務に背くことになるのか(大日本帝国憲法28条参照)。いずれにせよ,30歳代前半の元肉体労働者系の男性がつい長いこと絶食してふらふらになっているのを見ると,ちゃんと朝から食事をしろよパンでいいからさ(でも石は食べられないよね),と声をかけるのが親切な心というものでしょう。

 

 Et cum jejunasset quadraginta diebus et quadraginta noctibus postea esuriit

   et accedens temptator dixit ei

   si Filius Dei es dic ut lapides isti panes fiant

   qui respondens dixit

   scriptum est

   non in pane solo vivet homo sed in omni verbo quod procedit de ore Dei

   

   vade Satanas

 (secundum Mattheum 4.2-4, 10) 

 

せっかくの親切な声かけに対して,偉い本には何やらが書いてあると理屈で返した上で相手を悪魔(Satanas)呼ばわりすることも,信教の自由の認めるところなのでしょう。

 

5)中学校における学校給食の実施率を上げる

 「中学校における学校給食の実施率を上げる」ことについては,2014年度の実施率現状値87.5パーセントを2020年度には90パーセント以上にするそうです。「栄養バランスのとれた豊かな食事」であり,かつ,「食事について理解を深め,望ましい食習慣を養う」ことのできる素晴らしい学校給食に対して,家人の作った弁当その他の食事はそうではない,ということゆえのようです。そうであればやはり,ちまちまと中学校に限ることはせず,プラトンの理想国ないしは古代スパルタのように,日本国民は全員,共同食堂で学校給食業者の提供する給食を共食することが究極の理想であるということになるようです。

 

更に〔古代スパルタのリュクールゴスは〕最も立派な政策を取り入れた。それは会食の制度である。市民たちは互ひに共通な一定の料理とパンのあるところに集まつて食事し,家で豪奢な臥椅子や食卓に依つて,暗い処で食を貪る獣のように召使ひや料理人の手で肥らされ,性格のみならず身体までも台無しにして,長い眠りや温浴や多くの安息や云はば日毎の看病を必要とするすべての欲望と奢侈に身を委ねるやうなことを許されなかつた。確かにこれは大事業であつた〔中略〕。家で先に食事を済ませて,満腹のまま会食に行くことは許されなかった。他の人々が念入りに見張りをしてゐて,自分たちと一緒に飲みも食べもしないものを,自制力のない,共通の食物を食べようとしない意気地無しだと非難したからである。(河野与一訳『プルターク英雄伝(一)』(岩波文庫・1952年)116117頁)

 

6)学校給食における地場産物等を使用する割合を増やす

「学校給食における地場産物等を使用する割合を増やす」ことについては,学校給食における地場産物(都道府県単位)を使用する割合を2014年度の現状値である26.9パーセントから2020年度には30パーセント以上に,学校給食における国産食材を使用する割合を2014年度における現状値77.3パーセントから2020年度には80パーセント以上にするそうです。「食料安全保障」の観点からは,これらの数字は多々益々弁ず,ということになるのでしょう。最終的には自給自足の江戸時代への復帰が理想,ということなのでしょう。

 

  Edo solum cibum Japonem.

 

   〔前略〕どの国でも食糧は重要なことで,船を使はないやうにその国で賄はねばならんのであります。それが世界の戦争国家の共通的な方法であります。 

   この日本において遠く南洋の天地から何十万トン何百万トンの船を使つて外米を輸入して,その外米を食はなければならんといふ食ひ方ではならんのであります。われわれは玄米でも何でも,無駄のないやうに食はなければならんのであります。国が亡んだら元も子もないのであります。我々は千早城に立て籠つた〔楠木〕正成の様に,畳を食つても生きて行かねばならぬのであります。然も肉がない,魚がないなどと,さういふことをいつて居つて一体この戦争が出来ると思つてゐてよいでせうか。われわれの生活を最小限度に切詰めて,さうしてその輸送力や凡てのエネルギーを,戦争に全部集中しなければならんのであります。〔後略〕

