1 現行皇室典範の性質問題

 現行皇室典範(昭和22年1月16日法律第3号。昭和24年法律第134号1条により一部改正(第28条2項及び第30条6項中「宮内府」を「宮内庁」に改める。))に関して,日本国憲法2条は「皇位は,世襲のものであつて,国会の議決した皇室典範の定めるところにより,これを継承する。」と規定しています。英語文では,“The Imperial Throne shall be dynastic and succeeded to in accordance with the Imperial House Law passed by the Diet.”となっています。

 「皇位ノ継承ハ世襲ニシテ国会ノ制定スル皇室典範ニ依ルヘシ」と外務省によって訳され,1946年2月25日の閣議に仮訳として配布された同月13日のGHQ草案2条の当該日本語訳文言(佐藤達夫著=佐藤功補訂『日本国憲法成立史 第三巻』(有斐閣・1994年)18頁,33, 68 頁)と,日本国憲法2条の文言とはほぼ同じです。ただし,GHQ草案2条の原文は“Succession to the Imperial Throne shall be dynastic and in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact.” であって(国立国会図書館ウェッブ・サイト電子展示会の「日本国憲法の誕生」における「資料と解説」の「3‐15 GHQ草案 1946年2月13日」参照),“such Imperial House Law as the Diet may enact.”の部分などが日本国憲法2条の英語文と異なります。

 今回は,日本国憲法2条にいう「国会の議決した皇室典範(the Imperial House Law passed by the Diet)」の法的性質をめぐる問題について,GHQ民政局における動きなどを見ながら,若干考えてみたいと思います。時間的には,帝国議会に提出された1946年6月20日の帝国憲法改正案作成の頃までの出来事が取り上げられます。

 

2 用語について

 議論に入る前に,用語法を整理しておきましょう。

 単に皇室典範という場合は,法形式の一たる皇室典範をいうことにします。大日本帝国憲法が発布された1889年2月11日の明治天皇の告文には「茲ニ皇室典範及憲法ヲ制定ス」とあり,そこでは皇室典範は,憲法と並び立つ独立の法形式と解されていたわけです。

 今回の主題である日本国憲法2条にいう「皇室典範」は,そもそもその法的性質が論じられているわけですから,そこから括弧を外すわけにはいきません。

 「皇室典範」という題名の昭和22年法律第3号は,「現行皇室典範」ということにします。

1889年2月11日の「皇室典範」という題名の皇室典範(公布はされず。)は,以下「明治皇室典範」ということにします。

明治皇室典範並びに1907年2月11日公布(公式令(明治40年勅令第6号)4条1項)の「皇室典範増補」という題名の皇室典範及び19181128日公布の「皇室典範増補」という題名の皇室典範を総称して,以下「旧皇室典範」ということにします。

 

3 GHQ草案2条成立までの経緯

1946年2月13日のGHQ草案2条の成立までの経緯を見て行きましょう。

 

(1)大日本帝国憲法2条及びその英語訳文

まずは,1889年2月11日に発布された大日本帝国憲法2条の条文から。

 

第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス

 

大日本帝国憲法2条の英語訳(伊東巳代治によるもの)は,次のとおりです(Commentaries on the Constitution of the Empire of Japan(中央大学・1906年(第2版))。同書は『憲法義解』の英語訳本です。)。

 

ARTICLE II

The Imperial Throne shall be succeeded to by Imperial male descendants, according to the provisions of the Imperial House Law.

 

ここでのImperial House Lawは,それだけではImperial-House Law(皇室に関する国法たる法律)なのか Imperial House-Law(皇室の家法)なのか解釈が分かれそうですが,これについては後者である旨明らかにされています。

 

…This law [the Imperial House Law, lately determined by His Imperial Majesty] will be regarded as the family law of the Imperial House.

(新たに勅定する所の皇室典範に於て之を詳明にし,)以て皇室の家法〔family law〕とし・・・

 

なお,ここで,“the Imperial House Law”と単数形となっていることについては,1887年4月30日に成立したロエスレルの「日本帝国憲法草案」に関して,「第16条第2項〔„Die Kaiserlichen Hausgesetze bedürfen nicht der Zustimmung des Reichstags; jedoch können durch sie die Bestimmungen der Verfassung nicht abgeändert werden.“〕の「帝室家憲」はDie Kaiserlichesic Hausgesetzeと複数形で述べられている。それは単一の成文法ではなく,たとえば皇位継承にかんする帝室の家法,摂政設置にかんする家法等々,複数のものがありうることを意味するが,〔伊藤博文編『秘書類纂』中の〕邦訳文は単数形,複数形を区別せず,右のように〔「帝室家憲ハ国会ノ承諾ヲ受クルヲ要セス但此レニ依テ憲法ノ規定ヲ変更スルコトヲ得ス」と〕訳した。後に皇室典範が単一の成文法とされたことに,この邦訳もまた一の役割を果たしたと言える。」との小嶋和司教授の評(小嶋和司「ロエスレル「日本帝國憲法草案」について」『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)4頁,1213頁,58頁)が想起されます。単数複数を区別しない日本語訳から明治皇室典範は単一の成文法とされ,それが英語訳にも跳ね返って来た,ということになるようです。この点,日本国憲法2条の「皇室典範」に関して,当該「皇室典範」は単一の成文の法律であることまでを憲法は要求しているのだという解釈が広く存在していることは周知の事実です。しかし,前記GHQ草案2条のsuch Imperial House Lawは,「皇室典範」であって「皇位継承に関する」もの,という意味でしょうから,GHQは「皇室典範」は単一の成文法でなければならないとまでは要求していなかったと考えてよいようです。

大日本帝国憲法劈頭の第1条(「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」)の伊東巳代治による英語訳は,次のとおりです。

 

 ARTICLE I

 The Empire of Japan shall be reigned over and governed by a line of Emperors unbroken for ages eternal.

 

「統治ス」といってもreignの部分とgovernの部分とがあるわけです。『憲法義解』(筆者は1940年の宮沢俊義校註の岩波文庫版を使用しています。)における当該部分の説明は,「統治は大位に居り,大権を統べて国土及臣民を治むるなり。」となっています。伊東巳代治の英語訳では,By “reigned over and governed” it is meant that the Emperor on His Throne combines in Himself the sovereignty of the State and the government of the country and of His subjects.”と敷衍されています。天皇は皇位にあって国家の主権並びに国土及び臣民に係る政治ないしは国政(government)をその一身にcombineするもの,とされているので,天皇が政治ないしは国政を直接行うということではないようです。

以上の大日本帝国憲法及び『憲法義解』の英語訳文は,1946年2月に日本国憲法の草案作りに携わったプール少尉らGHQ民政局の真面目かつ熱心な知日派の米国人たち(「「知日派の米国人」考」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1000220558.html参照)は当然読んでいたところです(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川文庫・2014年(単行本1995年))128頁参照)。(なお,「日本国憲法4条1項及び元法制局長官松本烝治ニ関スル話」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1065184807.htmlも御参照ください。)

 

(2)プール少尉らの天皇,条約及び授権委員会案

 

ア 案文

プール海軍少尉及びネルソン陸軍中尉を構成員とするGHQ民政局の天皇,条約及び授権委員会(Emperor, Treaties and Enabling Committee)が同局の運営委員会(ケーディス陸軍大佐,ハッシー海軍中佐及びラウエル陸軍中佐並びにエラマン女史)に1946年2月6日に提出したものと考えられる(“1st draft”と手書きの書き込みがあります。)皇位の継承に関する憲法条項案は,次のようになっていました(「日本国憲法の誕生」の「3‐14 GHQ原案」参照)。

 

     Article II. The Japanese Nation shall be reigned over by a line of Emperors, whose succession is dynastic. The Imperial Throne shall be the symbol of the State and of the Unity of the People, and the Emperor shall be the symbolic personification thereof, deriving his position from the sovereign will of the People, and from no other source.

