1 責任と「責任」

責任というのは,難しい言葉です。

 

(1)日本語

 国語辞書的には,責任は,「人や団体が,なすべき務めとして,みずから引き受けなければならないもの。「それは彼の――だ」「――を取る」「――を果たす」」とされています(『岩波国語辞典 第四版』(1986年))。

 「なすべき務め」というから,責任は作為義務(なす債務)ということですね。その内容は,善良な管理者の注意義務で決まる(民法644条)ということになるようです。

 

(2)民法

 しかし,民法を勉強していると,違う「責任」が出てきて,頭を大いにひねることになります。

 

  執行力のうち,特に金銭債権について,債務者の一般財産への強制執行(差押え・換価)により債権の内容を実現する効力を摑取力(かくしゅりょく)といい,この摑取力に服することを,債務者の責任という。これに対して,債権の内容をそのままの形で強制的に実現する効力のことを貫徹力ということがある。(内田貴『民法Ⅲ債権総論・担保物件[第2版]』(東京大学出版会・2004年)111頁)

 

「○○力」が出てくると,自己啓発本みたいですね。

しかし,「債務者に責任があるのは当たり前だろう。」と普通に考えて(確かに,日本語では前記のとおり,責任=債務です。),この辺を気楽に読むと,少し先の頭の体操で難儀することになります。

 

 ・・・執行力のない債権はあるだろうか。/たとえば,執行しないとの特約をした債権はこれにあたる。判決はもらえる(したがって自然債務ではない)が,執行はできない。特に,金銭債権の場合,執行できないということは,債務者の一般財産が債務の引当になること(つまり責任)がない,ということを意味する。このため,責任なき債務と呼ばれる。(内田113頁)

 

「貧乏で財産がないから差し押さえるべき財産も無いということか。それで執行しないことにしてもらったのか。つまり,貧乏なくせに借金するのは無責任なやつということかな。」というわけではありません。「責任」なき債務の場合,債務者がどんなにお金持ちであっても債権者は債務者の財産に手をつけることができず,かつ,そのことは債務者の人格の道徳的評価とは無関係です。債務者の性格が無責任なのではなくて,債務に「責任」が伴っていないだけです。したがって,「責任」のない債務は,善意の第三者に債権譲渡されてもなおその「責任」のない性質を持続するものとされています(我妻榮『新訂債権総論』(岩波書店・1964年)74頁)。

 

  これに対して,責任だけがあって債務がない場合もある。たとえば,友人が借金するというので自分の土地を担保に提供し,抵当権を設定した場合である。このような人のことを物上保証人という。債務は負っていないが,友人が弁済しなければその土地が債務の引当になるという意味で責任のみを負っている。(内田113頁)

 

「なるほど。金を返さなきゃならないのは債務者で,物上保証人は抵当権設定のための書面に,債務者に頼まれてはんこを押しただけだからね。つまり,保証人は,自分が金を返すという債務を債権者に対して負わないってことだね。」とまとめると,間違いということになってしまうのが法律の困ったところです。物上保証人は債権者に対して債務者ではないのですが,「物上」のつかない保証人(「連帯」保証人を含む。)は,債権者に対して保証債務を負う債務者です。保証契約は,保証人と債務者との間の契約ではなくて,保証人と債権者との間の契約です。

 

(3)ゲルマン法とSchuld und Haftung

債務と「責任」とを分けて論ずる煩瑣な思考は,ゲルマン法由来であるそうです。

 

 一定の財産が債務の「引き当て」(担保)となっていること,いいかえれば,債務が履行されない場合にその債権の満足をえさせるために一定の財産が担保となっていることを「責任」(Haftung)という。債務(Schuld)は一定の給付をなすべしという法律的当為(rechtliches Sollen)を本質とするのに対し,責任はこの当為を強制的に実現する手段に当る。元来かような意味での債務と責任とを区別することは,ゲルマン法において顕著であったといわれている。そこでは,債務自体としては,常に法律的当為だけを内容とし,この当為を実行しない者が債権者の摑取力(Zugriffsmacht)に服すること,すなわち責任は,債務とは別個の観念とされた。殊に最初は,契約その他の事由によって債務を生じても,責任はこれに伴わず,責任は別に責任の発生自体を目的とする契約その他の原因によって始めて生じたものであり,またその責任も人格的責任(人格自体が債権者の摑取力に服する)と財産的責任とに大別され,それぞれ更に種々に区別されていた。・・・(我妻72頁)

