1 矢内原忠雄教授の「国家の理想」

 東京帝国大学経済学部の矢内原忠雄教授が193712月1日に辞表を提出し,同月4日に退官したいわゆる矢内原事件の原因の一つとして挙げられているのが同年8月に発行された『中央公論』同年9月号掲載の同教授の論説「国家の理想」です(脱稿日は同年8月10日とされています。)。

 

  かくして我らが国家の理想として認識するところは,社会的かつ組織的なる原理,換言すれば社会に組織を付与するところの根本原理でなければならない。かかる性質を有する原理は『正義』である。正義とは人々が自己の尊厳を主張しつつ同時に他者の尊厳を擁護すること,換言すれば他者の尊厳を害せざる限度において自己の尊厳を主張することであり,この正義こそ人間が社会集団を成すについての根本原理である。かかる正義原則の確立維持は,社会成員中強者弱者間の関係の規律において特に重要である。さらに具体的に言えば,弱者の権利をば強者の侵害圧迫より防衛することが正義の内容である。・・・

 

  右のごとく正義が国家に基底を与えるところの,国家以上の原理であるとすれば,それは単に国家内において国家構成員たる各個人各団体相互間の関係の規律,すなわちいわゆる『社会正義』としてのみでなく,国家相互間の関係を規律するもの,すなわち『国際正義』としても妥当しなければならない。国家内にありて強者が自己の生存上の必要という名目のもとに弱者の権利を侵害することが正義原則に反するものであって,国家の本質,国家の理想を裏切り,国家の品位を毀損するものであるごとく,国際間にありて○○○○○○○○○(強国が自国生存上の)必要と称して○○○(弱国の)権利利益を○○○○(侵害する)こともまた正義原則に反するものであり,国家の国家たるゆえんの本質に悖り,国家の理想を裏切り,国家の品位を害するものと言わねばならない。・・・

 

  ・・・○○(正義)原則が発現する形式は平和である。自己の存在するがごとくに他人をも存在せしむること,もしくは他人の存在を害せざるがごとくに自己が存在することが○○○○(正義原則)である以上,自他の関係を調整する具体的政策は○○○○○(平和でしか)あり得ない。自己生存上の必要を理由として他者の生存上の要求を○○○○(侵害する)ことは,正義ではない。単なる自己生存上○○○(の必要)は,いかなる意味においてもこれを正義と名づくるを得ないのである。

  国際正義は国際平和すなわち国家間の平和として,社会正義は国内平和すなわち貧者弱者の保護として現われる。しかして国際正義国際○○(平和)維持によりて,社会正義社会平和もまた,間接に維持せられる。けだし諸般の政治が○○○○○(軍事行動を)目標として計画施設せらるる場合において,一方に軍需成金戦争成金の簇生するに対し,○○○○○○(庶民の負担が)あるいは相対的に,あるいは絶対的に加重せられることは,必ずしも財政経済学者の分析を待ちて始めて知られる事柄ではない。すなわち国際正義はその政策たる国家間の平和を通じて社会正義と関係するのである。国際正義と社会正義とは国家の本質上同根の原理であり,○○○(平和を)もって両者共同の必然的政策とする。要言すれば,正義と平和とこそ国家の理想である。

 

  現実政府はその具体的なる政策遂行上,国民中に批判者反対者なき事をもってもっとも便宜とする。挙国一致とか,国民の一致後援とかいうことは,政府のもっとも要望する国民的態度である。この結果を○○○○(人為的に)作り出すための手段として用いらるるものは,一に弾圧,二に宣伝。○○○○○(批判力ある)反対者の言論発表を禁止することが弾圧であり,批判力乏しき大衆に向って一方的理論のみを供給してその批判力をまぐることが宣伝である。この両者を大規模に,かつ組織的に併用することによりて,○○○(表面的)挙国一致は容易に得られ,政府の政策は国民的熱狂の興奮裡に喝采さえせられる。

 

