1 紀元前49年1月10日,11日又は12

紀元前49年「1月10日の夜,カエサル,ルビコン川を越え内乱始まる。」と,スエトニウス=国原吉之助訳『ローマ皇帝伝(上)』(岩波文庫・1986年)330頁のローマ史年表にあります。また,プルタルコス=河野与一訳『プルターク英雄伝(八)』(岩波文庫・1955年)197頁(「ポンペーイウス」60)の割注も,ルビコン川渡河を「前49年1月10日」のこととしています。村川堅太郎教授は「1月7日,元老院はシーザー〔カエサル〕の召還をきめ,戒厳令を発布してポンペイウスに指揮をゆだねた。3日後にこの情報を得たシーザーは,しばらく熟慮したのち,古代にも諺となっていた「骰子は投げられた」の句を吐いて,自分の任地の属州とイタリアとの境をなすルビコン川を渡り,10日の夜のうちにアドリア海岸の要衝アリミㇴムを占領した。」と記しています(村川編『世界の歴史2 ギリシアとローマ』(中央公論社・1961年)311‐312頁)。一見簡単です。しかしながら,実際にはいつのことだったのか,よく考えると難しいところがあります。

(1)季節 :秋

まず季節は,冬ではなく,秋でしょう。紀元前45年のユリウス暦開始に当たって,「この太陽暦が新しい年の1月1日から将来にかけて,季節の正しい推移と,いっそうぴったり符合するように,前の年の11月と12月の間に,2ヶ月をはさむ。/このように調整されたその年は,それまでの慣例上,この年のために設けられていた1ヶ月の閏月も加えて,ついに1年が15ヶ月となった」という季節調整が必要だったのですから(スエトニウス「カエサル」40・スエトニウス=国原前掲書48頁)。

(2)一日が始まる時(暦日の区切り):正子 

次に,ローマ暦では一日は何時から始まったのか。これは意外なことに,根拠と共に明言してくれる日本語文献が少ないようです。真夜中の正子(午前零時)から始まるのが当然だからと思われているからでしょうか。手元にある「ローマ人の一日の時間配分」の表(塩野七生『ローマ人への20の質問』(文春新書・2000年)145頁)も,特段の説明なく正子から一日が始まることになっています。

しかしながら,せっかくインターネットによって世界中から情報を入手できる時代ですので,何らかの文献的根拠ではっきりさせたいところです。そこで英語のウェッブ・サイトをいろいろ調べてみると,紀元2世紀の人であるアウルス・ゲッリウスの『アッティカ夜話』のBook3の2に説明がありました。以下,J.C. RolfeLoeb Classical Library版(1927, Revised 1947)の英訳からの重訳です。

 

どの日が,夜の第三時,第四時及び他の時間に生まれた者の誕生日とみなされ,かつ,そう唱えられるべきかは,よく問われる問題である。すなわち,その夜の前の日なのか,後の日なのか。マルクス・ワッロ〔カエサルの同時代人〕は,彼の書いた『古代史』の「日について」においていわく,「一正子から次の正子までの24時間中に生まれた者らは,同一の日に生まれたものとみなされるものである。」これらの言葉から,日没後ではあるが正子前に生まれた者の誕生日は,そののちに当該夜が始まったところの日であるものとするように,彼は日を分けて数えていたことが分かる。しかしながら他方,夜の最後の六時間中〔「ローマの一時間は日出から日没までを12等分したものなので,夏季と冬季とでは,また昼と夜とでも,長さが違っていた。」(スエトニウス=国原前掲書338頁)〕に生まれた者は,その夜の後に明けた日に生まれたものとみなされるのである。

しかしながら,ワッロはまた同じ書において,アテネ人たちは違った数え方であり,一日没から次の日没までの間の全ての時間を単一の日とみなしている,と書いていた。バビロニア人はまた異なった数え方をしていたとも書いていた,すなわち,彼らは一つの日の出から次の日の出の始まりまでの間の全ての時間を一日の名で呼んでいたからである。しかしウンブリアの地では,多くの人々が正午から次の正午までが同一の日だと言っていたとも,書いていた。・・・

