1 承久三年の宇治川渡河戦

 当ブログにおける今年(2017年)最初の前々回の記事(「カエサルのルビコン川渡河の日付について」http://donttreadonme.blog.jp/archives/1063677215.html)においては,共和政から帝政に向け古代ローマの歴史を大きく変えた紀元前49年のカエサルによるルビコン川の渡河について書きました。

 となれば渡河つながりで,我が国の歴史を大きく変えたものとして一番重要な渡河は何であっただろうかと考えれば,公家の世から武家の世に向かう歴史の流れの節目となった承久の変における,承久三年(1221年)六月十四日に敢行された北条泰時率いる鎌倉方の軍勢による宇治川渡河こそがそれでありましょうか。


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宇治橋から宇治川上流方向を望む(京都府宇治市)


  明けて十四日の宇治川合戦も必ずしも幕軍に有利ではなかった。〔その前日,「足利義氏・三浦義村は,泰時に連絡せず宇治に進出した。そのため京方の猛反撃をうけて死者続出,平等院(京都府宇治市)にたてこもり,栗子山(宇治市西南部)の泰時に援軍を求めた」ところです。〕ここ〔宇治〕は近江から山城への要衝で京方の抵抗もきびしかった。泰時はこの日,元服の際〔建久五年(1194年)〕に〔源〕頼朝から与えられた剣を帯びていた。泰時の命により芝田兼義,春日貞幸,佐々木信綱等が敵前渡河を試みた。・・・

  京方の激しい抵抗と,宇治の急流〔前夜は豪雨〕に,幕軍の犠牲はおびただしかった。泰時は「味方の敗色濃く,今や大将の死すべき時。河を渡り軍陣に命を棄てよ」と〔数え年〕十九歳になる子の時氏〔経時及び時頼の父〕に命じた。三浦泰村らも渡河を試みた。泰時は黙然として,不利な戦局を見詰める目も血走っていた。京方には勝ち誇る気色があった。「あたら侍共を失い,わが身一人残り止っても益なし。運尽きた今は死あるのみ」と意を決した泰時は,自ら乗馬して渡河しようとした。これを留めたのは〔春日〕貞幸であった。・・・そして宇治川先陣の殊勲は佐々木信綱に輝いた。〔なお,佐々木信綱が先か芝田兼義が先だったかは,勲功調査において問題となったところです。〕

  抗戦をしりぞけ幕軍は遂に宇治川渡河に成功した。その夜泰時は,深草河原(京都市伏見区)に陣取った。・・・(上横手雅敬『北条泰時』(吉川弘文館・1958年)3739頁)

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201711月撮影)暑苦しい関東武者の勲功争いは,一時お上の預りです。なお,「『平家物語』に有名な佐々木高綱(信綱の叔父)と梶原景季の先陣争いは,〔承久三年の佐々木・芝田間の〕この事件を素材として作り上げたものだという説」(上横手48頁)を筆者は採用しましょう。
 

承久の変の戦後処理は,「在位わずか七十余日〔承久三年四月二十日「即位」(児玉幸多編『日本の歴史 別巻5 年表・地図』(中央公論社・1967年)469頁)〕の天皇は廃位され(当時は九条廃帝,または半帝とよばれ,明治時代になって初めて仲恭天皇とおくり名された)〔承久三年七月九日「譲位」,同日後堀河天皇「践祚」(児玉編108頁)〕,後鳥羽上皇の兄(ぎょう)(じょ)法親王の子が新たに天皇の位をついだ〔同年十二月一日即位(児玉編469頁)〕。後堀河天皇である。・・・」ということになりました(石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』(中央公論社・1965年)380頁)。

仲恭天皇は,臣下によって廃位されたというわけです。

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京方が陣取った宇治川右岸にあるモニュメント。さすがに京方は(みやび)す。