  (奥村喜和男(情報局次長)『尊皇攘夷の血戦』(旺文社・1943年)183184頁)

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 a tatami-eater facing the Imperial Palace, Tokyo


(7)栄養バランスに配慮した食生活を実践する国民を増やす
 「栄養バランスに配慮した食生活を実践する国民を増やす」ことについては,主食・主菜・副菜を組み合わせた食事を12回以上ほぼ毎日食べている国民の割合を2015年度の現状値57.7パーセントから2020年度には70パーセント以上にし,20歳代及び30歳代の男女については2015年度の現状値43.2パーセントから2020年度には55パーセント以上にするそうです。主食は米その他の穀物でしょうが,更に主菜及び副菜とあります。主菜は「魚,肉等」,副菜は「野菜,海藻等」であるようです(第3次食育推進基本計画の第331)注1)。

主食は,米よりも他の雑穀の方が何かとよいようです。

 

  〔前略〕食物を大切ニ可仕(つかまつるべく)候ニ付,雑穀専一ニ候(あいだ),麦(あわ)(ひえ)()大根,其外何に()も雑穀を作り,米を多く喰つ()し候ハぬ様に可仕(つかまつるべく)候,〔略〕大豆の葉あ()きの葉さゝ()の葉大角(ささ)()はまめ科の一年生植物で,さや・種子が食用になります。〕いもの落葉なと,むさとすて候儀ハ,もつたいなき事に候(慶安御触書(慶安二年(1649年)))

 

主菜として,牛肉,馬肉,犬肉,猿肉又は鶏肉を食べる者は,乱臣賊子です。

 

  庚寅,詔諸国曰,自今以後,〔中略〕莫食牛馬犬猿鶏之宍。以外不在禁例。若有犯者罪之。(『日本書紀』(新編日本古典文学全集(小学館・1998年))天武天皇四年(675年)四月庚寅(十七日)条)

  庚寅に諸国に(みことのり)して(のたま)はく,今より以後,〔中略〕牛・馬・犬・猿・鶏の(しし)を食ふこと莫れ。以外は禁例にあらず。し犯す者あらば罪せむ」とのたまふ。

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 乱臣賊子の食物:馬刺しユッケ

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 馬の次は,鹿(「持鹿献於二世曰。馬也。二世笑曰。丞相誤邪。謂鹿為馬。問左右。左右或黙或言馬。以阿順趙高。」『史記』秦始皇本紀)


 我が国では,畏くも天武天皇の詔において許されてある豚肉を食べるべきなのです。

 しかしながら,

    …

 et sus qui cum ungulam dividat non ruminat

    horum carnibus non vescemini nec cadavera contingetis quia inmunda sunt vobis

    (Liber Levitici 11.7-8)

 

豚さんは爪は割れているかもしれないけれども反芻はしないから食べてもいけないし死体に触ってもいけないんだよ,だって(きたな)いんだもーん,などとのたまう理屈っぽいへそ曲がりは,やはり「安寧秩序ヲ妨ケ」る輩でしょう。

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「様々な経験」4:旭川しょうゆ豚丼駅弁


8)生活習慣病の予防や改善のために,ふだんから適正体重の維持や減塩等に気をつけた食生活を実践する国民を増やす

「生活習慣病の予防や改善のために,ふだんから適正体重の維持や減塩等に気をつけた食生活を実践する国民を増やす」については,当該実践を行う国民の割合を2015年度の現状値69.4パーセントから2020年度には75パーセントにし,あわせて食品中の食塩や脂肪の低減に取り組む食品会社の登録数を2014年度の67社から2020年度には100社以上にするそうです。

「適正体重の維持・・・に気をつけた食生活を実践」しさえすればよいので,それでも適正体重を維持できずに「肥満ややせ」になった残念な姿をさらしていても直ちに非国民ということにはならないようです。また,単位ごとに食品中の食塩や脂肪が低減されていればよいので,物足りないなと思ったら,おかわりをして追加摂取すればよいのでしょう。