 ・・・根本的に国家を愛し国家に忠なる者は,当面皮相の政策に迎合することなく,国家の理想を愛し理想に忠なるものでなければならないのである。

  現実政府の具体的政策に対する挙国一致的協力が○○○(国論の)統一を生命とし,異論を許さざるに対し,国家の理想達成のための挙国一致は,愛国の精神においては一致するけれども,形式的には異論を許容する不統一たるを妨げない。異論の主張,批判の存在こそ,かえってこの場合における挙国一致の必要条件である。政府の具体政策が国家の理想を無謬に表現するものでなき限り,一色塗抹的挙国一致はかえって国家の理想探求,達成を妨害するものである。しかるに現実に政府に充当せられたるいかなる個人もしくは団体も,その理想把握,理想達成のための政策決定について全き無謬を主張することは許されざるが故に,国家の理想達成という点より見れば,国家意思の決定は全国民的に,弾力的に,なされねばならない。これ政治上言論自由の尊重せられねばならないところの根本的理由である。また国民中少数者の存在が,国家理想の達成上根本的に必要なる理由である。国家の理想が政府当局者の政策によるよりも,かえって国民中の少数者によりて維持せられし事実は歴史上に乏しくない。イスラエルの預言者のごときはその著例である。我らは今しばらくその一人たるイザヤについて,彼が現実国家を挙げての混迷中にありていかに国家の理想を高唱したかを見よう。

 

 ・・・現実国家の具体的政策を担当する者は国家の機関であるが,国家の理想を担当して国家存立の根本的永遠的政策を指示するものは預言者である。国民は国法的には国家機関の決定せる政策に服従しなければならぬが,理想界においては預言者の言に服従しなければならない。しかして理想に基づきて現実が指導せられる時,そこに始めて現実国家の基礎は鞏固たるを得るのである。真の愛国は現実政策に対する附和雷同的一致に存するのではない。かえって附和雷同に抗しつつ国家の理想に基づいて現実を批判する預言者こそ,国家千年の政策を指導する愛国者であるのだ。

 

 ・・・外面的粉飾よりも,内面的湧出。教養よりも理想。学者より預言者。現実界の混迷が加わる時代において益々必要なるはこれである。

 

 ・・・ここにおいてか国家非常時に対する哲学・宗教の任務の特に重要なるを知るのである。(『中央公論』196011月号再掲版。伏字の箇所は『日本の傷を医す者』から復元)

 

 1937年「8月24日,〔講演旅行中の矢内原教授の〕高松から大島への移動中,同行していた者の一人が『中央公論』9月号を購入し,巻頭論文であるはずの「国家の理想」が削除処分になっているのを発見」したということでしたが(将基面貴巳『言論抑圧』(中公新書・2014年)49-50頁),当局(当時は第1次近衛内閣)はどの点を問題にしたものでしょうか。

 

2 第1次近衛内閣と大陸状勢

 

  昭和12年(1937)6月4日,親任式が行われると,その夕,近衛〔文麿〕新首相は,落ち着いた比較的澄んだ声で,ラジオから国民に訴えた。国際正義にもとづく真の平和と社会正義の実現のために,「改革すべきものは進んでこれを改革し,日に新たに日にまた新たなるを期したい」と作家山本有三が起草にあずかったというこの演説は,新鮮な表現で好評を博した。(林茂『日本の歴史25 太平洋戦争』(中央公論社・1967年)40-41頁)

 

 「国際正義」,「平和」及び「社会正義」は,必ずしもdirty wordsではないようです。ただし,近衛文麿のいう「国際正義」は「民族間の公平」ということで,「「持てる国」と「持たざる国」の対立が国際政治の基本」になっている当時の状況では実現されておらず,「日本は民族の生存権の確保を目的とする大陸政策を必要としている」という認識をもたらすものであったそうです(林43-44頁)。

 大陸では,1937年7月7日には蘆溝橋事件,同月11日日本政府華北派兵声明,同29日通州事件,同年8月9日上海で大山勇夫海軍中尉殺害事件,同月13日第2次上海事変と事態が推移していましたが,同月15日の政府声明では,「暴支膺懲」が唱えられながらも,なお「平和」にリップ・サーヴィスがされています。

 

  帝国は,つとに東亜永遠の平和を冀念し,日支両国の親善提携に,力をいたせること,久しきにおよべり。・・・

  かえりみれば,事変発生以来,しばしば声明したるごとく,帝国は隠忍に隠忍をかさね,事件の不拡大を方針とし,つとめて平和的且局地的に処理せんことを企図し・・・

  ・・・帝国としては,もはや隠忍その限度に達し,支那軍の暴戻を膺懲し,もって南京政府の反省をうながすため,今は断乎たる措置をとるのやむなきにいたれり。

  かくのごときは,東洋平和を念願し,日支の共存共栄を翹望する帝国として,衷心より遺憾とするところなり。しかれども,帝国の庶幾するところは,日支の提携にあり。これがために排外抗日運動を根絶し,今次事変のごとき不祥事発生の根因を芟除すると共に,日満支三国間の融和提携の実を挙げんとするのほか他意なく,もとより豪〔毫〕末も領土的意図を有するものにあらず。また,支那国民をして,抗日におどらしめつつある南京政府,及び国民軍〔ママ〕の覚醒をうながさんとするも,無辜の一般大衆に対しては,何等敵意を有するものにあらず。かつ列国権益の尊重には,最善の努力を惜しまざるべきは言をまたざる所なり。(風見章『近衛内閣』(中公文庫・1982年(原著1951年))43-45頁から。下線は筆者)