ここで用語法について一言しておくと,君主がその意思表示に基づきその位を去ることを退位(Abdankung)といい,君主に当該意思表示が無いにもかかわらずその位から去らしめられることを廃位(Absetzung)ということにしましょう。『岩波国語辞典 第四版』(1986年)においては,「退位」は「帝王が位を退くこと。」と,「廃位」は「君主をその位から去らせること。」と定義されています。

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常楽寺(鎌倉市大船)にある北条泰時の墓 
(北条泰時は仁治三年(1242年)「六月十五日亥刻(午後10時)に永眠した。享年六十歳。死因は過労の上に,赤痢を併発したためという。」(上横手199頁)宇治川渡河戦の勝利の翌日入京してから奇しくも21年目の当日でした。)
 

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常楽寺山門


 
2 皇統における仲恭天皇の位置等


(1)明治三年に諡号が追贈された三天皇:弘文,淳仁及び仲恭 

明治三年七月二十三日(1870年8月19日)に弘文天皇,淳仁天皇及び仲恭天皇の諡号が追贈されています。しかし,現実に皇位についてはいたものの怖い太上天皇(孝謙=稱德女帝)によって廃位されたということが明らかな奈良時代の淳仁天皇はともかくも,7世紀天智天皇の崩御後の皇位争いにおいて大海人皇子(天武天皇)に敗れた弘文天皇(太政大臣大友皇子)及び鎌倉時代の仲恭天皇については,皇位についていたこと自体がはっきりしていなかったのではないでしょうか。

(2)牧野伸顕宮内大臣の懸念及び考査対象からの除外:弘文天皇及び仲恭天皇 

大正時代,皇統譜令案の施行を全うするために必要な史実を明確にするために1924年3月7日に設置された臨時御歴代史実考査委員会に対して,同年4月21日に牧野伸顕宮内大臣から諮問事項が示されたところですが,その際牧野宮内大臣から同委員会の伊東巳代治総裁に対して,「弘文・仲恭両天皇に関しては,すでに御歴代に数え,皇霊殿に奉祀されているため,今更問題にすべからざることなどの指示があった」そうです(宮内庁『昭和天皇実録 第四』(東京書籍・2015年)547549頁)。これは,反対解釈すると,「今更問題にす」ると,弘文・仲恭両天皇についてはやはり皇位についていなかったという結論となることが十分あり得るということが宮中自身の認識であったということでしょう。

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 弘文天皇陵(滋賀県大津市)

(3)『神皇正統記』における仲恭天皇:日嗣にくはへたてまつられざる廃帝 

仲恭天皇の皇統における位置付けについて,現在はともかく,承久の変から百二十年ほど後の当時における公家知識人の認識はいかん。

 

 廃帝。諱は(かね)(なり),順徳の太子。御母東一条院,藤原立子(のりつこ),故摂政太政大臣良経(のむすめ)也。

 承久三年春の比より〔順徳〕上皇おぼしめしたつことありければ,にはかに譲国したまふ。順徳御身をかろめて合戦の事をも(ひとつ)御心にせさせ給はん御はかりことにや,新主に譲位ありしかど,即位登壇までもなくて軍やぶれしかば(ははかたの)(をぢ)摂政道家の大臣の九条の(てい)へのがれさせ給。三種(さんしゅの)神器をば閑院の内裏にすて((お))かれにき。譲位の後七十七ヶ日のあひだ,しばらく神器を伝給しかども,日嗣にはくはへたてまつらず(イ﹅)(とよ)の天皇の(ためし)になぞらへ申べきにこそ。元服などもなくて十七歳にてかくれまします。北畠親房(岩佐正校注『神皇正統記』(岩波文庫・1975年)152頁。下線は筆者)

 