Article III. The Imperial Throne shall be succeeded to in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact.

 

第2条にdynastic云々が出て来るのは,同月2日ないしは3日に決定された「マッカーサー・ノート」の第1項の第2文に“His [Emperor’s] succession is dynastic.”とあったからと解されます(鈴木24頁,35頁)。米国人は横着ではなく,真面目なので,上司をしっかり立てます。

“The Japanese Nation shall be reigned over by a line of Emperors ”“The Imperial Throne shall be succeeded to”の表現など,伊東巳代治のCommentaries on the Constitution of the Empire of Japanの影響が歴然としています。

「日本(The Japanese Nation)ハ,dynasticニ皇位ヲ継承スル一系の天皇(a line of Emperors)之ニ君臨ス(reign over)。」ということのようですから,プール少尉らは,dynasticであるということは「万世一系」と親和的であるものと理解したということでしょうか。

 

明治の俳人・内藤(めい)(せつ)の「元日や一系の天子不二の山」は,絶世の名吟として知る人ぞ知る,であるらしい。〔中略〕この句は,三つの象徴を並べて日本人の感性の特色を浮び上がらせ,そしてそのことにおいて,みごとに成功している,と理解できる。(奥平康弘『「萬世一系」の研究(上)』(岩波現代文庫・2017年(単行本2005年))2頁)

 

代々日本に縁の深い一族の一員として関東大震災前の横浜に生まれた「知日派の米国人」たるリチャード・プール少尉(本職は外交官)の面目躍如というべきでしょうか。Dynasticのみにとどまることなく,日本人の琴線に触れる「一系ノ天皇(天子)」との表現を加えてくれました。(同少尉の人柄については,GHQ民政局における同僚であったベアテ・シロタ・ゴードン女史による「プールさんも,日本人の天皇に対する気持ちを知っていただけでなく,もともと保守的な人でした。ですから始めのころの草稿などは,明治時代の人も喜ぶくらい保守的でしたね」との証言があります(鈴木127頁)。)ただし,「万世」(unbroken for ages eternal)一系となるかどうか,将来のことには留保がされて,単なる「一系」となったわけです(この辺は,大日本帝国憲法の制定に向けて,「ロェスラーは,滅びるかも知れない天皇制に,未来永劫続くかの如き「万世一系」という表現を用いることに反対し,未来に言及しない「開闢以来一系」という用語を提案したが,これは問題にされなかった。」という挿話(長尾龍一「明治憲法と日本国憲法」『思想としての日本憲法史』(信山社・1997年)10頁)を想起させるところがあります。)。

 

なお,「万世一系」ということの意味は,「〈天皇の統治は(あま)(てらす)大神(おおみかみ)をはじめとする皇祖皇宗の神勅に由来するものであって,その神勅は子々孫々が皇位に就き,日本国(葦原之(あしはらの)瑞穂(みずほ)(のくに)を王として治むべしと命じているとして,神々のお告げにもとづき,神々につながる子々孫々がこの国を支配することを正当化した。このばあい,神々の系統につながる子孫が一本の糸のようにずっと続いているということに,なによりものポイントが置かれた。(奥平56頁)というようなことでよろしいでしょう。

 

ただし,エラマン・ノートによると,1946年2月6日の会議において運営委員会はreignの語の使用に反対しており,そのゆえでしょうが“The Japanese Nation shall be reigned over by a line of Emperors, whose succession is dynastic.”の文は削られ,マッカーサー元帥由来の大事なdynasticの語はその後次の条に移ることになります。当該会議においてラウエル中佐は「日本語では“reign” “govern”の意味をも含意する。」と指摘していますから,「reign=統治」と翻訳されることを警戒したのでしょう。プール少尉らとしては,「マッカーサー・ノート」の第1項第1文の“Emperor is at the head of the state.”をそのまま生かして,“A line of Emperors, whose succession is dynastic, shall be at the head of the Japanese State.”とでもすればよかったものか。

 

イ 訳文及びその前提

 

(ア)訳文

天皇,条約及び授権委員会の第1案の前記両条項の拙訳は,次のとおり。

 

第2条 日本ハ,皇室ニアリテ皇位ヲ世襲スル(dynastic)一系ノ天皇之ニ君臨ス。皇位ハ国家及ビ人民統合ノ象徴デアリ,天皇ハ其ノ象徴的人格化(symbolic personification)デアル。天皇ノ地位ハ,人民ノ主権意思(sovereign will)ニ基ヅキ,他ノ源泉(source)ヲ有サズ。

第3条 皇位ノ継承ハ,国会ノ制定スルコトアル皇室典範ニ代ルベキ法律(Imperial House Law)ニ従フモノトス。

 

訳をつける以上は,当然その前提となる解釈があります。

 

()Dynastic”:王朝

まず,通常単に「世襲」と訳されるdynasticですが,「皇室ニアリテ皇位ヲ世襲スル」というぎこちない訳としました。Dynasticに係る小嶋和司教授の次の指摘に得心してのことです。確かに,単なる“hereditary”ではありません。

 

  〔前略〕いわゆる「マカーサー・ノート」は次の内容をもっている。

  「The Emperorは,国の元首の地位にある。His successiondynasticである。」

  皇位就任者を男性名詞・男性代名詞で指示するほか,その継承をdynasticであるべきものとしていることが注目される。それは,立憲君主制を王朝支配的にとらえ,現王朝(dynasty)を前提として,王朝に属する者が王朝にふさわしいルールで継承すべきことを要求するものだからである。これは,王朝形成原理の維持を要求するとは解せても,その変更を要求するとは解しえない。(小嶋和司「「女帝」論議」『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』(木鐸社・1988年)64頁。下線は筆者によるもの)

 

  しかし,王朝(dynasty)交替の歴史をもたず,現王朝所属者の継承を当然とする日本の政府当局者は,右のdynasticを,たんに「世襲」と訳して,現行憲法第2条にいたらしめた。皇室典範も現王朝を無言の前提として,その第1章を「皇位継承」とし,「王朝」観念がその後の憲法論に登場することもなかった。(小嶋「女帝」65頁)

 