しかし,塩味であることが畏怖すべき存在との重いお約束になっている場合,そもそも減塩などという罪が赦されるのでしょうか。

 

  quicquid obtuleris sacrificii sale condies

       nec auferes sal foederis Dei tui de sacrificio tuo

       in omni oblatione offeres sal

       (Liber Levitici 2.13)

  上納した食品は何でも塩で味付けすべし。

  お前の親分である恐ろしい御方との契りの塩をお前の上納食品から欠かしてはならぬ。

  全ての貢の食品には塩を加えなければならぬ。

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 後鳥羽院ゆかりの水無瀬神宮(大阪府三島郡島本町)

 もしほやく(あま)もいき 遠島首)


(9)ゆっくりよく噛んで食べる国民を増やす
 「ゆっくりよく噛んで食べる国民を増やす」ことについては,そのような食べ方をする国民の割合を2015年度の現状値49.2パーセントから2020年度には55パーセント以上にするそうです。生きたまま踊り食いをされるシロウオなどは大変でしょう。

“Festina lente”(ゆっくり急げ)をモットーとしていた初代ローマ皇帝アウグストゥスでしたが,死を間近にして,陰鬱な2代目皇帝となるティベリウスに関して曰く。

 

  “Miserum populum R., qui sub tam lentis maxillis erit.”

  (Suetonius, Vita Tiberi 21)

  「あんなに(のろ)い顎で咀嚼されるローマ人は可哀想だ」(国原吉之助訳『ローマ皇帝伝(上)』(岩波文庫・1986年)251頁)

 

10)食育の推進に関わるボランティアの数を増やす

「食育の推進に関わるボランティアの数を増やす」ことについては,食育の推進に関わるボランティア団体等において活動している国民の数を2014年度の現状値である34.4万人から2020年度は37万人以上にするそうです。きっちりとした「食生活改善推進員等のボランティア」のみがカウントされるようなので,このブログ記事などに漫筆を動かすのみの筆者などは員数外です。

 

11)農林漁業体験を経験した国民を増やす

「農林漁業体験を経験した国民を増やす」ことについては,当該経験をした国民(世帯)の割合を2015年度の現状値36.2パーセントから2020年度には40パーセント以上にするそうです。

これは,かつて中華人民共和国にあったという下放運動のようなものでしょうか。

しかし,「農林漁業体験」といっても,農林漁業従事労働者となって働かされるというわけでもなく,また,政策として農林漁業への新規参入が推進されるというわけでもないようです。

 

12)食品ロス削減のために何らかの行動をしている国民を増やす

「食品ロス削減のために何らかの行動をしている国民を増やす」ことについては,当該行動をしている国民の割合を2014年度の現状値67.4パーセントから2020年度には80パーセント以上にするそうです。当該「何らかの行動」には,次のような結果をもたらす食べ方に対してmottainai!と苦情を言うことも含まれるのでしょうか。

  

    et sustulerunt reliquias fragmentorum duodecim cofinos plenos et de piscibus

    (secundum Marcum 6.43)

 〔食後には〕12の大かごにいっぱいのパンのかけら及び魚の残りが取り集められた。

 

13)地域や家庭で受け継がれてきた伝統的な料理や作法等を継承し,伝えている国民を増やす

「地域や家庭で受け継がれてきた伝統的な料理や作法等を継承し,伝えている国民を増やす」ことについては,そのような国民の割合を2015年度の現状値41.6パーセントから2020年度には50パーセント以上にし,そのような20歳代及び30歳代の男女の割合を2015年度の現状値49.3パーセントから2020年度には60パーセント以上にするそうです。

現に存在する「地域や家庭」の「伝統的な料理や作法等」でさえあればたとえどんなものであってもそのまま継承されるべきものなのであって,変によその地域や家庭の真似をして,上品ぶったりかしこぶったりグルメぶったりカッコつけたりするんじゃねぇよ,ということでしょうか。

