1 戦後70

 今年(2015年)は,先の大戦が終わってから70周年ということで,「節目」の年ということになっています。

 

  なお,先の大戦の終結の日には諸説があり得ます。

終戦の詔書は1945年8月14日付けで作成され,同日付けの官報号外で公布されています。中立国経由の連合国に対するポツダム宣言受諾の通知もこの日にされています。

他方,1945年9月2日には,重光葵及び梅津美治郎がポツダム宣言の条項を「日本国天皇,日本国政府及び日本帝国大本営ノ命ニ依リ且ツ之ニ代リ受諾」し,並びに「日本帝国大本営並ニ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本国軍隊及日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ノ聯合国ニ対スル無条件降伏ヲ布告」し,及び「日本帝国大本営ガ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本国軍隊及日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ノ指揮官ニ対シ自身及其ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ガ無条件ニ降伏スベキ旨ノ命令ヲ直ニ発スルコトヲ命」ずる「降伏文書」が東京湾上において署名され,かつ,聯合国最高司令官及び各聯合国代表者によって受諾されました。

1945年8月15日は,正午に社団法人日本放送協会によって前記終戦の詔書(・・・「朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇4国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ・・・」)の玉音放送がされた日です。

 

 2015年2月25日に内閣総理大臣官邸4階の大会議室で開催された20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会(21世紀構想懇談会。「戦後70年談話」にかかわるものだそうです。)の第1回会合において,同懇談会座長の西室泰三日本郵政株式会社取締役兼代表執行役社長は「戦後70周年という節目の年に,大変重要な任務を果たす懇談会の座長にご指名いただき,非常に光栄であると同時に,身が引き締まる思いである」と挨拶したそうですが(内閣総理大臣官邸のウェッブサイトにある議事要旨),そこでは「70周年」が他の「○十周年」と異なる特段の「節目」である理由までは明らかにされていません。そこで,当該会合の冒頭でされた安倍晋三内閣総理大臣の挨拶(内閣総理大臣官邸ウェッブサイト)を見てみるのですが,「今年は,戦後70年目に当たる年であります。戦後産まれた赤ちゃんが,70歳を迎えることになります。」ということを超えた「70年目」の特別な意味についての言及はありません。初めはどんなに可愛い赤ちゃんでも,死なずに生きていれば,だれでもいつかは70歳の老爺老婆になるのは当たり前のことであって,1945年生れの赤ん坊についても変わりはありません。「未来の土台は過去と断絶したものではあり得ません。今申し上げたような先の大戦への反省,戦後70年の平和国家としての歩み,そしてその上に,これからの80年,90年,100年があります。」ということで,「70年」は,安倍内閣総理大臣によって80年,90年及び100年と単純に並べられていますから,むしろ,数ある十年区切りの中の単なる一つとしての「70年目」ということであるようです。さらにいえば, 20世紀を振り返り21世紀を構想する時期としてならば, 21世紀もなお浅かった戦後60年目の2005年の方がよかったようにも思われます。

 

2 「四十年」

 

(1)ドイツの戦後40

 政治家としては,自分の任期中にたまたま何かの「○十周年」があれば,これは幸いとその機会を活用して名を上げたいというのが普通かつ健康な反応でしょうが,それをそのまま言ってしまうと芸がないところです。この点,外国の政治家などはうまい。リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー(Richard von Weizsäcker)は1984年にドイツ連邦共和国の大統領に就任しましたが,たまたまその翌年の1985年の5月8日は,ヨーロッパにおける第二次世界大戦の終戦40周年記念日に当たりました。当日,ボンの連邦議会の演壇においてヴァイツゼッカーは,その記念演説を歴史に刻みつけるべく,40周年が25周年又は30周年とは異なった特別の意味のある節目であるゆえんを,ユダヤ教及びキリスト教の聖典を引きつつ解き明かします。

 

  多くの若い人たちが,この数箇月,自ら,そして私たちに問いかけました。なぜ,終戦後40年たって,過去についてのこんなにも活発な議論が起こったのであろうかと。なぜ,25年又は30年のときよりも,より活発なのであろうか?その内的必然性は,どこにあるのであろうか?