  〔前略〕比較法的および歴史的に十分な知識を思考座標として「世襲」制の要求をみるとき,それは単に世々襲位することではなく,継承資格者の範囲には外縁があるとしなければならない。単なる財産相続や芸能家元身分の「世襲」にも,資格要件の外縁は存するのである。ここに思いいたるとき,憲法第2条は「王朝」形成原理を無言の前提として内包しているとなすか,それとも「国会の議決した皇室典範」はそれをも否認しうるとなすかは憲法論上の問題とすべきものである。(小嶋「女帝」65頁。下線は筆者によるもの)

 

上記小嶋教授の議論は,男女不平等撤廃条約との関係における1983年当時の国会における議論に触発されて,「憲法思考の結論如何によっては,立法論として賢明ともおもえぬ女帝制しか許さぬものとなることを指摘して問題提起」されたものですので(小嶋「女帝」65頁),「女帝」とその(皇族ではない)皇配との間の子らに係る皇位継承権に関する「王朝形成原理」等が主に問題として取り上げられています。しかしながら,皇位を「王朝にふさわしいルールで継承すべきこと」をも日本国憲法2条の「世襲」の語は要求しているのではないか,という指摘は深い意味を有するものと考えられるところです。皇位継承のルールは当然継承原因をも含むものでありますが,当該継承原因は,「支配王朝」たるdynasty(小嶋「女帝」58頁参照)の家長にふさわしい尊厳あるものたるべきでしょう。「憲法が世襲的天皇制を規定するのは,伝統的なものの価値を尊重して」であるとすれば(小嶋「女帝」62頁参照),皇位継承原因についても伝統が尊重されるべきでしょう。国民の側の自意識(敬愛,理解・共感)による決定は,伝統の尊重というよりはむしろ,国民主権の日本国憲法によって天皇制に係る「正統性の切断」があったものとする論(小嶋「女帝」6163頁参照)に棹さすものでしょう。「日本国は,長い歴史と固有の文化を持ち,国民統合の象徴である天皇を戴く国家」でありますところ(自由民主党「日本国憲法改正草案」(2012年4月27日)前文),当該言明を素直に順序どおり読み下すと,皇位継承原因を含む天皇に関する制度はせっかくの「長い歴史と固有の文化」を尊重し,かつ,そこに根差したものであるということが憲法上の要請となるのではないでしょうか。

なお,辞書的には,英語のdynastyについては“series of rulers all belonging to the same family: the Tudor dynastyとあり(Oxford Advanced Learner’s Dictionary of Current English, 4th edition, 1989),フランス語のdynastieについては“succession des souverains d’une même famille. Le chef, le fondateur d’une dynastie. La dynastie mérovingienne, capétienne.”とあります(Le Nouveau Petit Robert, 1993)。家(皇室,family, famille)こそが鍵概念となるようです。

ここでの家は単なる自然的な存在ではなく,同時に法的な存在でしょう。それではそこでの法はどのようなものか。上杉慎吉の述べるところによれば,ヨーロッパの中世にあっては「一家の私事を定るの法」であったそうです(上杉慎吉『訂正増補帝国憲法述義 第九版』(有斐閣書房・1916年)259頁)。「一家の私事を定るの法」であるのならば,本来的には王室の自ら定める家法であったのでしょう。
 ちなみに,ドイツ人ロエスレルの前記「日本帝国憲法草案」
12項は,„Die Krone ist erblich in dem Kaiserlichen Hause nach den Bestimmungen der Kaiserlichen Haus-gesetze.“(「帝位ハ帝室家憲ノ規定ニ従ヒ帝室ニ於テ之ヲ世襲ス」)と規定していました(小嶋「ロエスレル」1011)。

ところで,家といえば民法旧規定ですが,民法旧規定には,隠居制度というものがありました。隠居においては,隠居する本人の意思表示が要素でした(民法旧757条は「隠居ハ隠居者及ヒ其家督相続人ヨリ之ヲ戸籍吏ニ届出ヅルニ因リテ其効力ヲ生ス」と規定)。民法旧754条2項には「法定隠居」の規定がありましたが,これは「戸主カ隠居ヲ為サスシテ婚姻ニ因リ他家ニ入ラント欲スル場合ニ於テ戸籍吏カ其届出ヲ受理シタルトキ」に生ずるものであって,やはり本人の何らかの意思表示(この場合は他家に入る婚姻をする意思表示)に基づくものでした。

ちなみに,隠居も天皇の譲位のように,浮屠氏の流弊より来由するところがあるようで,「もっとも,隠居は日本に固有の制度というわけでもなく,中国から継受され,かつ,仏教の影響を受けているとされる。「『功成り名を遂げて身を退く』を潔しとする支那流の考へ」と「老後には『後生願ひ』を専一とする仏教的宗教心」とが隠居の風習を生み出したという」と,穂積重遠の著書から引用しつつ大村敦志教授が紹介しています(大村敦志『民法読解 親族編』(有斐閣・2015年)362頁)。

民法旧規定においては廃位のごとき戸主の強制隠居というものはあったのか否かといえば,答えは否でした。1925年の臨時法制審議会決議「民法親族編中改正ノ要綱」の第10にあった「廃戸主」の制度(「一 戸主ニ戸主権ヲ行ハシムベカラザル事由アルトキハ家事審判所ハ戸主権ノ喪失ヲ宣告スルコトヲ得ルモノトスルコト但事情ニ依リ之ニ相当ノ財産ヲ与フルコトヲ得ルモノトスルコト」)は採用されずに終わりました。臣民においては,本人の意思表示に基づかぬ隠居というものはないものとされていたわけです。

 

(ウ)「君臨ス」

 天皇,条約及び授権委員会の第1案の第2条には,reigned overとのみあって,governedは含まれていません。したがって,大日本帝国憲法1条の英語訳との対比でも,「統治ス」とまではいえないところです。大日本帝国憲法1条では“Rex regnat et gubernat.”であったのを“Rex regnat, sed non gubernat.”に改めるわけですから,「国王は,君臨すれども統治せず。」ということで,「君臨ス」の語を用いました。ちなみに,『憲法義解』の大日本帝国憲法1条の説明では,「所謂『しらす』とは即ち統治の義に外ならず。」とされています。「統治」は,大日本帝国憲法制定作業当時の新語であったようです(島善高「井上毅のシラス論註解」『明治国家形成と井上毅』(木鐸社・1992年)291292頁参照)。(なお,“Le roi règne, mais il ne gouverne pas.”とは,ティエール(L.A. Thière, 1797-1877)によって初めて述べられたとされています(小嶋和司「「政治」と「統治」」『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』395頁)。)

 

(エ)「天皇ノ地位ハ,人民ノ主権意思ニ基ヅキ」

 1946年2月13日のGHQ草案1条は“The Emperor shall be the symbol of the State and of the Unity of the People, deriving his position from the sovereign will of the People, and from no other source.”であって,その外務省訳は「皇帝ハ国家ノ象徴ニシテ又人民ノ統一ノ象徴タルヘシ彼ハ其ノ地位ヲ人民ノ主権意思ヨリ承ケ之ヲ他ノ如何ナル源泉ヨリモ承ケス」となっていました。