 

第1次近衛内閣の内閣書記官長(今の内閣官房長官)・風見章によれば「この声明では,表面,日本政府は,不拡大方針を投げすてて,徹底的に軍事行動を展開するかもしれぬぞとの意向を,ほのめかしているものの,しかし,実際のところ,それは真意ではなかった。・・・かかる声明を出すことに近衛氏が賛成したというのも,これによって現地解決の機運を促進する効果をねらってのことであったのは,いうまでもない。だから,この声明を発表するにあたっては,その発表の責任者であるわたしが,特に,不拡大現地解決の方針は依然これをかたく守るのだと,ことわったのである。」ということですが(風見45頁),「帝国としては,もはや隠忍その限度に達し,支那軍の暴戻を膺懲し,もって南京政府の反省をうながすため,今は断乎たる措置をとるのやむなきにいたれり。」というような激しい言葉を中央が言いっ放しにして,あとは現地で何とかしてよ,というのはどうなんでしょうか。

 

〔当該政府声明を決めた〕閣議は,真夜中までも続けられた。そこで世間では,情勢の検討や前途の見通しなどについても,活発なる意見の交換がおこなわれて,重大時局下の閣議たる面目を大いに発揮したことだろうと想像したらしいが,実をいうと,そうではなく,まことに,たあいもなく時をすごしてしまったのであった。というのは,〔杉山元〕陸相から声明の案文〔事前に陸軍省から内閣書記官長に話はなかったとされています(風見43頁)。〕がくばられると,いずれも黙って目を通していたが,そのうちに,広田(弘毅)外相から,「共産主義勢力」という文句があったのを,これはソ連をも問題にしているように誤解される心配もあるので,ほかに適当な文句はないものかと,言い出したのである。・・・すると,この発言を中心に,ああでもない,こうでもないと,思いつきを言い出すものもあり,ひとしきり,このことで話に花が咲いた。それからは,声明文のほうはそっちのけにして,とりとめもない雑談となり,そんなことで思わず時をすごしてしまい,結局「共産主義勢力」は,「赤化勢力」という文句にとりかえると話がきまったころは,真夜中になってしまったのである。そのあいだに,不拡大方針がいいとか,わるいとか,現地解決ができるという見通しは,あたっているとか,いないとかいうようなことは,議題として取り上げられることもなかったのである。(風見45-46頁)

 

 何だか頼りないですね。「当時は,近衛氏の人気は,他の政治家たちの影をすこぶる薄くしたほどで,ひとり,この人にこそ洋々たる前途があるのだと,一般から期待されていた」そうですが(風見33頁),この人しかない,というのは危険でした。

 2日後の1937年8月17日の閣議では,「従来執り来れる不拡大方針を抛棄し,戦時態制上必要なる諸般の準備対策を講ず」るものとあっさり決定されています(林54頁)。

 

3 国民精神総動員

しかし,頼りない現実政府ではあったところ,その「具体的政策に対する挙国一致的協力」は,「国論の統一を生命とし,異論を許さざる」ものたるべし,ということになったようです。1937年8月24日には,国民精神総動員実施要綱が閣議決定されます(同年9月13日発表)。

 

一,趣旨

挙国一致堅忍不抜ノ精神ヲ以テ現下ノ時局ニ対処スルト共ニ今後持続スベキ時艱ヲ克服シテ愈々皇運ヲ扶翼シ奉ル為此ノ際時局ニ関スル宣伝方策及国民教化運動方策ノ実施トシテ官民一体トナリテ一大国民運動ヲ起サントス

 

二,名称

「国民精神総動員」

 

三,指導方針

(一)「挙国一致」「尽忠報国」ノ精神ヲ鞏ウシ事態ガ如何ニ展開シ如何ニ長期ニ亘ルモ「堅忍不抜」総ユル困難ヲ打開シテ所期ノ目的ヲ貫徹スベキ国民ノ決意ヲ固メシメルコト

(二)右ノ国民ノ決意ハ之ヲ実践ニ依ツテ具現セシムルコト

(三)指導ノ細目ハ思想戦,宣伝戦,経済戦,国力戦ノ見地ヨリ判断シテ随時之ヲ定メ全国民ヲシテ国策ノ遂行ヲ推進セシムルコト

(四)〔略〕

 