北畠親房はその『神皇正統記』において,「第八十四代,(じゅん)(とくの)院。」,「第八十五代,()堀河(ほりかわの)院。」と記していて北畠149頁,154頁),その間仲恭天皇はスキップされています(なお,何の位の第何代かといえば,神武天皇が「(にん)(わう)第一代」とされていますから(北畠45頁),順徳天皇は人皇第84代,御堀河天皇は人皇第85代ということになります。人皇の前は(あま)(てらす)(おほ)(みかみ)以下地神(ちじん)五代です北畠29頁,44頁)。ちなみに,前記伊東巳代治の臨時御歴代史実考査委員会には牧野宮内大臣から附帯事項として「皇統譜中太古ノ神系ハ之ヲ神武天皇ノ前ニ特書スベキヤ否」について参考意見が求められたところ(『昭和天皇実録 第四』548頁),同委員会の意見は積極だったようで,旧皇統譜令(大正15年皇室令第6号)39条は「神代ノ大統ハ勅裁ヲ経テ大統譜ノ首部ニ登録スヘシ」と規定しています。)。

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 仲恭天皇陵(京都市伏見区)

(4)『神皇正統記』における淳仁天皇:人皇第四十七代たる淡路廃帝 

淳仁天皇についてはさすがに,北畠親房によっても「第四十七代,淡路廃(あはぢのはい)(たい)一品(いつぽん)舎人(とねりの)親王の子,天武の御孫也。・・・(つちのえ)(いぬの)年即位。/天下を治給こと六年。事ありて淡路国にうつされ給き。三十三歳おましましき。と記されて北畠8990頁),人皇第47代にしっかりカウントされています。

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 淳仁天皇を祭る白峯神宮(京都市上京区)

(5)飯豊天皇:日嗣にはかぞへたてまつられざる「女帝」 

仲恭天皇というよりは九条廃帝ないしは半帝がその「例になぞらへ申すべき」ものとされた飯豊の天皇とはだれかといえば,清寧天皇と顯宗(けんぞう)天皇(在位期間は宮内庁ウェッブ・サイトの「天皇系図」によればそれぞれ西暦480年から484年まで及び同485年から487年まで)の間「しばらく位に居給」うた「天皇」であるそうです。すなわち,清寧天皇の後は本来顯宗の「御(このかみ)仁賢(まづ)位に(つき)(たまふ)べかりしを,〔仁賢・顯宗の兄弟は〕相共に(ゆづり)ましまししかば,同母の御姉飯豊(いひとよ)の尊しばらく位に居給き。されどやがて顯宗定りましまししによりて,飯豊天皇をば日嗣にはかぞへたてまつらぬなり。」ということです(北畠69頁)。伊藤博文の『皇室典範義解』における明治皇室典範1条(「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」)の解説には「飯豊(いひとよ)(あをの)(みこと)政を摂し清寧天皇の後を承けしも,亦未だ皇位に即きたまはず。」とあります(同じく『皇室典範義解』における明治皇室典範19条解説では,「飯豊青尊の摂政に居たまへるは此れ〔「君祚を仮摂」〕に近し。」とあり,「人臣を以て大政を摂行」する「摂政」とは異なるものとされています。)。推古天皇以来女帝の例もあったのですから,現在の女帝可不可論の問題は別にして,仲恭天皇を歴代天皇に数えることにしたのならば飯豊天皇飯豊青尊代に列せしめることにしてもよかったように思われますが,どうでしょうか。とはいえ,吉野の長慶天皇を1926年に皇代に列した際には「宮内大臣一木喜徳郎は,御歴代大統中に御一代を加えることは皇室の大事にして,詔書を以て宣誥せらるべきもの」とし,同年1021日に摂政宮裕仁親王により詔書が出されていますが(『昭和天皇実録 第四』549550頁),「皇室ノ大事ヲ宣誥」するための詔書(公式令(明治40年勅令第6号)1条1項)という形式は現在もそのようなものとしてあるものかどうか。