ところで,最終的には現行日本国憲法1条は「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く。」(The Emperor shall be the symbol of the State and of the unity of the people, deriving his position from the will of the people with whom resides sovereign power.)となっており,その結果,同条のみから発して直ちに, 国民の意思(ないしは総意)すなわちthe will of the peopleの発現たる国会制定法をもって天皇を廃立することも可能とするかのごとき解釈が一部で採られるに至っているようでもあります。しかしながら,GHQの考えでは天皇の地位を人民の主権意思(the sovereign will of the people)に基づかせていたところ,当該主権意思の発動は,憲法改正という法形式でされるものと想定されていたはずです。日本国憲法1条のみから発して直ちに, 日本の人民(より正確には国会議員の多数)が単なる法律をもって天皇を廃立することを可能にするに至るという解釈には,泉下のマッカーサーも瞠目することでしょう。「押し付け憲法」といわれますが,GHQはそこまで押し込んではいなかったつもりのはずです。

 

(オ)「国会ノ制定スルコトアル」:皇室自律主義と国会の立法権の範囲との関係

ところで,プール少尉らが Imperial House Lawを単なる法律,すなわちImperial-House Lawだと思っていた,ということはないでしょう。そう思っていたのなら,lawが日本国憲法下の国会によってenactされることは当り前のことですから,“as the Diet may enactという文言は出てこないはずです。やはりプール少尉らは大日本帝国憲法の伊東巳代治による英語訳を読んでおり,皇室典範と同じ語であるということを意識しつつ,“ Imperial House Law”の語を用いたと解すべきでしょう。奥平康弘教授は,「〔GHQの案に現れる“ Imperial House Law”を「皇室典範」と〕翻訳しなければならない理由はまったく無かったはずである。この文脈における“ Imperial House Law”なることばは,特定(﹅﹅)具体的(﹅﹅﹅)()なにものかをコノート(内容的に指示)しているのではなくて,「皇室法」あるいは「皇室に関する法律などを意味する一般名辞以外のなにものでもない。」,「文章作成者からみれば,どのみちここでは,当該法律の規律対象は,“ Imperial House”であるに決まっているのだから,ただ“law”とするよりも,特定内容をこめた形で“ Imperial House Law”とすることを良しとみただけのことだと思われる。」と熱弁をふるっておられますが(奥平57頁,98頁),どうでしょうか。

若きプール少尉は,日本国憲法案に内大臣及び宮内大臣という宮務大臣の規定まで書き込もうとして運営委員会の大人組から叱られていますが,内大臣及び宮内大臣は,皇室典範の世界における主要登場人物であったものです(1946年2月6日の当該会議については「「知日派の米国人」考」参照)。すなわち,皇室典範の改正及び皇室令の上諭にまず副署するのは宮内大臣であり(公式令4条2項,5条2項),宮内大臣を任ずるの官記に副署し,及び免ずるの辞令書を奉ずるのは内大臣であり(同令14条2項,15条2項),皇族会議に枢密院議長,司法大臣及び大審院長と共に参列するのは内大臣及び宮内大臣でした(明治皇室典範55条。なお,同条によれば,現行皇室典範の皇室会議とは異なり,内閣総理大臣及び議院の議長副議長は皇族会議に参列せず。)。また,宮内省官制及び内大臣府官制は,いずれも皇室令(公式令5条1項参照)とされています(それぞれ明治40年皇室令第3号及び明治40年皇室令第4号)。皇室典範と同じ語である“ Imperial House Law”の語をそれとして意識して使用したことこそが,内大臣及び宮内大臣の任命に係る規定の憲法における必要性にプール少尉が思い至った理由の一つだったとも考え得るのではないでしょうか。

そうであれば天皇,条約及び授権委員会の第1案の第3条における“ Imperial House Law”は単に「皇室典範」と訳されるべきものであったのであって,拙訳において「皇室典範ニ代ルベキ法律」とくどくど訳されているのはおかしい,と御批判を受けることになるかもしれません。しかしながら,「皇室典範」の語のみでは法形式としての皇室典範との紛れが生ずるようで,いかにも落ち着かなかったところです。

とはいえ,GHQの係官らは“ Imperial House Law”の語を皇室典範と同じ語だと知っていて使用していたはずであるとの推測に筆者がこだわるのは,“ Imperial House Law”が「皇室典範」とも「皇室法」とも訳し得ることから,あるいは無意識のうちに一種のjeu de mots(言葉のあそび)がここに仕掛けられていたのだろうと思うからです。その仕掛けを解いて,天皇,条約及び授権委員会の第1案の第3条を敷衍して訳すると次のとおりとなります。

 

第3条 皇位ノ継承ハ,皇室典範(Imperial House Law)ノ定ムル所ニ依ル(according to)。但シ,国会ガ皇室典範ニ代ルベキ法律(Imperial House Law)ヲ制定シタルトキハ,当該法律ニ従フモノトス(in accordance with)。

 

問題は,“such Imperial House Law as the Diet may enact”における助動詞mayにありました。Shallではなくmayでありますので,これでは国会(日本国憲法下の国会であって,天皇の立法権に対する協賛機関である帝国議会(Imperial Diet)とは考えられてはいなかったでしょう。)が,Imperial House Lawを制定するようでもあり,しないようでもあり,それではImperial House Lawを国会が制定しないうちに崩御があったならばその際拠るべき皇位継承の準則が無くて困るではないか,というのが筆者の当初覚えた困惑でした。(英語文では“as may be provided by law”(ここでもmay)となっている日本国憲法4条2項の「法律」たる国事行為の臨時代行に関する法律(昭和39年法律第83号)が制定されたのは,日本国憲法の施行から17年たってからのことでした。)

前記のとおり,1946年2月13日のGHQ草案2条(Succession to the Imperial Throne shall be dynastic and in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact. )が外務省によって「皇位ノ継承ハ世襲ニシテ国会ノ制定スル皇室典範ニ依ルヘシ」と訳されているように,一般の日本語訳ではこのmayは無視されています。無視して済むのならそれでよいのでしょうが,それでは,一般の空気を読むとの大事に名を借りた,怠惰ということにはならないでしょうか。

従来の上記のような日本語訳では,元のGHQ草案の英文が“Succession to the Imperial Throne shall be dynastic and in accordance with the Imperial House Law enacted by the Diet.となるようで,快刀乱麻を断ち過ぎた訳ではないかとはかつて筆者が悩んだところです。「皇位ノ継承ハ世襲テアリ且ツ国会ノ制定スルコトアル皇室法ニ従フモノトス」という訳を考えてみたところでした(「続・明治皇室典範10条に関して:高輪会議再見,英国の国王退位特別法,ベルギーの国王退位の実例,ドイツの学説等」参照)。とはいえ,こう訳しただけではなお,「皇室法」制定前に崩御があったときに係る問題は残ってしまうところでした。

当該困惑を筆者なりに解消できたのは,1946年2月22日の松本烝治憲法担当国務大臣とホイットニーGHQ民政局長らとの会談に係る次の議事録(エラマン女史作成)に接したことによります(「日本国憲法の誕生」の「3‐19 松本・ホイットニー会談 1946年2月22日」参照。日本語訳は拙訳)。

 

Matsumoto:  Is it essential that the Imperial House Law be enacted by the Diet? Under the present Japanese Constitution the Imperial House Law is made up by members of the Imperial Household. The Imperial Household has autonomy.