四,実施機関

(一)本運動ハ情報委員会,内務省及文部省ヲ計画主務庁トシ各省総掛リニテ之ガ実施ニ当ルコト

 (二)〔略〕

 (三)〔略〕

 (四)市町村ニ於テハ市町村長中心トナリ各種団体等ヲ総合的ニ総動員シ更ニ部落町内又ハ職場ヲ単位トシテ其ノ実行ニ当ラシムルコト

 

 五,実施方法

(一)内閣及各省ハ夫々其ノ所管ノ事務及施設ニ関連シテ実行スルコト

 (二)広ク内閣及各省関係団体ヲ動員シテ夫々其ノ事業ニ関連シテ適当ナル協力ヲ為サシムルコト

 (三)〔略〕

 (四)市町村ニ於テハ総合的ニ且部落又ハ町内毎ニ実施計画ヲ樹立シテ其ノ実行ニ努メ各家庭ニ至ル迄滲透セシムルコト

 (五)諸会社,銀行,工場,商店等ノ職場ニ就キテハ其ノ責任者ニ於テ実施計画ヲ樹立シ且実行スルコト

 (六)各種言論機関ニ対シテハ本運動ノ趣旨ヲ懇談シテ其ノ積極的協力ヲ求ムルコト

 (七)ラヂオノ利用ヲ図ルコト

 (八)文芸,音楽,演芸,映画等関係者ノ協力ヲ求ムルコト

 

 六,実施上ノ注意

 (一)本運動ハ実践ヲ旨トシテ国民生活ノ現実ニ滲透セシムルコト

 (二)従来都市ニ於ケル知識階級ニ対シテハ徹底ヲ欠ク憾アリシヲ此ノ点ニ留意スルコト

 (三)社会ノ指導的地位ニ在ル者ニ対シ其ノ率先躬行ヲ求ムルコト 

 

三(一)にいう「所期ノ目的」とは何でしょうか。支那事変(1937年9月2日に北支事変から改称)の「不拡大現地解決」ではもはやないのでしょう。やはり,「支那軍の暴戻を膺懲し,もって南京政府の反省をうながす」までとことんやるということでしょうね。

三(二)は,「右ノ国民ノ決意ハ之ヲ実践ニ依ツテ具現セシムルコト」ということになっていますから,静かなる決意とか,秘めたる愛国心というようなものではだめで,お上や周囲に対する積極的プレゼンテーション能力を要したものでしょうか。ちょっと騒々しいことになったようです。

南京政府のなすべき反省及び謝罪についても,「実践ニ依ツテ具現セシムルコト」とする趣旨だったのでしょうか。

東京帝国大学教授は,正に「社会ノ指導的地位ニ在ル者」なのですから,「率先躬行」して(六(三)),「国民中に批判者反対者なき」「挙国一致」の実現に協力することが期待されていたわけです。1938年発生の河合栄治郎教授休職事件に関連する文部省資料には,「矢内原教授ノ思想内容ニハ著シク〔支那〕事変遂行ノ障碍トナルモノアリテ之ガ急速ナル処置ヲ必要トシタ」との記載があったそうです(将基面80頁)。

しかし,「都市ニ於ケル知識階級ニ対シテハ徹底ヲ欠ク憾」(六(二))はなかなか解消できなかったようです。1941年2月26日の段階で,内閣情報局(1940126日設置)第二課と自由主義的な編集方針の中央公論社編集幹部との懇談会(五(六)参照)において,中央公論社の嶋中雄作社長の「命令さえ下せば国民がいうことを聞くと思ったら,それは間違いだ,ただ知識階級に対する言論指導はわれわれが専門とするところであるから自分たちに任せてもらえないか」との発言に対して,同課情報官の鈴木庫三少佐は激高し,「このさいに君はなにをいうか。そういう考えをもっている人間が出版界にはびこっているから,いつまでたっても国民は国策にそっぽをむくのだ。」と吠えて,国民精神総動員運動にかかわらず国民は依然国策にそっぽを向いていたという現実をはしなくも明らかにしています(将基面211-212頁)。矢内原忠雄教授も,1940年の『余の尊敬する人物』(岩波新書)の「エレミヤ」伝において,紀元前7世紀末のユダ王国ヨシヤ王の申命記改革に関して「これは国民の心から湧き上つた改革運動ではなく,王の命によつて始められた一の政治的な運動でありましたから,すべての官僚的国民精神運動と同様,その改革は制度儀式等外形的なる表面の事に終り,国民の心の傲りを摧き,心そのものを神に向けかへらせる力はなかつたのです。」と記して(12頁),「官僚的国民精神運動」なるものの限界を指摘しています。