(6)順徳天皇・後堀河天皇間における「空位」の意味等 

ところで,『神皇正統記』の記載から窺われる,承久三年四月二十日に順徳天皇が退位し同年七月九日に後堀河天皇が践祚するまでは実は皇位は空位であったことにしよう,という整理ないし事件処理は,敢えて絶妙であったというべきでしょう。関東の東夷どもが人民の分際であるにもかかわらず畏れ多くも現在の天皇を廃位申し上げてしまったのだなどというスキャンダラスな事態(美濃部達吉は,大日本帝国憲法3条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」との規定に関して,「日本ではその固有の歴史的成果として古来既に久しく認められて居た」原則であり,当該原則によれば「既に践祚あつた後に於いては,如何なる事由の起ることが有つても・・・皇位を廃することは法律上絶対に不可能」,「天皇の廃位は絶対に不可能」と強調しています(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣・1927年)115頁,118頁,120頁)。)は,実は我が光輝ある国史においてはなかったのだ,北条義時・泰時父子は,天皇OBの後鳥羽上皇・順徳上皇父子の勢力と争ったものではあるが,現役の天皇に対して刃向かったものではないのだ,空位期間だったのだ,すなわち明治大帝が大日本帝国憲法発布の勅語において畏くも確認しておられるように,日本国民の祖先は全て飽くまでも一貫して,天皇たる「祖宗ノ忠良ナル臣民」であったのである,ということになり得るからです。だからこそ北畠親房も安心して承久三年の宇治川渡河戦の勝利者にして京都への乱入者である北条泰時をほめ,「大方泰時心ただしく(まつりこと)すなほにして,人をはぐくみ物におごらず,公家の御ことをおもくし,本所のわづらひをとどめしかば,風の前にちりなくして,天の下すなはちしづまりき。かくて年代をかさねしこと,ひとへに泰時が力とぞ申伝ぬる。」と記すことができたのでしょう(北畠156頁)。

承久の変の際仲恭天皇はなお満3歳に満たない幼児であらせられました。物心もついておられたものかどうか。飯豊青皇女は自ら政を摂したとのことですが,仲恭天皇の場合はそれもなかったわけです。また,意思能力も有しておられなかったわけで,退位の意思表示は無理だったわけでしょう。摂政が天皇を代理して,退位の意思表示をするわけにもいかなかったでしょう。しかも当時は人臣摂政の時代。ちなみに, 仲恭天皇の摂政であった九条道家は, 次代鎌倉将軍予定者たる三寅(頼経)の実父でもありました。

なお,源平合戦期に後白河法皇が後鳥羽天皇を立てた際安德天皇は同法皇によって廃位されたのかどうかが問題になり得,前記臨時御歴代史実考査委員会には牧野宮内大臣から附帯事項として「安德天皇ノ御在位年数後鳥羽院天皇登極ノ時期ハ如何ニ定ムベキカ」についても参考意見が求められていたところ(『昭和天皇実録 第四』548頁),「記載は原則として皇統譜に基づく」ものとされる宮内庁ウェッブ・サイトの「天皇系図」によれば,第81代の安德天皇は壇ノ浦の戦いの西暦1185年まで在位していたものとされている一方,第82代の後鳥羽天皇は平家都落ちの同1183年から在位していたものとされています。治天の君たる後白河法皇といえども,二人目の天皇を立てることはできても現天皇を一方的に廃位することはできなかった,ということでしょうか(なお, 時代は近いもののまた別の話ですが,当時3歳児であらせられた第79代六条天皇から第80代高倉天皇(安徳天皇の父, その中宮は平清盛の娘である徳子)への「譲位」の有効性については,そもそも問題にされていないようです。)。承久の変後,高倉天皇の皇子である行助法親王が後高倉院として院政を始めましたが,その後高倉院にとっては,後白河法皇は余り手本にしたくはない祖父だったかもしれません(平家都落ち後の新天皇選びの際後高倉院は後白河法皇に気に入られずに践祚できなかったとも伝えられています(代わりに弟の後鳥羽天皇が践祚)。すなわち,現役の天皇がなお在位しているのに,治天の君があえて新天皇を践祚させるというあくの強いなしざまの際の一種の被害者であった者としては,自ら同様のことはしたくはなかったことでしょう。)。他方,孝謙太上天皇による淳仁天皇の廃位はどう考えるべきかということについては,「太上天皇とは・・・律令の規定では,天皇と同じ待遇と政治的権限を有していた」ところであり,かつ,「8世紀においては,まだ権力を天皇一人のみに集中させることはできず,太上天皇や皇后・皇太后など,2~3名の皇族による権力の分掌体制が残っていたのである。」ということ(大隅清陽「君臣秩序と儀礼」大津透=大隅清陽=関和彦=熊田亮介=丸山裕美子=上島享=米谷匡史『日本の歴史08 古代天皇制を考える』(講談社・2001年)65頁,66頁)並びに,つとに淳仁天皇在位中の「天平宝字六年(762)六月孝謙上皇は,「政事は,常の(まつり)へ。国家大事賞罰(もと)(われ)天皇さい賞罰国家大事宣言ていと(丸山裕美子天皇祭祀変容大津218頁)などを参考にすべきでしょうか。