 

 つまり,責任感あふるる債務者だから「責任」はいらない,ということになるわけです。すなわち,「おれが責任をもって金を返すって言ってるんだから,おれに「責任」まで負わせる必要はないだろう。」「そうだね,きみは責任を果たすから「責任」設定契約まではいらないね。」というような具合です。責任と「責任」とは食い合わせが悪いようです。

 なお,前記の人格的責任は,「ごめんなさい」と道徳的に謝罪をする責任のことではなく,「債奴,民事拘束」(我妻73頁)のように身体が抑えられ,いわばからだで償うことです。

 

2 「責任」のアヤ(und Verantwortung

 ところで,Schuld(債務,罪)とHaftung(「責任」)とは,ゲルマン人の後裔による次のドイツ文では意識的に使い分けられていたのでしょうか。

 

  Wir alle, ob schuldig oder nicht, ob alt oder jung, müssen die Vergangenheit annehmen. Wir alle sind von ihren Folgen betroffen und für sie in Haftung genommen.

 (我々は皆,罪があってもなくても,老いていても若くても,過去を受け入れなければなりません。我々皆に,その帰結はかかわるものであり,かつ,「責任」が及んでいるのです。)

 

 1985年5月8日にされたドイツ連邦共和国のリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領によるドイツ終戦40周年記念日演説(我が国では「荒れ野の40年」演説として知られています。)の一節です。ヴァイツゼッカーは,東部戦線からの復員後,法律を勉強していました。(また,自分の父エルンスト(第三帝国の外交官)の戦争犯罪に係る裁判で弁護のために働いています。)

過去をannehmenするのを「引き受ける」と訳すると,債務引受けが連想されそうなので,別の訳語を採用してみました。「責任」は,能動態で引き受けるものとはされておらず,受動態で及んでいるものとされています。民法の用法ですと,SchuldはないけどHaftungだけ及んでいるということになるようです。„Wir alle, ob schuldig oder nicht, sind in Haftung genommen,“であれば,そういうことでよいのでしょうね。なお, ドイツ大統領官邸ウェッブサイトの英訳版では, 「責任」にliableの語が当てられています。

 前回のブログ記事(「「七十年」と「四十年」」)で,「我々のもとでは,政治責任の分野に,新たな世代が成長してきました。若者は,かつて起こったことには責任を負いません。しかしながら,彼らは,そこから歴史において生ずることに対して責任を負うのです。」とあっさり訳したヴァイツゼッカー演説の部分における「責任」(Verantwortung, verantwortlich)も,日本語の責任とはちょっと違うようです。名詞のVerantwortungには「申し開き,弁明」という意味もあり,動詞のverantwortenには「責任を負う」と共に「申し開きをする」という意味があります。英語のaccountabilityに対する従来の訳語である「説明責任」に該当するものでしょう(ただし, ドイツ大統領官邸ウェッブサイトの英訳版ではresponsibleの語が当てられています。)。すなわち,ドイツの若者は,そこ〔かつて起こったこと〕から(daraus)歴史において生ずる(wird。現在形)ことに対しては「説明責任」を負う(申し開きができるようにする)必要がある,ということのようです。

 責任又は「責任」を論ずるには,やはり,「言葉のアヤ」等「文学方面」をもよく研究しなければならないということを,ドイツ連邦共和国の貴族的(名前にvon付き)国家元首は示しているように思います。

 

 我が国では昭和天皇がその1月に崩御した1989年の11月,東西ドイツを分断するベルリンの壁が落ちた直後,ヴァイツゼッカー大統領は同市のポツダム広場を訪れました。あたかも東側のドイツ民主共和国の兵士たちが東西間の通路を啓開しつつありました。一士官が西側のドイツ連邦共和国大統領に気付きます。同士官は気を付けの姿勢をとり,報告します。

 

 「異常なしであります。大統領閣下。」

 

 リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーは,今年(2015年)1月31日,94歳で歿しました。(Obituary, The Economist. February 14, 2015