矢内原教授の「国家の理想」を19371124日の東京帝国大学経済学部教授会において問題とした土方成美学部長は,「私はこの論文を一読して,時節柄不適当であると思った。もっともこの論文は今日読んでみると全く何でもない,たわいもないものである。幸福なる平和時のあげつらいなら別である。しかし,当時としては問題であった。預言者イザヤの言を引いて,如何にも,わが国が理不尽の戦争をしているようなことが諷刺してある。・・・大衆雑誌において諷刺的に時局を皮肉るような論文は,いたずらに人心を腐らせ,前線将兵の士気を沮喪させるだけであって,時局の収拾に何の役にも立たない。・・・」と後に回顧していますが(将基面120頁),文部省の通牒に従って同年11月3日の明治節に明治神宮に東京帝国大学経済学部関係者が全員参拝しないと大陸で「戦敗を喫する」と心配していた同学部長としては(将基面113-114頁),たかが諷刺では済まされない問題だったのでしょう。(ドイツのファルケンハウゼン将軍の指導下にある堅固な陣地を前に膠着苦戦の上海周辺戦線突破をもたらした柳川兵団の杭州湾上陸は,ようやく同月5日のことでした。なお,風見章は,ファルケンハウゼンを第一次世界大戦中のドイツ参謀総長ファルケンハイン(小モルトケの後任としてシュリーフェン・プラン挫折の後始末を担当)と混同しています(風見73頁)。内閣は統帥事項に関与できぬため柳川兵団の上陸地点を閣議で陸軍大臣から教えてもらえず,新聞記者から杭州湾であるよと教えてもらったような有様の内閣書記官長だったとはいえ(風見49-50頁),とほほ。)

 

4 「敵国降伏」

 

(1)イザヤ対アッシリア帝国

しかし,敵軍敗退のための神頼みのためには,イザヤ(ユダの王ウジヤ,ヨタム,アハズ,ヒゼキヤの世に活躍したアモツの子イザヤ(第一イザヤ))はなかなか縁起のよい預言者だったはずです。

紀元前8世紀の末,既に北のイスラエル王国を滅ぼしていたアッシリアは,セナケリブ王の下,大軍をもって南のユダ王国の首都・エルサレムを攻略しようとします(ダビデ王の息子である有名なソロモン王の歿後,紀元前10世紀後半にイスラエル人の王国は南北に分裂していました。紀元前722年に北王国は滅亡しています。)。

 

〔ユダ王国の〕ヒゼキヤ王はこれを聞いて,衣を裂き,荒布を身にまとって主の宮に入り,宮内卿エリアキムと書記官セブナおよび祭司のうちの年長者たちに荒布をまとわせて,アモツの子預言者イザヤのもとにつかわした。・・・イザヤは彼らに言った,「あなたがたの主君にこう言いなさい,『主はこう仰せられる,アッスリヤの王の家来たちが,わたしをそしった言葉を聞いて恐れるには及ばない。見よ,わたしは一つの霊を彼らのうちに送って,一つのうわさを聞かせ,彼を自分の国へ帰らせて,自分の国でつるぎに倒れさせるであろう』」。

 ・・・

 その時アモツの子イザヤは人をつかわしてヒゼキヤに言った,・・・それゆえ,主はアッスリヤの王について,こう仰せられる,『彼はこの町にこない,またここに矢を放たない,盾をもってその前に来ることなく,また塁を築いてこれを攻めることはない。彼は来た道を帰って,この町に,はいることはない。主がこれを言う。わたしは自分のため,またわたしのしもべダビデのためにこの町を守って,これを救うであろう』」。

 その夜,主の使が出て,アッスリヤの陣営で18万5千人を撃ち殺した。人々が朝早く起きて見ると,彼らは皆,死体となっていた。アッスリヤの王セナケリブは立ち去り,帰って行ってニネベにいたが,その神ニスロクの神殿で礼拝していた時,その子アデランメレクとシャレゼルが,つるぎをもって彼を殺し,ともにアララテの地へ逃げて行った。そこでその子エサルハドンが代って王となった。(列王紀下第191-26-72032-37。また,イザヤ書第371-26-72133-38

 