 

3 我が国史における皇位に係る空位の存否

しかし,我が国の皇位に空位期間があってよいものでしょうか。『皇室典範義解』の明治皇室典範10条(「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」)の解説は「本条は皇位の一日も曠闕すべからざるを示」すと記しています。

しかしこれは,明治皇室典範以降のことであって,万古不易の定則ではなかったところです。

美濃部達吉も「皇位の継承には何等の時間の経過なく,先帝位を去りたまふ瞬間は即ち新帝の践祚したまふ瞬間であり,皇位は寸毫の間隙も無く連続する。此の原則も亦純粋の意義に於いての世襲主義から生ずる当然の結果である。」と唱えつつも,「日本の歴史に於いても,例へば清寧天皇崩ずるの後皇嗣定まらざること3年に及び,その間飯豊青皇女が政を摂せられたやうな例も有る。」という事実は認めざるを得なかったところです(美濃部103頁)。

そもそも前記臨時御歴代史実考査委員会には宮内大臣から附帯事項として「天智天皇持統天皇ノ称制年間ハ御在位中ト見ルベキヤ否」及び「我国古代ニ於ケル皇位継承ノ際ノ空位ハ之ヲ如何ニ取扱フベキカ」についても参考意見が求められていましたが(『昭和天皇実録 第四』548頁),宮内庁ウェッブ・サイトの前記「天皇系図」によれば,結局皇位継承に当たって空位期間が生じることはあり得べきことであったものとされています。第37代の齊明天皇の在位は西暦661年までであるのに対して第38代の天智天皇の在位は同668年から始まったことになっており,かつ,第40代の天武天皇の在位は同686年で終わったものとされる一方第41代持統天皇の在位は同690年から始まったものとされています。他方,古代最初の皇位継承があった神武天皇と綏靖天皇との間で早速空位期間(西暦紀元前585年と同581年との間)が生じています。また,第14代の仲哀天皇の在位期間は西暦200年までとされているのに対して第15應神天皇の在位期間は同270年から始まったことになっていて,その間の空位期間は極めて長い。『神皇正統記』では,仲哀天皇と應神天皇との間のこの長い期間において「第十五代」として神功皇后が人皇の位にあったこととされています(北畠57頁)。承久の変後にも,1242年,第87代四条天皇と第88代後嵯峨天皇との間には「空位期間12日」(上横手197頁)がありました(皇子のないまま突如崩御した四条天皇(後高倉院の孫)の後は承久の変に関与していなかった土御門天皇の皇子である後嵯峨天皇(後高倉院の大甥)が践祚すべき旨は,鎌倉の鶴ケ岡八幡宮の神意として鎌倉から京都に伝えられ,その際,北条「泰時は順徳院の皇子の即位が実現するようなことがあれば,退位させよという決意を,使者の安達義景に伝えた」そうであるところ(上横手197頁),ここでうっかり「皇位は一日も曠闕すべからず」などとしてお公家さんらが間の悪い順徳上皇(なお佐渡で存命)の皇子を勝手に践祚させていたならば承久三年の二の舞。空位に効用があったわけです。)。そもそも,第121代孝明天皇の在位期間が西暦1866年までとされ,第122代明治天皇の在位期間が同1867年から始まったものとされているのは,実に明治時代の直前まで皇位継承に当たって空位期間が生ずることが容認されていたということでしょうか(なお,孝明天皇の崩御日は慶応二年(十一月二十五日まで1866年)十二月二十五日ではありますが,グレゴリオ暦では1867年1月30日になります。)。