(松本: 「皇室典範」は国会によって制定されるべきだということは必須なのでしょうか。現在の日本の憲法の下では,皇室典範は,皇室の成員によって作成されます。皇室は,自律権を有しているのです。)

 

General Whitney:  Unless the Imperial House Law is made subject to approval by the representatives of the people, we pay only lip service to the supremacy of the people.

(ホイットニー将軍: 「皇室典範」が人民の代表者たちの承認に服するようにならなければ,我々は人民の至高性に対してリップサービスをしただけということになります。)

 

Col. Kades:  We have placed the Emperor under the law, as in England.

(ケーディス大佐: 我々は,イングランドにおけると同じように,天皇を法の下に置いたのです。)

 

Col. Rowell:  At present the Imperial House Law is above the Constitution.

(ラウエル中佐: 現状では,皇室典範は憲法の上にありますね。)

 

General Whitney:  Unless the Imperial House Law is enacted by the Diet the purpose of Constitution is vitiated. This is an essential article.

(ホイットニー将軍: 「皇室典範」が国会によって制定されるのでなければ,憲法の目的は弱められたものとなります。これは,必須の条項です。)

 

Matsumoto:  Is this, control of the Imperial House Law by the Diet, a basic principle?

(松本: 国会による「皇室典範」のコントロールは,基本的原則なのですか。)

 

General Whitney:  Yes.

(ホイットニー将軍: そうです。)

 

「「皇室典範」」と括弧付きで訳した語は,括弧なしの「皇室典範」(皇室典範)と訳すべきか,「皇室典範ニ代ルベキ法律」(法律)と訳すべきか決めかねた部分です。(なお,奥平康弘教授は「1946年2月22日における松本烝治らとホイットニーら民(ママ)局員とのあいだの意見交換にあっては,「皇室典範」という語によって意味する中身に彼此双方のあいだで大きな違いがあることが,ついに顕在化しないまま終始したように思う。」と述べておられますが(奥平101102頁。また,5758頁,99頁),上記ラウエル中佐の発言などからは,民政局側は“Imperial House Law”が皇室典範と解されることも,皇室典範の法的性質も理解していたように思われます。この点,同教授は,「私の解明は憲法・皇室典範改正の監視役を務めたマッカーサー司令部(GHQ)の担当係官のうごきなどについて,詰めが甘いといったような弱みがある」とは自認されていたところです(奥平1617頁)。)

それはともかく,筆者にとって助け舟になったのは,ケーディス大佐の「イングランドにおけると同じように」発言でした。なるほど,王室制度に関して英米法系の法律家連中の考えていることを知るには,イギリス(イングランド及びウェイルズ)法史に当たるべし。

 

〔イギリスの〕国会主権の原理は,〔略〕長い期間をかけて徐々に成立したものである。従って,その端緒は,16世紀に見出される。とくに,1530年代の宗教改革は,それまで国会の権限外だと考えられていた大問題が,国会の立法という形で解決された例として注目される。〔中略〕その後も,国会の立法権が事項的に無制限であるという考え方は,一般の考えではなかった。とくに王位継承権の問題など王室に関する事項は,国会のタッチすべき事項でないと考えられていたのである。〔1689年の〕Bill of Rights, 1701年の〕Act of Settlementによって初めて,国会の立法権が事項的に無制限であるということが,確立されるのである。(田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会・1980年)137138頁。下線は筆者によるもの)

 

皇位継承等に関する事項は元来自律権を有する皇室の立法権下のみにあり,皇室典範によって規定されていたものであるが,オレンジ公ウィリアムが168811月オランダから上陸したイギリスにおける名誉革命に匹敵する日本における1945年の「八月革命」の下,米国から上陸せられたマッカーサー元帥の親身の御指導による日本国憲法の制定によって,臣民の代表機関たる国会の立法権も当該旧来の皇室典範事項に及び得るようになるのだ,という意味が“as the Diet may enact”には込められていたのだと解釈すれば,筆者としては一応納得できたところです。

無論,国会の立法権が及ぶからとて直ちに法律を制定しなくてはならないわけではなく,その間は従来の皇室の家法の適用が認められるということだったのではないでしょうか。GHQとしては,皇位継承に関する事項については皇室の自律権及び国会の立法権の競合を認めつつ,その際国会の立法権を優位に置いたということだったのではないでしょうか。(しかし,あるいはこれは,王朝の家法の効力に関して,dynastic概念の射程を拡張し過ぎた解釈ということになるのかもしれません。)

なお,明治皇室典範案に係る枢密院会議のために用意された「皇室典範義解草案 第一」には明治皇室典範62条(「将来此ノ典範ノ条項ヲ改正シ又ハ増補スヘキノ必要アルニ当テハ皇族会議及枢密顧問ニ諮詢シテ之ヲ勅定スヘシ」)に対応する説明の「附記」として,次のようにありました。

 

欧洲ノ或国ニ於テ(英国)王位ノ世襲ハ議会ノ制限ニ従属スルモノトシ,議会ニ於テ屢々其ノ法ヲ変革シ,終ニ国王ト議会トノ主権〔“King in Parliament”のことでしょう(田中140頁参照)。〕ヲ以テ王位継承法ヲ制定スルコト能ハズトノ説ヲ主張スル者ハ之ヲ逆罪ト為シタリ(女王「ア(ママ)ン」ノ時),此ノ主義ニ依ルトキハ王位ノ空缺ハ議会以テ之ヲ補填スベク,王位ノ争議ハ議会以テ之ヲ判決スベク(1688年ノ革命),而シテ議会ハ独リ王位世襲ヲ与奪スルノ権アリト謂フニ至ル(「チヤルス」第2世ノ末下院ノ決議〔1679年に下院がカトリック教徒である後のジェイムズ2世を王位継承から排除する法案(Exclusion Bill)を通過させたのに対してジェイムズの兄であるチャールズ2世が下院を解散し,翌年も同様の法案が提出されたが上院で否決されたというExclusion Crisisのことでしょう(田中134135頁)。〕),抑モ大義一タビ謬マルトキハ冠履倒置ノ禍,何ノ至ラザル所ゾ,故ニ我ガ皇室典範ノ憲法ニ於ケル其ノ変更訂正ノ方法ヲ同ジクセザルハ,我ガ国体ノ重キ之ヲ皇宗ニ承ク,而シテ民議ノ得テ左右スル所ニ非ザレバナリ。(伊藤博文編・金子堅太郎=栗野慎一郎=尾佐竹猛=平塚篤校訂『帝室制度資料 上巻』(秘書類纂刊行会・1936年)132133頁)

 