  このような質問に答えることは簡単ではありません。しかしながら,我々はその理由を,外からの影響に主として求めてはいけません。確かに,そのような影響は疑いもなく存在しましたが。

  四十年は,人の一生及び民族の運命に係る期間として,大きな役割を演ずるものであります。

  ここにおいても,私に,改めて旧約聖書を参照することをお許しいただきたい。その信仰にかかわりなく,すべての人のための深い洞察を蔵する旧約聖書を。そこでは,四十年は,何度も回帰し,かつ,本質にかかわる役割を演じております。

  四十年,歴史の新たな段階が約束の地への侵入と共に始まる前に,イスラエルの民は荒れ野に留まっていなければなりませんでした。

  四十年が,当初責任を有していた父の世代が完全に更迭されるために必要でした。

  また,他の場所(士師記)においては,援助及び救済の経験の記億がいかにしばしば四十年しか持続しなかったかが明らかにされています。記憶が剥落したとき,平穏の時は終わりました。

  すなわち,四十年は,常に大きな刻み目を意味するのです。当該期間は,人間の意識において作用します。それは,あるいは,新しくかつ善い未来への自信と共に来る,暗い時代の終わりとしてであります。あるいはまた,忘却の危険又は次代の人々への警告としてであります。両側面のいずれも,よくよくの考慮に値するものであります。

  我々のもとでは,政治責任の分野に,新たな世代が成長してきました。若者は,かつて起こったことには責任を負いません。しかしながら,彼らは,そこから歴史において生ずることに対して責任を負うのです。

 

当該演説の岩波書店による邦訳名である「荒れ野の40年」は,「四十年,歴史の新たな段階が約束の地への侵入と共に始まる前に,イスラエルの民は荒れ野に留まっていなければなりませんでした。」(Vierzig Jahre sollte Israel in der Wüste bleiben, bevor der neue Abschnitt in der Geschichte mit dem Einzug ins verheißene Land begann.)の部分から採ったものなのでしょうね。ドイツ連邦共和国大統領がドイツ終戦40周年記念日に「荒れ野の40年」なる演説をしたといわれれば,第二次世界大戦後のドイツ連邦共和国国民は40年間荒れ野にあるがごとき試練に気高く耐え,「対立を超え,寛容を求め,歴史に学ぶ」立派な道徳的国民になったのか,と思ってしまうのですが,看板に若干分かりにくいところがありました。実は「荒れ野の40年」は,直接には20世紀のドイツ人の話ではなくて,紀元前13世紀,モーセに率いられてエジプトを脱出したもののカナンの地に侵入するまで荒れ野を四十年さまよったイスラエルの民の内部における指導世代の交代についてのことでした。

 

(2)曠野の四十年

それではイスラエルの民はなぜ「荒れ野の40年」を経験しなければならなかったかといえば,その直接の原因は,かえって侵略のいくさ(「・・・汝の神ヱホバの汝に与へて産業となさしめたまふこの国々〔約束の地カナン〕の邑々(まちまち)においては呼吸(いき)する者を一人も生し存(おく)べからず 即ちヘテ人(びと)アモリ人カナン人ペリジ人ヒビ人ヱブズ人などは汝かならずこれを滅ぼし尽して汝の神ヱホバの汝に命じたまへる如くすべし」(申命記第2016-17))を避けたからのようでもありました。

エジプト脱出後,モーセは約束の地カナンに先遣隊を派遣して状況を偵察させます。

ところが,偵察の報告にいわく。

 

・・・その地に住む民は猛(たけ)くその邑々(まちまち)は堅固にして甚だ大(おほい)なり・・・(民数紀略1328)・・・我等はかの民の所に攻上ることを得ず彼らは我らよりも強ければなりと 彼等すなはちその窺ひたりし地の事をイスラエルの子孫(ひとびと)の中に悪(あし)く言ふらして云(いは)く我等が行巡りて窺ひたる地は其中に住む者を呑みほろぼす地なり且またその中に我等が見し民はみな身幹(たけ)たかき人なりし 我等またアナクの子ネピリムを彼処(かしこ)に見たり是ネピリムより出(いで)たる者なり我儕(われら)は自ら見るに蝗(いなご)のごとくまた彼らにも然(しか)見なされたり(同章31-33

 

カナンの住人は大きく強い。簡単には同地に侵入できないと知ったイスラエルの民は一晩中泣き叫び,モーセとアロンとを非難します。もうこんなのいやだ帰りたい,と。

 

・・・嗚呼我等はエジプトの国に死たらば善(よか)りしものを又はこの曠野(あらの)に死(しな)ば善らんものを 何とてヱホバ我等をこの地に導きいりて剣(つるぎ)に斃れしめんとし我らの妻子(つまこ)をして掠(かす)められしめんとするやエジプトに帰ること反(かへつ)て好からずやと 互に相語り我等一人の長(かしら)を立てエジプトに帰らんと云(いへ)り 是をもてモーセとアロンはイスラエルの子孫(ひとびと)の全会衆の前において俯伏(ひれふし)たり(民数紀略第142-5