1887年3月20日の伊藤博文邸における高輪会議に提出された柳原前光の「皇室典範再稿」第39条柱書きには「空位又ハ左ノ事項ニ関シ天皇政ヲ親ラスル能ハサル間ハ摂政一員ヲ置クコト神功皇后以来ノ例ニ依ル」とあったところ,同会議の決定によって「空位」が削られていますから(小嶋和司「明治皇室典範の起草過程」同『小嶋和司憲法論集一 明治典憲体制の成立』(木鐸社・1988年)193頁),「皇位の一日も曠闕すべからざる」原則も,同会議において初めて決定されたものでしょう(伊東巳代治も当該会議に出席していました。)。(なお,柳原前光は神功皇后を摂政の原型としていましたが,「本朝には應神うまれ給て襁褓にましまししかば,神功皇后天位にゐ給。しかれども摂政と申伝たり。これは今の儀にはことなり。」(北畠107頁。下線は筆者)という認識の存在を前提とすれば,天皇が皇位にあることを前提とした摂政を説明するのに適当な先例であったとはいえないでしょう。「神功皇后ヲ皇代ニ列スベキヤ否」は前記臨時御歴代史実考査委員会に対し1924年4月21日に諮問された事項の第一であり,その答申は皇代に列せざるを可とすだったのですが(『昭和天皇実録 第四』548‐549頁),換言すれば,神功皇后の皇統中の位置付けは,大正時代の末まではっきりしていなかったということです。)

 

4 「国政に関する権能を有しない」ことと天皇の退位の意思

日本国憲法4条1項は「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。」と規定していることから,国事行為の臨時代行に関する法律(昭和39年法律第83号)に基づく天皇によるその国事に関する行為の委任における天皇の意思の位置付けが問題になり得ます(樋口陽一『憲法Ⅰ』(青林書院・1998年)139頁参照)。当該委任及びその解除について,天皇の意思が実質的に働く余地が認められるのか認められないのか。天皇の国事行為の委任及びその解除には内閣の助言と承認が必要とされているところ(国事行為の臨時代行に関する法律2条,3条),国事に関する行為の委任もまた国政に関することであるとして天皇の意思が実質的に働く余地が認められないということでしょうか,そうであるのならば,その延長で,天皇の意思に基づく退位(国事行為の臨時代行の委任よりも極めて重大な行為です。)は認められないことになるのでしょうか(2017年1月1日に毎日新聞ウェッブ・サイトに掲載された野口武則記者の記事によると「政府は,〔今上〕天皇陛下に限り退位を認める特別立法に関し,退位の要件として「天皇の意思」は書き込まない方針を固めた。・・・内閣法制局は天皇の意思を退位の要件とすることは「憲法改正事項になる」との見解を示しているという。・・・法制局は,天皇の意思による退位を法律で明記すると・・・天皇が政治に影響を及ぼす可能性が残るとする。」ということですが,この「政府方針」は,同様の消極解釈に基づくものでしょう。)。それともやはり,退位となると次元の異なる場面であるということで,ベルギー国憲法の解釈(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1060127005.html)に倣って,究極的には天皇個人の決断に基づく退位が認められるものかどうか。