 

 われわれの子供時代のことを考へても,私は九州の田舎で育ちましたが,生魚といへば御祭の時か,正月に食つた位のものなのであります。簡単な質素な生活であつたのであります。(奥村194頁)

 

「主食であるごはんを中心に,魚,肉等の主菜,野菜,海藻等の副菜,牛乳・乳製品,果物等の多様な副食等を組み合わせた栄養バランスに優れた食生活」こそが「日本型食生活」であるとされていますが(第3次食育推進基本計画の第331)注1),これは,我が国の現実具体の歴史に根差すものではない思弁的構想物であるようです。

なお,「作法等」には「箸使い」が含まれています。しかしながら,魏志倭人伝には「食飲用籩豆手食」とあります。3世紀の倭人は,飲食に(へん)(とう)これは『角川新字源』によれば,「まつりや宴会に用いる器の名。籩は竹製で,果実などをもる。豆は木製で塩などをもる。」というものです。)は用いたものの,食べ方は手づかみ(手食)であったようです。箸を使うということは,我が国独自かつ有史以来連綿の「日本人の伝統的な食文化」というわけではないようです。とはいえ今や,正しく箸を使えぬ者は,非国民なのでしょう。

 

14)食品の安全性について基礎的な知識を持ち,自ら判断する国民を増やす

「食品の安全性について基礎的な知識を持ち,自ら判断する国民を増やす」ことについては,そのような国民の割合を2015年度の現状値72.0パーセントから2020年度には80パーセント以上にし,20歳代及び30歳代の男女については2015年度の現状値56.8パーセントから2020年度には65パーセント以上にするそうです。

12千万国民の3割弱が食品の安全性について基礎的な知識を持たず,又は食品の安全性について自ら判断できないというのですから,我が国においては食中毒が猖獗を極めているということが憂慮されます。しかしながら,厚生労働省のウェブサイトにある2017年の我が国の食中毒統計によると,同年中の食中毒発生件数は1014件で患者数は16464人,死者は3人だったそうです。家庭での食中毒に限ると,件数は100件,患者数は179人,死者2人ということでした。食中毒の発生件数が一番多かった場所は飲食店で598件,死者は1人でした。この数字を大きいと見るべきか,小さいと見るべきか。しかし,死はあってはならないということであれば,3を零にするための資源の投入をためらい,怠るわけにはいきません。人は,長い老後を生き続けねばなりません。

 

  abstulit clarum cita mors Achillem,

       longa Tithonum minuit senectus.

       (Horatius, Carmina 2.16.29)

  輝けるアキレウスを速やかな死が奪った。

  長い老後がティトノスを衰廃させた。

Tithonus
Tithonus in senectute longissima
 

15)推進計画を作成・実施している市町村を増やす

「推進計画を作成・実施している市町村を増やす」ことについては,当該作成・実施市町村の割合を2015年度の現状値76.7パーセントから2020年度には100パーセントにするそうです。食育基本法の文言上は市町村が市町村食育推進計画を作成することは努力義務にとどまるのですが(同法181項),食育の推進という素晴らしいことをすべきときに当たって,「いやこれは努力義務だから,努力しても食育推進計画が出来なければそれはそれでいいんです。」などとつまらぬ理屈を言って抵抗することは許されません。

 

5 「健康美」

食育基本法は一つの美のイデアを前提としています。すなわち,その第19条において,国及び地方公共団体は家庭における食育の推進に関して「健康美に関する知識の啓発」をするものとされているところです。
 しかしながら,この「健康美」のイデアは,なおはっきりしません。(ちなみに,健康の女神であるHygieiaないしはSalusは,容姿云々よりは蛇と一緒ということが特徴です。)