 「王位ノ世襲ハ議会ノ制限ニ従属スルモノトシ」なので,イギリス議会といえども,いわば王位の世襲を外から制限することはあっても,王位世襲の内側に立ち入った介入はしないということでしょうか。

名誉革命でジェイムズ2世に勝利した議会側も,あえて同王を積極的に廃位することはなく,グレゴリオ暦1689年2月7日(なお,当時のイギリスの暦では同日は1688January28日とされていました。)に国民協議会(Convention Parliament)が王位の空位を宣言したところです。すなわち,権利章典において,「前国王ジェイムズ2世は,政務を放棄し,そのため王位は空位となった」と述べられているところであって(田中英夫訳『人権宣言集』(岩波文庫・1957年)81頁),これは黙示の意思表示による退位という構成なのでしょう。高齢となったので,国王としての活動を今後自ら続けることが困難となることを深く案じているくらいでは,まだ退位の(黙示の)意思表示があるとはいえないのでしょう。

(カ)「従フモノトス」:「定ムル所ニ依ル」との相違

 日本国憲法2条では「定めるところにより」と「訳」されている英語文の“in accordance with”は,「従フモノトス」としました。「定めるところにより」は,恐らく大日本国帝国憲法2条の「定ムル所ニ依リ」との表現をそのまま引き継いだものでしょう。しかしながら,大日本憲法2条の当該部分の伊東巳代治による英語訳は“according to”となっていて,“in accordance with”ではありません。プール少尉らが“according to”をそのまま襲用せずに“in accordance with”に差し替えたのには,何らか意図するところ,すなわち意味の変更があったはずです。それは何か。この点の英語文の読み方として参考となるのは,ポツダム宣言第12条の「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルル」の部分(there has been established in accordance with the freely expressed will of the Japanese people a peacefully inclined and responsible government)と1945年8月11日付け聯合国回答における当該部分に対応する部分(「日本国ノ最終的ノ政治形態ハ「ポツダム」宣言ニ遵ヒ日本国国民ノ自由ニ表明スル意思ニ依リ決定セラルベキモノトス」(The ultimate form of government of Japan shall in accordance with the Potsdam Declaration be established by the freely expressed will of the Japanese people))との相違に関する長尾龍一教授の次の指摘です。

 

 『宣言』においては,政府の樹立は,日本国民の意思に「一致する形で」(in accordance with)行なわれればよいが,『回答』においては政治形態の決定は,日本国民の意思によって(by)決定される。(長尾龍一『憲法問題入門』(ちくま新書・1997年)53頁)

 

すなわち,プール少尉らは,皇位ノ継承ハ国会ノ制定スルコトアル皇室典範ニ代ルベキ法律(Imperial House Law)ニ「一致する形で」行われるべきだとまでしか言っていなかったようなのです。皇位ノ継承のいわば原動力は,皇室典範ニ代ルベキ法律とは別のところにあるとされていたように思われます。それは何か。後嵯峨天皇の意思のようなそのときどきの天皇の意思では正に「南北朝の乱亦此に源因せり」ということになってしまいそうです。やはりそれは,祖宗の遺意を明徴にした銘典たる皇室の家法(Imperial House Law)なのだ,ということがプール少尉らの理解だったのではないでしょうか。 

 

ウ 委員会最終報告案及びGHQ草案2条

天皇,条約及び授権委員会の最終報告では,当該条項は次のようになっています(「日本国憲法の誕生」の「3‐14 GHQ原案」参照)。この段階で,前記1946年2月13日のGHQ草案2条と同じ文言となっています。

 

Succession to the Imperial Throne shall be dynastic and in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact.

 

皇位ノ継承ハ,皇室ニ於テ世襲ニ依リ行ハルルモノトシ,国会ノ制定スルコトアル皇室典範ニ代ルベキ法律ニ従フモノトス(拙訳)

 

4 大日本帝国政府3月2日案

GHQ草案を承けた大日本帝国政府側の1946年3月2日案では,次のように規定されていました(佐藤94頁,104頁)。

 

 第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ世襲シテ之ヲ継承ス。

 第3条 天皇ノ国事ニ関スル一切ノ行為ハ内閣ノ輔弼ニ依ルコトヲ要ス。内閣ハ之ニ付其ノ責ニ任ズ。

 第7条 天皇ハ内閣ノ輔弼ニ依リ国民ノ為ニ左ノ国務ヲ行フ。

  一 憲法改正,法律,閣令及条約ノ公布

  〔第2号以下略〕

 第106条 皇室典範ノ改正ハ天皇第3条ノ規定ニ従ヒ議案ヲ国会ニ提出シ法律案ト同一ノ規定ニ依リ其ノ議決ヲ経ベシ。

  前項ノ議決ヲ経タル皇室典範ノ改正ハ天皇第7条ノ規定ニ従ヒ之ヲ公布ス。

 

5 1946年3月4日から5日にかけてのGHQとの交渉

 

(1)概要

前記1946年3月2日案をめぐる佐藤達夫法制局第一部長とGHQ民政局との間における同月4日から5日までにかけての徹夜での交渉を経て日本国憲法案から「皇室典範の議案に係る天皇の発議権は消え,憲法2条は少なくとも英文については現在の形になってい」るようであること及び当該徹夜交渉に係る同部長の「三月四,五両日司令部ニ於ケル顛末」と題した当時の手記における同条関係部分については,当ブログの「続・明治皇室典範10条に関して:高輪会議再見,英国の国王退位特別法,ベルギーの国王退位の実例,ドイツの学説等」記事(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1060127005.html)において御紹介したところです。

後年更にまとめられた当該交渉の状況は,次のとおりです(佐藤111頁)。

 

  第2条では,先方〔GHQ民政局〕は皇室典範について,それが国会によって制定されるものであることが出ていない・と相当強硬にねじ込んで来た。これに対して,Imperial House Lawとあれば,それは法律であり国会の議決によることは当然であるし,そのことは日本案第106条でも明らかになっている。ただ,皇室の家法という意味で,その発議は天皇によってなされることにしたい・と述べたが,第1章はマ草案が絶対である・といって全然受け付けず,「国会ノ議決ヲ経タル」passed by the Diet――ただし,マ草案はas the Diet may enactとなっていた――を加えることとした。

 

 交渉のすぐ後にまとめられた手記には「「経タル」ガ将来提案権ノ問題ニ関聯シテ万一何等カノ手懸ニナリ得ベキカトノ考慮モアリテ」との括弧書きがありましたが,上記の状況報告からは脱落しています。その後日本国憲法2条の「皇室典範」は法律であるものと法制局で整理され,したがって天皇の発議権は全く断念されたということで,後年の取りまとめ文からは余計な感慨だとして落とされたものでしょうか。

 皇室典範改正の発議権留保の可否は,1946年3月5日1743分から1910分まで行われた御文庫における内閣総理大臣幣原喜重郎及び憲法担当国務大臣松本烝治に対する賜謁及び両大臣からの憲法改正草案要綱に係る奏上聴取の際に,昭和天皇から御下問があったところですが,時既に遅く,同夜の閣議において「司法大臣岩田宙造〔元第一東京弁護士会会長〕より,このような大変革の際に,天皇の思召しによる提案が出ること自体が問題になるとの意見が出され,修正は断念」されました(宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍・2017年)6163頁)。