しかしながら,ワッロが述べたように,ローマの人民は毎日を正子から次の正子までで数えていたことは,豊富な証拠によって示されている。・・・

 

 そうであれば,問題は,カエサルがルビコン川を渡ったのは,1月9日の夜が更けて正子を過ぎた同月10日の未明であったのか,それとも1月11日になろうとする同月10日の晩(正子前)であったのか,ということになります。

(3)スエトニウスとプルタルコス 

 

  ・・・カエサルはキサルピナ・ガリアにやってきて巡回裁判を終えると,ラウェンナに踏みとどまる,自分のため拒否権を行使するはずの護民官に対し,もし元老院が何か重大な決定を行なったら武力で復讐してやろうと覚悟して。

  ・・・

  さてカエサルは,護民官の拒否権が無効とされ,彼ら自身首都から脱出した〔「1月7日,門閥派がカエサルの軍隊の解体を決議し,ポンペイユスに独裁官の権限を与える。」とされています(スエトニウス=国原前掲書330頁の年表)。この1月7日の日付は,カエサルの『内乱記』のBook 1, Chapter 5に,a.d. VII Id. Ian.と言及されています。〕という知らせを受けとると,直ちに数箇大隊をこっそりと先発させる。しかし疑惑の念を一切与えぬように表面をいつわり,公けの見世物に出席し,建てる手筈をととのえていた剣闘士養成所の設計図を検討し,いつものように盛大な宴会にも姿を見せた。

  日が暮れると近くの製粉所から驢馬を借り,車につけると,最も人目にたたない道を,わずかの護衛者らとともに出発した。

  松明が消えて正道からそれ,長い間迷い,夜明けにやっと道案内を見つけて,非常に狭い道を徒歩で通り抜けた。

  先発の大隊に追いついたのは,ルビコン川である。この川は彼の治めている属州の境界線であった。しばらく立ち停り,「われながらなんと大それたことをやることか」と反省し,近くに居合わせた者を振り返り,こう言った。

  「今からでも引き返せるのだ。しかしいったん,この小さな橋を渡ってしまうと,すべてが武力で決められることになろう」

  こう遅疑逡巡していたとき,じつに奇蹟的な現象が起った。体格がずばぬけて大きく容貌のきわだって美しい男が,忽然として近くに現われ,坐ったまま葦笛を吹いている。これを聞こうと大勢の牧人ばかりでなく,兵士らも部署から離れて駆け寄った。兵士の中に喇叭吹きもいた。その一人から喇叭をとりあげると,その大男は川の方へ飛び出し,胸一杯息を吸い,喇叭を吹き始めた。そしてそのまま川の向う岸へ渡った。

  このときカエサルは言った。

  「さあ進もう。神々の示現と卑劣な政敵が呼んでいる方へ。賽は投げられた(Iacta alea est)」と。

  こうして軍隊を渡した・・・(スエトニウス「カエサル」30‐33・スエトニウス=国原前掲書384041頁)

 

 これは,夜間渡河ではなく,早朝渡河ですね。 
 しかし,プルタルコスによれば,夜明け前の夜間渡河ということになっています。

 

・・・そこで将軍や隊長に,他の武器は措いて剣だけを持ち,できる限り殺戮と混乱を避けてガリアの大きな町アリーミヌム〔現在のリミニ〕を占領するやうに命じ,ホルテーンシウスに軍勢を託した。