 

俯伏す(ひれふす)というのですから,モーセとアロンとは土下座です。民衆を指導すべき政治家が人々の前で土下座するのは我が国の選挙運動ばかりではありません。

しかし,偉そうな態度で文句ばかり言って,言うことを聞かないイスラエルの民に対して神は怒ります。もうお前らのうち大人は約束の地に入れてやらん,四十年かけて総入れ替えだと。

 

・・・ヱホバ曰ふ我は活く汝等が我耳に言しごとく我汝等になすべし 汝らの屍はこの曠野に横(よこた)はらん即ち汝ら核数(かぞへ)られたる二十歳以上の者の中我に対ひて呟ける者は皆ことごとく此に斃るべし ヱフンネの子カルブとヌンの子ヨシュアを除くの外汝等は我が汝らを住(すま)しめんと手をあげて誓ひたりし地に至ることを得ず 汝等が掠められんと言たりし汝等の子女等(こどもら)を我導きて入ん彼等は汝らが顧みざるところの地を知るに至るべし 汝らの屍はかならずこの曠野に横はらん 汝らの子女等は汝らが屍となりて曠野に朽るまで四十年の間曠野に流蕩(さまよひ)て汝らの悸逆(はいぎやく)の罪にあたらん 汝らはかの地を窺ふに日数四十日を経たれば其一日を一年として汝等四十年の間その罪を任(お)ひ我(わ)が汝らを離(はなれ)たるを知べし 我ヱホバこれを言(いへ)り必ずこれをかの集(あつま)りて我に敵する悪(あし)き会衆に尽く行なふべし彼らはこの曠野に朽ち此に死(しに)うせん(民数紀略第1428-35

 

神のイスラエルの民総入れ替えは徹底していました。四十年のうちに曠野に朽ちて死に,約束の地カナンに入ることができなかった者には,モーセも含まれます。

メリバの地で,水が無いぞと荒れ狂う民を鎮めるべく,モーセは岩から水を出すことになりました。その際の神の指示は,杖を持って岩に向かって水を出すよう命ぜよ,でした。

 

モーセすなはちその命ぜられしごとくヱホバの前より杖を取り アロンとともに会衆を磐(いは)の前に集めて之に言けるは汝ら背反者等(そむくものども)よ聴け我等水をしてこの磐より汝らのために出しめん歟と モーセその手を挙げ杖をもて磐を二度(ふたたび)撃(うち)けるに水多く湧出(わきいで)たれば会衆とその獣畜(けもの)ともに飲り 時にヱホバ,モーセとアロンに言たまひけるは汝等は我を信ぜずしてイスラエルの子孫(ひとびと)の目の前に我の聖(きよき)を顕さざりしによりてこの会衆をわが之に与へし地に導きいることを得じと(民数紀略第209-12

 

 何で神が怒ってモーセとアロンとはカナンに入れさせないぞと決めたのか,一読しただけではちょっとよく分かりません。

 しかし,神をSuica式カード開発に携わった誇り高い電波技術者であるものとして考えると納得がいきます。せっかく非接触で水が出る(改札機を通ることができる)ようにしたのに何でわざわざ杖で磐を撃つ(カードで改札機をタッチする)必要があるのですか,わたくしの開発した技術を信用しないのですか,いつになったら分かってくれるんですか,というわけです。Suicaの場合は,実際の運用上,やはり電波の強さの関係でカードを改札機にぐっと近づけないとうまく作動しないので,それならいっそのことタッチするものであると利用方法を説明することにしてしまえ,ということになったそうですが,毎日Suicaで改札機を通る際メリバの水の話を思い出す筆者は,あえてSuicaを改札機に触れさせないようにして通ってみたりしています。

 

(3)日本の戦後40

 ところで,『近代日本総合年表 第四版』(岩波書店・2001年)によれば,1985年8月14日に,「藤波官房長官,閣僚の靖国神社参拝につき,おはらい・玉ぐし捧呈・拍手は行わず一礼,供花の実費を公費とする公式参拝の新見解を発表」し,同月15日には,「中曽根首相,初めて内閣総理大臣の資格で参拝(野党・市民団体,一斉に抗議)」ということになっています。日本でも,戦後40年たって「新しくかつ善い未来への自信と共に来る,暗い時代の終わり」(Ende einer dunklen Zeit mit der Zuversicht auf eine neue und gute Zukunft)が感じられたものでしょうか。