 

(2)忖度

 さて,日本側3月2日案に対して「皇室典範について,それが国会によって制定されるものであることが出ていない・と相当強硬にねじ込んで来」,「第1章はマ草案が絶対である・といって全然受け付けず」という姿勢であったGHQ民政局が,GHQ草案2条の“as the Diet may enact”“passed by the Diet”に変更することに応じたのはなぜでしょうか。

 佐藤達夫部長の「「経タル」ガ将来提案権ノ問題ニ関聯シテ万一何等カノ手懸ニナリ得ベキカトノ考慮モアリテ」との願いがGHQ側によって受け容れられたわけではありません。法律たる現行皇室典範の改正法案が天皇から提出されるなどということは現在だれも考えておらず,そもそもそれ以前に,日本国憲法4条1項後段を理由として天皇の政治的発言ないし行為は極めて厳格に規制を受けるに至っています。

 佐藤部長のあだな望みが,GHQ側によって逆手に取られてしまったものか。

 実は,“passed by the Diet”版の文言によれば,新しい日本国憲法の施行と同時に,新しく既に準備されてある「国会の議決を経た「皇室典範」」が効力を発していなければいけないように読まれ得るところです。筆者の解釈によれば,GHQ草案2条の“as the Diet may enact”版では,新憲法施行後も国会はいつまでもImperial House Lawを制定せず,一部不適当となった箇所を除いて,旧皇室典範が依然効力を有しているということもあり得たところです。

 なるほど,国会がせっかく与えられた立法権を行使せずいつまでもImperial House Lawを制定しないという困った事態を免れ得るという実によい前倒し策の提案が,何と日本側から出てきたわいと,ひとしきり考えた末にGHQの係官たちは莞爾としたのかもしれません。しかしながら,法律の制定を表わすenactが,単なる議決をしたとの意となるpassedになることについてはどう考えるか。いやそれは,新しい憲法の施行の前に準備のために制定される法律(日本国憲法100条2項参照)については,制定権者はなお飽くまでも天皇であって帝国議会は協賛機関にすぎないのだから(大日本帝国憲法5条等),確かにenacted by the Dietでは不正確であってpassed by the Dietでなければおかしい,ということで得心されたのではないでしょうか。帝国議会の協賛を経た法律として「皇室典範」がいったん成立すれば,その後の改正法律は当然国会が制定すること(the Diet enacts)になる,これでいいんじゃないの,ということになったのではないでしょうか。

 ただし,法律ではないものの帝国議会の議を経た皇室典範なるもの(大日本帝国憲法74条1項参照。また,奥平43頁)が出て来ると面倒なことになるので,飽くまでも新しい「皇室典範」は帝国議会の議を経た法律として制定されるよう,その点は厳しくコントロールすることとしたものでしょう。(しかし,美濃部達吉は,大日本帝国憲法74条1項(「皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セス」)について,「本条に『議会ノ議ヲ経ルヲ要セス』とあるのは,単にその議を経ることが必要でないことを示すに止まらず,全然議会の権限外に在ることを示すものである。」と説いていました(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)731頁)。)

 

6 憲法改正草案要綱(1946年3月6日)から憲法改正草案(同年4月17日)まで

 1946年3月6日17時に内閣から発表された「憲法改正草案要綱」では「第2 皇位ハ国会ノ議決ヲ経タル皇室典範ノ定ムル所ニ依リ世襲シテ之ヲ継承スルコト」となっていましたが(佐藤200頁,189頁),同年4月17日に発表された同月13日の「憲法改正草案」(佐藤347頁,336頁)の段階からは現在の日本国憲法2条の文言(「皇位は,世襲のものであつて,国会の議決した皇室典範の定めるところにより,これを継承する。」)となっており(口語体になっています。),その後変化はありません。なお,法制局においては,日本国憲法案の「口語化の作業については,渡辺参事官を通じて山本有三氏に,口語体の案を作ってもらい,これをタイプで複写して立案の参考にし」,その山本案では第2条は「皇位は国会の決定した皇室法(﹅﹅﹅)に従つて世襲してこれをうけつぐ。」となっていたそうですが(佐藤275頁),結局「皇室典範」の文言が維持されています。

 

7 枢密院審査委員会での議論(1946年4月から5月まで)

 日本国憲法案2条の「皇室典範」の法的性質の問題は,1946年4月22日から宮城内枢密院事務局で開催された枢密院審査委員会で早速取り上げられています。政府側の答弁の要点は「皇室典範は,法律である。はじめは法律と異るものにしようとしたが,目的を達し得なかった。「皇室法」としなかったのは,従来の用例を適当と認めたによる。その内容は,現在の典範そのままではなく,一般国務に関係ある皇室事項を規定し,皇室の家憲のようなものは皇室かぎりで定められることとなろう。」ということでした(佐藤392頁)。具体的には以下のとおりです(同委員会の審査記録は,「日本国憲法の誕生」の「4‐1 枢密院委員会記録1946年4月~5月」によります。)。

 

(1)河原枢密顧問官による質疑

 1946年4月24日の審査における河原春作枢密顧問官と松本烝治憲法担当国務大臣とのやり取り。

 

 河原 皇室典範は法律なりや。

 松本 法律なり。特別の形式とするやうに交渉したが,意を達しなかつた。

 

 なお,ここでの「交渉」について,余白に鉛筆書きで,次のように筆者には読める書き込みがあります。

 

 これは,やはり国会の議決にかけるが,形式上法律(国民の権利ギムに関する国法)とは別の皇室典範とする意味と主張したが,先方はてんで受けつけなかつた(石)

 

 同年5月3日,河原枢密顧問官は,なおも皇室典範の法的性質について入江俊郎法制局長官に質します。

 

 河原顧問官 国会の議決云々といふことで皇室典範は法律だといはれたが憲法と国法と典範と3系統のやうに考へられる。皇室法といへば勿論さうだが〔以下略〕

 入江法制局長官 皇室典範といふのが習熟したからかいた。法といふ語を抜いたから議決がいらぬやうに見えるから議決したとかいた。又これをかゝぬと議決がいらぬ従前のもののやうに考へられる。他の系統のもののやうに考へるがといはれるが,公布の処や,最高法規の処にもかいてないからそんなことにはならぬ。

 

(2)美濃部枢密顧問官による追及

 1946年5月3日,美濃部達吉枢密顧問官からも厳しい追及があります。

 

 美濃部顧問官 皇室典範は法律の一種なりといふことに対しては疑あり。法律第 号として公布せらるるか。然らば皇室典範の特質に反す。皇室典範は一部国法なるも同時に皇室内部の法にすぎぬものあり。此の後者に天皇は発案(ママ)も御裁可権もないことは(ママ)かしい。普通の法律とは違つたものである。天皇が議会の議を経ておきめになることにせぬと困る。