さうして自分は昼間は公然と格闘士の練習に顔を出して見物しながら過ごし,日の暮れる少し前に体の療治をしてから宴会場に入り,食事に招いた人々と暫く会談し,既に暗くなつてから立上つたが・・・自分は1台の貸馬車に乗つて最初は別の道を走らせたが,やがてアリーミヌムの方へ向けさせ,アルプスの内側のガリアとイタリアの他の部分との境界を流れてゐるルービコーと呼ばれる河に達すると,思案に耽り始め大事に臨んで冒険の甚しさに眩暈を覚えて速力を控へた。遂に馬を停めて長い間黙つたまま心の中にあれかこれかと決意を廻らして時を過ごした際には計画が幾変転を重ね,アシニウス ポㇽリオーも含めて居合はせた友人たちにも長い間難局について諮り,この河を渡ることが,すべての人々にとつてどれ程大きな不幸の源となるか,又後世の人人にどれ程多くの論議を残すかを考慮した。しかし結局,未来に対する思案を棄てた人のやうに,その後誰でも見当のつかない偶然と冒険に飛込むものが弘く口にする諺となつた,あの『賽は投げることにしよう。』といふ言葉を勢よく吐いて,河を渡る場所に急ぎ,それから後は駈足で進ませ,夜が明ける前にアリーミヌムに突入してこれを占領した。・・・(「カエサル」32・河野与一訳『プルターク英雄伝(九)』(岩波文庫・1956年)140‐141頁)

 

 渡河の時点において「1月10日」であるということであれば,スエトニウスによれば,1月9日の夕暮れに出発して翌同月10日の早朝にルビコン川を渡ったようでもあります。しかしながら,プルタルコスによれば,1月10日の夕暮れに出発してその夜のうち(正子前)にルビコン川を渡ったように読めます。

(4)距離と移動速度 

 さて,ラヴェンナ・リミニ間の距離は約50キロメートル, ローマ・ラヴェンナ間の距離は350キロメートル超。これらの距離と時間との関係をどう見るかについてギボンの『ローマ帝国衰亡史』を参照すると,同書のVol. I, Chap.Iにはローマの「軍団兵らは,特に荷物とも思わなかった彼らの兵器のほか,炊事用具,築城用具及び幾日分にも及ぶ糧食類を背負っていた。彼らは,恵まれた近代の兵士では耐えられないであろうこの重量下において,歩武を揃えて約6時間で約20マイル移動するよう訓練されていた。(Besides their arms, which the legionaries scarcely considered as an encumbrance, they were laden with their kitchen furniture, the instruments of fortification, and provision of many days. Under this weight, which would oppress the delicacy of a modern soldier, they were trained by a regular step to advance, in about six hours, near twenty miles.)」と,同Chap. IIには,皇帝らの設けた駅逓制度(institution of posts)を利用すれば「ローマ街道伝いに一日で100マイル移動することは容易であった。(it was easy to travel an hundred miles in a day along the Roman roads.)」とあります。古代のローマの1マイルは1480メートルで(スエトニウス=国原前掲書401頁),英国の1マイルは1609メートル。1日で100ローマ・マイルの移動は神速ということのようで,「〔カエサルは〕長距離の征旅は,軽装で雇った車にのり,信じ難い速さで1日ごとに100マイルも踏破した。・・・その結果,カエサルが彼の到着を知らせるはずの伝令よりも早く着くようなことも再三あった。」とあります(スエトニウス「カエサル」57・スエトニウス=国原前掲書65頁)。

 「他の武器は措いて剣だけを持」ったとしても,50キロメートルは兵士らにとってはやはり2日行程であるべきものとすれば,50キロメートル先を1月10日の払暁に襲撃するためにはできれば同月8日に出発すべきということになります。しかし,350キロメートル超離れたところからの1月7日発の連絡の到着にはやはり2日以上はかかって,早くとも同月9日着ということにはならないでしょうか。(弓削達『ローマはなぜ滅んだか』(講談社現代新書・1989年)50頁には,「馬を使った早飛脚の最高の例としては,4世紀の初めの皇帝マクシミヌスが殺害されたことを知らせる早飛脚が,1日約225キロメートル行ったという例がある。120ないし150キロメートルの早飛脚の速度は少しも無理ではなかったと思われる。」とあります。)