 そこでヒゼキヤ王およびアモツの子預言者イザヤは共に祈って,天に呼ばわったので,主はひとりのみ使をつかわして,アッスリヤ王の陣営にいるすべての大勇士と将官,軍長らを滅ぼされた。それで王は赤面して自分の国に帰ったが,その神の家にはいった時,その子のひとりが,つるぎをもって彼をその所で殺した。このように主は,ヒゼキヤとエルサレムの住民をアッスリヤの王セナケリブの手およびすべての敵の手から救い出し,いたる所で彼らを守られた。(歴代志下第3220-22

 

 死の天使は怖いですねえ。18万5千人といえば,文永の役における元軍2万5ないし6千人及び船員等6千7百人余(黒田俊雄『日本の歴史8 蒙古襲来』(中央公論社・1965年)82-83頁)並びに弘安の役における元の東路軍4万人(同111頁)及び江南軍10万人(同114頁)の合計に匹敵します。

 

(2)叡尊対モンゴル帝国

ところで,我が神風も,祈祷の力で来たったものです。

すなわち,奈良西大寺の思円上人叡尊が弘安四年(1281年)閏七月一日,石清水八幡宮で,「異国襲来して貴賤男女すべて歎き悲しんでおります。もはや神明もこの神国をほろぼし,仏陀も見捨てたもうたのでありましょうか。たとえ皇運は末になり政道に誠なくとも,他国よりはわが国,他人よりはわれらを,神仏はどうして捨てさせたもうでしょう。昔,八幡大菩薩が,『天皇の勢いおとろえ人民の力がなくなったときこそ』と誓わせたもうたのも,実にいまこのときのためでありましょう。そもそも異国をわが国土とくらぶれば,蒙古は犬の子孫,日本は神の末裔,かれらはすでに他国の財宝をうばい,人民の寿命をほろぼす殺盗非道の輩であります。わが国が仏法を守り神祇をうやまい,正理を好む国であるからには,かならずや仏陀も知見したまい,神々も照覧したもうはずであります」と祈祷したところ,「そのとき,神厳微塵も動かぬ社殿に不思議や幡(柱にかけた飾り布)がかすかにゆれ,ハッタと鳴った。ああこれぞ大菩薩の納受したもうたしるしよと人々の信仰はいよいよ深まった」のですが(黒田123-125頁),正にその時,九州では神風が吹いて元軍は覆滅していたのでした(なお,叡尊は「願わくば八幡,大風を起こし,敵兵の命を損ずることなく敵船をかの国へ吹き還したまえ」と優しく祈っただけだったそうです(同147頁)。)。

ただし,1936年版の文部省『小学国史教師用書』によれば,「されどこの〔対元〕勝利は,主として挙国一致熱烈なる愛国の精神にまつところ多し。かしこくも亀山上皇は宸筆の願文を伊勢の神宮にさげ,御身を以て国難に代らんことを祈りたまひ・・・全国の社寺は敵国降伏の熱祷をさぐるなど,かかる愛国精神の発揮が,やがてこの未曾有の国難をはらひ,国威を宇内に発揚せし所以なり。」とされていて(黒田124頁),叡尊のことには直接言及されていません。また,亀山上皇の宸筆は,伊勢の神宮には届いたとされていますが,福岡の筥崎宮に掲げられた有名な「敵国降伏」の額の由来についてはここでは触れられていません。

 

5 エレミヤ・哀歌・バビロン捕囚

 

(1)エレミヤ

 しかし,せっかく穏便に救国の預言者第一イザヤを引用したのに売国奴よばわりされて東京帝国大学を追われた矢内原教授は,以後本格的に,「非愛国者,国賊,平和主義者,反軍思想等々と人に罵られ迫害せられた」(矢内原『余の尊敬する人物』39頁)ユダ王国滅亡期(紀元前7世紀末から同6世紀初めまで)の過激な預言者エレミヤに傾倒します。「過ぐる戦争の間,私の思ひは屡旧約聖書の預言者エレミヤの上にあつた。終戦後の今日も,私は度々彼と涙を共にする。」とは,1948年8月9日脱稿の「管理下の日本―終戦後満三年の随想―」の一節です(『矢内原忠雄全集第19巻』(岩波書店・1964年)411頁)。

 

(2)哀歌

 エレミヤが紀元前6世紀初めのエルサレム破壊後に哀歌を作ったように,矢内原教授も先の大戦終了直後に哀歌を作っています(「日本精神への反省」『矢内原忠雄全集第19巻』54-57頁)。

 