食育基本法案を審議する200546日の衆議院内閣委員会において,小宮山洋子委員が同法案19条に関して「だからそんな,料理教室とか健康美なんということまで,何で基本法でこんなことをやるんですか。」と怒りをこめて質疑したところ,提案者西川京子衆議院議員の答弁は「もちろんこれは一つの例示でありまして,そこに必ず行ってくれと言っているわけではないわけでございまして,あくまでもこれは特定の価値観を国民に押しつけるようなことは毛頭ございません。/そういう中で,やはりこういうメニューがあると,今現実に,そういうアンバランスな食生活をしている子供たちや若い人が大変ふえている現実が目の当たりにあるわけですね。そういう中で,できれば家庭,学校教育の場,そういうところでこういうことにお互いにもうちょっと積極的にかかわる中で,健全な生活を営めるような体づくり,こころの健康性,そういうものについてこういうメニューをそろえますよ,そういう程度と考えていただけたらいいと思います。」と飽くまで低姿勢でした(第162回国会衆議院内閣委員会議録第79頁)。低姿勢のゆえ積極的な定義付けはされていないのですが,少なくとも「健康美」の構成要素としては,「健全な生活を営めるような体」があって,「こころ」も「健康」であるということが含まれているようです。

「肥満」の増加及び「過度の痩身志向」が「問題」とされていますから(食育基本法前文第3項。また,同法20条),肥満者及び過度痩身者は「健康美」ではないということでしょう。しかし,「健康美」ではないからといって美ではないということではないのであって,「特定の価値観」が国民に押し付けられることはなく,「肥満美」及び「過度痩身美」も美としては「健康美」と平等の価値を有するものなのでしょう。実に価値観は様々であって,若くて健康な奴など不愉快だとまでのたまう気難しいおじさんも現に存在します。

 

 友とするにわろき者,七つあり。一つは高くやんごとなき人。二つには若き人。三つには病なく身強き人。四つには酒を好む人。五つにはたけく勇める(つはもの)。六つには虚言(そらごと)する人。七つには欲深き人。(『徒然草』第117段)

 

しかし,まあ,人それぞれです。酒嫌いの草食偏屈タイプは,またその好むように食事をすればよいのです。

 

  Sei guter Dinge, antwortete ihm Zarathustra, wie ich es bin. Bleibe bei deiner Sitte, du Trefflicher, malme deine Körner, trink dein Wasser, lobe deine Küche: wenn sie dich nur fröhlich macht!

(Das Abendmahl) 

 

水しか飲まないのならば仕方がありませんが,葡萄酒は結構なものです。疲労困憊からの急激な回復及び即興的健康。

 

  Wasser taugt auch nicht für Müde und Verwelkte: uns gebührt Wein, --- der erst giebt plötzliches Genesen und stegreife Gesundheit!

 

葡萄酒に羊肉。羊の肉は,天武天皇の禁制にも含まれてはいません。セージで味付けし,根菜及び果実並びに胡桃を添える。

 

  Aber der Mensch lebt nicht vom Brod allein, sondern auch vom Fleische guter Lämmer, deren ich zwei habe:

--- Die soll man geschwinde schlachten und würzig, mit Salbei, zubereiten: so liebe ich’s. Und auch an Wurzeln und Früchten fehlt es nicht, gut genug selbst für Lecker- und Schmeckerlinge; noch an Nüssen und andern Räthseln zum Knacken.

 

そして,陽気な宴会。
 骨つよく足かろき者の健康及び元気を賛美し,たけく勇み,欲深く嘯きます。

 

  Wer aber zu mir gehört, der muss von starken Knochen sein, auch von leichten Füssen, ---

      --- lustig zu Kriegen und Festen, kein Düsterling, kein Traum-Hans, bereit zum Schwersten wie zu seinem Feste, gesund und heil.

   Das Beste gehört den Meinen und mir; und giebt man’s uns nicht, so nehmen wir’s: --- die beste Nahrung, den reinsten Himmel, die stärksten Gedanken, die schönsten Fraun!  

   

  食は人の天なり。よく味はひを調へ知れる人,大きなる徳とすべし。(『徒然草』第122段)




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