(5)1月11日未明ないしは早朝か 

 結局,通常「1月10日の夜」といわれれば,同日の日没から翌11日の夜明けまでのことでしょうから(現在の我々がそうなので古代ローマ人もそうであったと一応考えることにします。),カエサルのラウェンナ出発は,紀元前49年1月10日の夕方ということでよいのではないでしょうか。

しかし,プルタルコス流に夜中に橋をぞろぞろどやどや渡ったというのでは夜盗のようで恰好が悪いので,早朝,神の示現にも祝福されつつ太陽と共に爽やかにかつ勇ましくルビコン川を渡って世界制覇が始まった,というスエトニウス流のお話が作られたのでしょう。(小林標『ラテン語文選』(大学書林・200163頁には「11日にユーリウス・カエサルが軍隊を伴なったままルビコー川を越えてローマ側へ入っている。」とあります。

(なお,11日朝ルビコン川渡河ということでも時間的にはぎりぎりのようですから,11日出発,12日朝に渡河のスケジュールの方が現実的であると判断されるのももっともではあります。キケロー=中務哲郎訳『老年について』(岩波文庫・2004年)のキケロー「年譜」(兼利琢也作成)の13頁では「49年 1月12日,カエサル,ルビコーン川を越え,内乱始まる。」とされています。)

2 2017年1月10日

(1)勝訴
 ところで,筆者にとっての2017年1月10日は,幸先よく勝訴判決を頂くことから始まりました。損害賠償請求事件の被告代理人を務めたものです。「・・・原告の前記(1)主張を認めるに足りる証拠はない。/・・・よって,その余の争点について判断するまでもなく,原告の請求は理由がないから,これを棄却することとし,訴訟費用の負担につき,民事訴訟法61条を適用して,主文のとおり判決する。」というのが当該地方裁判所判決の結論部分で,主文は,「1 原告の請求を棄却する。/2 訴訟費用は原告の負担とする。」というものでした。

 敗訴した原告側としては,証拠が無くとも慰謝料等の損害賠償請求自体はできるものの,裁判になった場合には証拠がないと請求が認められない,という当該分野の専門弁護士の説く一般論そのままの結果に終わったわけです。

(2)「問状」の効力いかん 

損害賠償金の支払を得るべくせっかく弁護士に頼んでお金を払って内容証明郵便や訴状を書いてもらったのに何だ,何の効果もなかったではないか,というのが敗訴原告の憤懣の内容となるでしょうか。

しかしながら,「就訴状被下問状者定例也」(訴状につきて問状を下さるるは定例なり)であるからといって(すなわち,訴状が裁判所に提出されて訴えが提起されると(民事訴訟法133条),裁判長の訴状審査(同法137条)を経て訴状が被告に送達され(同法138条1項),これに対して被告は,口頭弁論を準備する書面として(同法161条),答弁書(民事訴訟規則80条)を裁判所に提出し(同規則79条),かつ,原告に直送することになるところ(同規則83条),実務では,裁判所は,「問状を下す」のではなくて呼出状(当事者の呼出しについて民事訴訟法139条,呼出状の送達に関して同法94条)と一体となった「第1回口頭弁論期日呼出状及び答弁書催告状」といった書面を訴状の副本(民事訴訟規則58条1項)と共に被告に送達します。),それを承けた原告が被告に対して「以問状致狼藉事」(問状をもって狼藉を致すこと)をすること(例えば,「「第1回口頭弁論期日呼出状及び答弁書催告状」と題した問状を裁判所がお前にお下しになっただろう。これは,裁判官様がこちらの訴えが正しいと既にお認めになった証拠である。したがって,往生際悪く裁判所で無慈悲に拷問されるより前にさっさと素直にゲロして答弁書に「私が悪うございました。全て原告の言うとおりです。」と書け。」と迫る詐欺ないしは強迫的な狼藉を致すようなことなど)ができるかといえばそれは「姦濫之企」であって,「難遁罪科」(罪科遁れ難し)であることは,貞永元年(1232年)七月の御成敗式目によっても明らかなことです(第51条。なお,当時は問状は原告が自ら被告に交付していたそうです(山本七平『日本的革命の哲学』(祥伝社・2008年)424頁参照)。)。
 訴状提出による訴訟提起等の直接的効果に関して過大な期待を煽ってはいけませんし,また,「裁判所から書面が送達されて来た。」といってもいたずらに過剰に反応する必要もありません。まずは事実及び証拠です。信用のできる弁護士に相談すべきです。