天皇の退位の意思表示を要件とせずに天皇をその位から去らしめることは,これはもはや退位ではなく廃位であるといい得るように思われます(無論,言葉の問題に過ぎないということであれば,そうなのでしょう。)。国会においてみんなで決めた法律である退位特例法によるのだからよいのだ,廃位特例法などと変な言い方で言うのはやめろ,和を尊べ,と言われても,天皇には国会議員の選挙権はありませんから,そこでの「みんな」に含まれておられるものと直ちに解し得るものかどうか。また,英国とは異なり,現行憲法下,天皇には名目的にも立法に係る裁可権はありませんから,1936年のエドワード8世のように,自分の意思に基づく裁可によって自らを王位から去らしめる法律を制定したという形にもなりません。(なお,園部逸夫『皇室法概論』(第一法規・2002年)462頁は,「天皇の自由意思によらない廃立であっても,象徴性・世襲制に反しない場合もあり得ないとは言えず,直ちに違憲とは考えない。」と述べています。美濃部のような廃位ダメ絶対論は,飽くまでも,天皇の神聖不可侵を規定する大日本帝国憲法3条があってのものである,ということになるのでしょう(「諸国の立憲主義憲法は「国王の身体は〔原文は傍点〕不可侵」とするにとどまる。この体制において廃位の考えられるこというまでもないが,明治憲法第3条は意図してこれを避けたのである。」との指摘があります(小嶋和司「再び天皇の権能について」『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』(木鐸社・1988年)118頁)。)。「廃立」とは,『岩波国語辞典 第四版』によれば,「臣下が勝手に今の君主をやめさせて別人を君主にすること」です。)

 

5 北条義時の最期

仲恭天皇を廃位したものではない建前とはなった模様である北条義時でしたが,承久の変の後3年で急死しています。「吾妻鏡では脚気の上に霍乱をわずらって死んだとあるが,保暦間記四には「元仁元年〔1224年〕六月十五日義時思ひの外めしつかひける若侍に突き殺されける」と述べて,承久の乱における身の業因の然らしめるところで「とりわきかかるむくい」と覚えて恐ろしい限りだと評している。」とのことです(北畠233頁(岩佐正の補注))。ただし,「六月十五日」は承久の変における鎌倉方の入京日なので,日付には作為があるのかもしれません。一般には義時の死亡日は六月十三日と伝えられています(上横手58頁)。義時の死因には上記の近侍による殺害説のほか,妻による毒殺説もありますが,「・・・上皇を配流したり,道徳的には道ならぬ事の限りをつくしたこのあくの強い人物の死については・・・噂こそが真実だったのかもしれない。」とされています(上横手60頁)。

 山の端に隠れし人は見えもせで入りにし月はめぐり来にけり 泰時

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北条義時の墳墓堂たる法華堂の跡地(鎌倉市。源頼朝の墓の東)

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義時法華堂とは別にインターネット情報の伝える「義時やぐら」(義時法華堂跡から更に東。向かって右側の穴がそれであるようです。)

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(承久三年の勝報を受けて「今ハ義時,思フ事ナシ。義時ハ,果報ハ,王ノ果報ニハ猶勝リマイラセタリケレ」(上横手41頁における『承久記』からの引用)とまでの揚言をあえてした北条義時も空しくなりました。)   

 

6 ロマノフ王朝の最期

しかしながらそもそも,今年(2017年)から百年前のロシア革命のことを思えば,王家に生まれた者にとっては,退位の自由や践祚拒否の自由があったとしても,詮無いことかもしれません。革命騒擾の中,グレゴリオ暦1917年3月15日にロシア帝国の皇帝ニコライ2世は退位宣言に署名して帝位を弟のミハイル大公に譲り,同大公は翌同月16日に帝位を拒否してロマノフ王朝は終焉を迎えましたが,このように降りかかる火の粉を払い,火中の栗を避けてはみたものの,ニコライもミハイルも,結局,ボルシェヴィキによる虐殺の赤い魔の手からは逃れることはできなかったところです。1918年7月17日にニコライとその家族はエカテリンブルクで皆殺しにされ,ミハイルもその前に殺されています。

 
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1891年5月11日に発生した大津事件の現場(滋賀県大津市)

大津では助かったニコライも,エカテリンブルクでは助かりませんでした。ボルシェヴィキは,津田三蔵よりも上手(うわて)


弁護士 齊藤雅俊

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