  ああ哀しいかな此の国,肇りて二千六百年,

  未だ曾て有らざるの国辱に遭ふ。

  ・・・

  天皇,祖宗の神霊と民衆赤子との前に泣き給ひ,

  五内為めに裂くと宣ふ。

  民は陛下の前に泣き,相共に

  天地の創造主の前に哭す。

  神よ,我らは罪を犯し我らは背きたり,

  汝之を赦し給はざりき。

  ・・・

  引き出せ,偽の指導者を,

  連れ来たれ,偽の預言者を。

  汝ら国を誤りたるによりて,

  君は辱しめられ,民害はる。

  剣によりて建てしものは剣によりて奪はれ,

  七十年の辛苦一日にして潰え,

  二千年の光栄一夜にして崩れ,

  空に光なく,民に生気なし。

  ・・・

  人おのれの罪の罰せらるるを呟くべけんや,

  むさぼりとたかぶり,我らを此処に導き,

  神は一銭をも剰さず,報を要求し給ひぬ。

  ヱホバこの軛を負はせ給ふなれば,

我ら満足るまでに恥辱を受けん。

そは主は永久に棄つることを為し給はず,

我らの患難を顧み給ふ時来らん。

その時責むる者は責められ,

驕る者は挫かれ,謙る者挙げられん。

もろもろの国ヱホバの前に潔からず,

戦敗必ずしも亡国ならず。

我らは武力と財力とに恃むを止め,

むしろ苦難によりて信仰を学ばん。

かくてヱホバ義しく世界を審き給ふ日に,

我ら永遠の平和と自由を喜び歌はん。

 

 「むしろ苦難によりて信仰を学ばん」の信仰はキリスト教の信仰でしょうが,キリスト教は我が国体と両立せざるものにあらず。「天照大御神或ひは天皇の問題に就いて論じませぬといけませんけれども,私は基督教の信仰によつて実際的にも思想的にも日本の国体を毀すものではなく,却つて一層美しく又一層確実なものとすることが出来ると思うのであります。」とのことでした(矢内原「日本精神への反省」54頁)。なお,「引き出せ,偽の指導者を,/連れ来たれ,偽の預言者を。」の部分は,『余の尊敬する人物』の「エレミヤ」伝の「卑怯なること蓑虫の如く,頑固なること田螺の如く,胸に悪意を抱き,人を陥るるを喜とする汝らパシシュル,ハナニヤ輩よ。エレミヤを非愛国者として誣告し中傷し迫害したる偽預言者,偽政治家らよ。彼の言に聴き従はず,彼をして悲憤の涙を飲ましめたる国民よ。汝らこそ真理を紊し,正義を破壊し,国に滅亡を招いたのである。」の部分(54頁。また,将基面165頁参照)に対応するようです。

 

(3)バビロン捕囚と日本占領

 エルサレム破壊後は「七十年」のバビロン捕囚が続くので,エレミヤにおそらく自らをなぞらえていたであろう矢内原教授は,自然,連合国の日本占領をユダヤ人のバビロン捕囚になぞらえることになります。なお,矢内原教授は,バビロン捕囚を「ユダヤ国民にとりて甚だ大なる試煉であつた。それは彼らの過去の歴史と選民たるの自覚に対する大なる屈辱の期間であつた。」としつつも,その間「属地的民族主義的であつた彼らの宗教思想は霊的・世界的視野に高められ,広くせられ,純粋化せられたのである。バビロン人の世界観に接したことが,彼らの思想の内容を豊富にしたことも認められる。要するにバビロン捕囚の七十年はユダヤ民族にとりて決して無駄ではなかつた。否,信仰によりて之に処するとき,それは彼らの宗教の純化と世界化に役立つ恩恵の機会となつたのである。」と評価しています(矢内原「管理下の日本」412頁)。

 

 〔バビロン捕囚から暗示される教訓としては〕第1に,日本の敗戦と敗戦後の運命が決して偶然的出来事でなく,正当なる歴史の審判であるとの認識である。宗教的表現を用ひれば,それは神の意思より出でた審判であるとの信仰である。この認識と信仰を以て今日の環境に処する時,始めてわれらは時局に対し落着いた,正しき自主的態度を取ることが出来る。連合軍の日本管理は容易に終止しないであらう。それは日本の民主主義化が成就するまで継続するであろう。その為めに何年若しくは何十年を要するかを知らないが,決して短い期間では今日の占領状態は終らないであらう。その事を理解して忍耐と服従を以て神の意思に順ふところに,日本復興のいとぐちが得られる。之に反し,神の意思に対する従順を欠く軽挙妄動は,日本の復興を妨げ,ますます自由を喪失せしむる以外の何ものでもないであろう。(矢内原「管理下の日本」414頁)

 