 入江法制局長官 内容は現在の皇室典範がそのまゝと考へぬ〔筆者は「ぬ」と読みましたが,国立国会図書館のテキスト版は「る」と読んでいます。〕。将来は国務に関する事項のみとし度い。内部のことは皇室自らおきめになるとよいと考へた。

 美濃部顧問官 然らば皇室典範といふ名称はやめぬといかぬ。この名称は皇室の家法といふべきものなり。憲法と合併してその一部にするか普通の法律とすべし。〔以下略〕

 

ここでの美濃部枢密顧問官の議論は,次の2点にまとめられるでしょうか。

第1。「皇室典範」という題名は,本来,皇室内部のことを皇室自ら決める皇室の家法という意味を有するものである。皇室内部のことを皇室自ら決める皇室の家法は,国務に関するものである法律とは異なる。したがって,当該家法は,議会の議を経るにしても,飽くまでも天皇が発議権と裁定権とを有すべきものである。

第2。他方,旧皇室典範中「国務に関する事項」を規定するものは,「憲法と合併してその一部にするか普通の法律とすべ」きであり,かつ,当該法律に「皇室典範」という題名を付すべきものではない。(美濃部は,かねてから,皇位継承に係る大日本帝国憲法2条について「皇位継承に関する法則は,決して皇室一家の内事ではなく,最も重要なる国家の憲法の一部を為すものである。」,「言ひ換ふれば憲法は本来その自ら規定すべき事項を皇室の権能に委任して居るのであって,就中本条は皇位継承に関する皇室の自律権を認めたものである。」と(美濃部110頁,111頁),摂政に係る同17条について「摂政を置くことは固より単純な皇室御一家の内事ではなく,国家の大事であることは勿論であるから,本来の性質から言へば王室の家法を以て規定し得べき事柄ではな」い(美濃部317頁)と説いていました。しかしながら,1946年5月の枢密院における議論においては,「皇室典範」に係る美濃部の「憲法と合併」論は発展を見せずに終わりました。さすがに,大日本帝国憲法の全部改正として日本国憲法を制定した後に,続いて日本国憲法と合して日本国の憲法たるべき「皇室典範」を大日本帝国憲法の改正手続で制定するのでは,皆さんお疲れが過ぎるということでもあったのでしょう。)

 

8 法制局における整理(1946年4月から6月まで)

その間法制局において,日本国憲法2条にいう「皇室典範」に関する解釈が以下のように整理され,まとめられています(「日本国憲法の誕生」の「4‐4 「憲法改正草案に関する想定問答・同逐条説明」1946年4月~6月」参照)。

 

(1)「皇室典範」=法律(1946年4月)

1946年4月の段階で,日本国憲法2条にいう「皇室典範」は少なくとも形式的には法律であるものと整理する旨法制局において判断がされたようです。

すなわち,同月の「憲法改正草案逐条説明(第1輯)」では,第2条につき,皇位の「継承は国会の議決する皇室典範の定むる所に依ることと致しました。」とのみ書いてあって当該「皇室典範」の法的性質については踏み込んでいなかったのですが,同じ月の「憲法改正案に関する想定問答(第2輯)」には「皇室典範は法律なりや」との想定問に対して「形式的には法律でありますが,皇位継承,摂政其の他皇室の国務に関係する事項を規定内容とするものを皇室典範として立法する心算であります。」と答えるべき旨記されています。端的に法律であると断言することとはせずに,「形式的には法律でありますが」という表現を採用しているところに,なおためらいがあったことが窺われます。

なお,同じ想定問答集の「皇室典範の内容たる事項は如何」との想定問に対しては,「皇位継承,摂政その他皇室関係にして国務に関係する事項のみであります。/従前の宮務法中単なる皇室の内部に係る事項は今後公の法制上からは之を省くを至当と考へます。」と答えるものとされていました。

 

(2)国会の議決の意義付け及び「皇室典範」との指称の理由(1946年5月)

 1946年5月の「憲法改正草案逐条説明(第1輯)」において,法制局は,日本国憲法2条の「皇室典範」に係る国会の議決の意義付け及び当該指称の理由を記すに至っています。いわく。

 

 〔前略〕従来も皇位継承,摂政その他皇室に関する事項は皇室典範の定むる所として居りましたが,この皇室典範は憲法とは独立に制定せられその改正にも帝国議会の議決を必要としなかつたのであります。即ち皇室典範は,皇位継承,摂政等皇室の国務に関する事項を内容とするにも拘らず,皇室の家内法であるかの様に考へられて居たのでありますが,この考へ方は,君民一体の我国体より見て決して適当なものではないのであります。本条がこの欠点を改め,皇室典範を国会の議決により定めることとしましたのは,即ち第1条の精神に即応し,皇室を真に国民生活の中心的地位に置き,皇室と国民との直結を図らんとする趣旨であります。

 国会の議決によるのでありますから皇室典範も固より法律でありまして,皇室法とでも称して差支へないのでありますが,従来の名称を尊重して同じ名称を存置したのであります。

 

(3)法律たる「皇室典範」の発案権に係る制限ないしは工夫の模索(1946年6月)

 前記(2)においては前向きな説明をしたものの,法制局としては「皇室典範」=他の法律と全く同様の法律とまでは割り切りきれなかったようです。皇室に関する事項について国会議員の諸先生方が「差出がましい」ことをする心配もありますし,やはり政府又は国会以外の 利害関係の直接なあたりからの「その他の意思」が「皇室典範」に反映されるようにする工夫が必要であることが気付かれるに至ったのでしょう。したがって,1946年6月の「憲法改正草案に関する想定問答(増補第1輯)」には,次のような興味深い記述が見られます。

 

 問 皇室典範の制定手続は一般法律と同様か。

 答 抑々従来憲法と典範が二本建になつて居たことは天皇と国家とを合一せしめ,天衣無縫の法秩序をつくる上には望ましいことではなかつたと考へられるので,それを憲法の下にある法律たらしめたのであるからその制定手続も一般の法律と同様である。

   た国会の側から皇室について謂はば差出がましい発案は行はないと云ふ様な慣習法が成立することもあらうか,と考へる。

   又政府のみの発案に任せることなく何等かの形で,国会その他の意思をも反映させるための方法として,皇室典範の中でその改正に際して特殊の諮詢機関の議を経べきことを定めるのも一法と考へて居る。

 

9 帝国議会提出案(1946年6月20日)

以上のように日本国憲法案2条の「国会の議決した皇室典範の定めるところにより」という文言については紛糾が現に生じていたにもかかわらず,政府は,「法律の定めるところにより」と改めずにあえてそのままの案を第90回帝国議会に提出しています(「日本国憲法の誕生」の「4‐3 「帝国憲法改正案」(帝国議会に提出)1946年6月20日」参照)。

 政府としては,やはり,「国会の議決した皇室典範」は単なる法律とは何らかの点で異なるのだ,との含みないしは解釈上の余地を残しておきたかったのでしょうか。本稿のようなものが草されてしまうゆえんです。 


 
弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

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