3 ポンペーイウスの大弁護士 

 話はまた古代ローマに戻って,「賽を投げろ」と賭博的にルビコン川を渡河した(これは「名()○○号に乗()する」のような重複表現なのですが,御容赦ください。)カエサルの攻勢に対しっし対応,ポンペーイウスにはよい参謀はついていなかったものでしょうか。これについては,少なくとも弁護士の選択については,それまでの赫々たる名声だけで「弁護士」ありがたがって安易に帷幄に参じさせてはならないもの
 マルクス・トウㇽリウス・キケロー大弁護士は,カエサルルビコン渡河直後「戦争に対して名誉のある立派な理由を持ってゐた」ポンペーイウスと「情勢をうまく利用して自分自身ばかりでなく仲間のものの安全を図つていた」カエサルとの間で右顧左眄していましたが(プルタルコス「キケロー」
37・プルタルコス=河野与一訳『プルターク英雄伝(十)』(岩波文庫・1956年)209頁),紀元前49年4月のカエサルのイスパニア向け発足後に至って同年6月にギリシヤに向け「ポンペーイウスのところへ渡つた」ものの,そこにおいて「ポンペーイウスがキケローを一向重く用ゐないことが,キケローの意見を変へさせ」,キケロー大弁護士は「後悔してゐることを否定せず,ポンペーイウスの戦備をけなし,その計画を密かに不満とし,味方の人々を嘲弄して絶えず警句を慎しまず,自分はいつも笑はず渋面を作つて陣営の中を歩き廻りながら,笑ひたくもない他の人々を笑はせてゐた」そうです(プルタルコス「キケロー」38・河野訳上掲書210頁)。大先生自らお気に入りの下手なおやじギャグは,味方をまず腐らせるということでしょうか。
 紀元前
48年8月のファルサーロスの「敗北の後に,ノンニウスが,ポンペーイウスの陣営には鷲が7羽(軍旗が7本)残つてゐるからしつかり希望を持たなければならないと云ふと,キケローは『我々が小鴉と戦争をしてゐるのなら君の勧告も結構なのだが。』と云」い,「又,ラビエーヌスが或る託宣を引合に出して,ポンペーイウスが勝つ筈になつてゐると云ふと,キケローは『全くだ。その戦術を使つて今度我々は陣営を失つてしまつた。』と云つた」そうです(プルタルコス「キケロー」38・河野訳前掲書211212頁)。何でしょうねぇ, この当事者意識の欠如は。しかもこの口の達者な大先生は,肝腎の天下分け目の「ファルサーロスの戦には病気のためキケローは加はらなかつた」ものであったのみならず,カエサルに敗れて「ポンペーイウスも逃亡したので,デュㇽラキオンに多数の軍隊と有力な艦隊を持つてゐた〔小〕カトーは,法律に従つてコーンスルの身分で上官に当るキケローに軍の統率を依頼した」ところ,「キケローは支配を辞退したばかりでなく全然軍事に加はることを避けたため,ポンペーイウスの息子や友人たちがキケローを裏切者と呼んで剣を抜いたので,〔小〕カトーがそれを止めてキケローを陣営から脱出させなかつたならば,もう少しで殺されるところであつた」との頼りない有様であったとのことでした(プルタルコス「キケロー」39・河野訳前掲書212頁)。

 

 という難しい大先生がかつていたとはいえ,それでも弁護士は使いようであります。まるっきり法的にも見通しなしの賭博として「賽を投げる」ことはやはり危険でしょう。大事を前にして,信頼できる弁護士を探しておくことは無価値ではないものと思います。

 

 弁護士 齊藤雅俊

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