連合国軍の日本占領は終了まで「何年若しくは何十年を要するかを知らない」と思っていた矢内原教授にとっては,1949年の暮れにはもう講和問題が論ぜられるようになったこと(同年11月1日,アメリカ合衆国国務省は,対日講和条約案起草準備中と発表)は,意外だったのかもしれません。同年1225日の講演にいわく。

 

 ・・・日本の講和の問題・安全保障の問題を考へて見れば,凡ては世界平和を条件としてをることがわかります。日本の講和と安全保障は世界平和を目的としてをると共に,それを条件としてをるのであります。日本に対する講和は,多くの人が指摘してをるやうに,連合国から日本に対して課せられるものであります。それは連合国から与へられるものでありまして,日本と連合国との間に講和談判といふものはないのです。御承知のやうに日本は無条件降伏をした国でありまして,生かさうが殺さうが,連合国の御意のままであります。我々はまないたの上に載せられた鯉のやうなものであります。日本から,かういふ講和を結んで下さい,といふことを言ひ得る立場ではないのであります。心に願ふことはありましても,それは申しません。少くとも私はそれを申しません。私の申すことは,連合国が互に講和するやうに,といふことであります。

 ・・・

 そして我々は,我々に講和が与へられるまで静かに待つといふのが,日本国民のとるべき態度であると信ずるのであります。物欲しさうな態度をして人の袖の下に手を出すことは,終戦直後腹のすいた子供たちや大人までもが,進駐軍の投げ与へるチョコレートやキャラメルや残飯に飛びついたと同じことでありまして,見苦しい。(「講和問題と平和問題」『矢内原忠雄全集第19巻』462-463頁)

 

 「我々に講和が与へられるまで静かに待つ」ということは,結局占領継続ということになりますが,それでよいのでしょうか。しかし,エレミヤとバビロン捕囚と,そしてキュロス大王出現までの期間のこととを考えれば,まだ日本の占領は5年も続いていないのであるからしてしばし待て,ということになるようです。

 

  私共は聖書を学びまして,日本が置かれてをる今日の国際的地位が,あの紀元前第6世紀のバビロン捕囚の時代とよく似てをることを感じます。エレミヤたちの預言に拘らず,ユダの国民は己が罪を悔改めなかつたが為めに,国は滅され,国民の多くは虜になつてバビロンに携へられました。第1回の捕囚は紀元前597年,第2回の捕囚は586年,バビロン王ネブカデネザルの軍勢のために都エルサレムは荒されて,国民の大多数は捕虜になつたのです。それから紀元前538年ペルシャ王クロスによつてバビロンが滅される其の時まで,約60年の間ユダの国民はバビロンで捕虜生活をつづけたのであります。

  日本の今置かれてゐる状態は,ユダの国民のバビロン捕囚と比べまして,似てをる点もあるが異つてをる点もある。我々の親であり子であり兄弟である何十万といふ同胞が,ソ連への捕虜となつてまだ彼地に滞在してをります。そして日本本国は連合軍の占領の下にあるのであります。・・・私共はかかる状態の終る日を待ち望んでをります。帰るべき者が健全に帰つて来る日を待つてをります。併しその時は連合国が与へるものであります。それ故に私共の根本的な態度は,待つといふことであります。願ひはするけれども,我々の力によつて獲得できる性質の事柄でありません。(矢内原「講和問題と平和問題」463-464頁)

 

待つ者の態度は,泣いて,祈って,神を信ずることを学ぶ,ということになります。

 

 ・・・嘗てバビロン捕囚によつてユダの国民の宗教が深められ其の視野が広められたやうに,我々の国民も今日占領下第5回のクリスマスを迎へまして,遠くかの地に未だ抑留せられてをるものを考へて我々の視野を深くし,世界平和を念願する心の目を広く開かれる。このことを我らに教へるものが,基督教の福音であるのです。泣いて祈つて学んで我々の視野を広くしてくれるもの,此の基督教の福音によりまして,始めて私共は平和を信ずる信仰の根柢を得るのであります。(矢内原「講和問題と平和問題」465頁)

 

結局,「講和問題は我々の最大且つ終局の問題ではありません。日本に対する講和は,私共が急ぐ問題ではないのであります。」ということになって講和問題は喫緊の課題ではないということにされ,「私共の急ぐべき問題は,キリストの福音によつて与へられた永久の平和を私共がしつかりと心に受けとつて,この平和の福音を人々の間に恐れず怯まず宣べ伝へるといふ責任であります。」ということになります(矢内原「講和問題と平和問題」470頁)。

 難しい。「曲学阿世」の分かりやすさはありません。