 

3 「七十年」

 

(1)ユダ王国の滅亡とバビロン捕囚

 さて,戦後70年。

しかし,ヴァイツゼッカーの顰(ひそみ)に倣って旧約聖書に敗戦後「七十年」の用例を探すと,どうも紀元前6世紀初めの新バビロニア(カルデア)帝国に対するユダ王国の敗北(紀元前597年)及び滅亡(紀元前587年)並びにそれに伴うユダヤ民族指導層のバビロン捕囚(第1次連行(紀元前597年)及び第2次連行(紀元前587年))の話になってしまうようです。

 

 ・・・万軍のヱホバかく云たまふ汝ら我言(ことば)を聴かざれば 視よ我(われ)北の諸(すべて)の族(やから)と我僕(わがしもべ)なるバビロンの王ネブカデネザルを招きよせ此地(このくに〔ユダ王国〕)とその民と其四囲(そのまはり)の諸国(くにぐに)を攻滅(せめほろぼ)させしめて之を詫異物(おどろくべきもの)となし人の嗤笑(わらひ)となし永遠の荒地となさんとヱホバいひたまふ またわれ欣喜(よろこび)の声歓楽(たのしみ)の声新夫(はなむこ)の声新婦(はなよめ)の声磐磨(ひきうす)の音および燈(ともしび)の光を彼らの中にたえしめん この地はみな空曠(あれち)となり詫異物(おどろくべきもの)とならん又その諸国(くにぐに)は七十年の間バビロンの王につかふべし ヱホバいひたまふ七十年のをはりし後我バビロンの王と其民とカルデヤの地をその罪のために罰し永遠の空曠(あれち)となさん(ヱレミヤ記第258-12。紀元前605年のエレミヤの預言)

 

 ヱホバかくいひたまふバビロンに於て七十年満ちなばわれ汝らを眷(かへり)み我嘉言(わがよきことば)を汝らになして汝らをこの処に帰らしめん(ヱレミヤ記第第2910

 

 即ちヱホバ,カルデヤ人(びと)の王を之〔ヱルサレム〕に攻きたらせたまひければ彼その聖所の室(いへ)にて剣(つるぎ)をもて少者(わかきもの)を殺し童男(わらべ)をも童女(わらはめ)をも老人(おいびと)をも白髪(しらが)の者をも憐まざりき皆ひとしく彼の手に付(わた)したまへり 神の室(いへ)の諸(もろもろ)の大小の器皿(うつはもの)ヱホバの室(いへ)の貨財王とその牧伯等(つかさたち)の貨財など凡て之をバビロンに携へゆき 神の室(いへ)を焚(や)きヱルサレムの石垣を崩しその中の宮殿(みやみや)を尽く火にて焚(や)きその中(うち)の貴き器を尽く壊(そこ)なへり また剣(つるぎ)をのがれし者等(ものども)はバビロンに虜(とらは)れゆきて彼処(かしこ)にて彼とその子等(こら)の臣僕(しもべ)となりペルシヤの国の興るまで斯(かく)てありき 是ヱレミヤの口によりて伝はりしヱホバの言(ことば)の応ぜんがためなりき斯(かく)この地遂にその安息を享(うけ)たり即ち是はその荒をる間安息して終に七十年満ちぬ ペルシヤ王クロスの元年に当りヱホバ曩(さき)にヱレミヤの口によりて伝へたまひしその聖言(みことば)を成(なさ)んとてペルシヤ王クロスの心を感動したまひければ王すなはち宣命(みことのり)をつたへ詔書を出(いだ)して徧(あまね)く国中(こくちう)に告示(つげしめ)して云(いは)く ペルシヤ王クロスかく言ふ天の神ヱホバ地上の諸国を我に賜へりその家をユダのエルサレムに建(たつ)ることを我に命ず凡そ汝らの中(うち)もしその民たる者あらばその神ヱホバの助を得て上りゆけ(歴代志略下第3617-23

 

ネブカドネザル2世の新バビロニア軍によるエルサレムの破壊は紀元前587年,新バビロニアの滅亡は紀元前539年,ペルシヤ帝国のキュロス2世のエルサレム帰還の詔書は紀元前538年のことです(ただし,諸本によって年代が微妙に異なります。)。エレミヤは「七十年」続くと言ったものの,ユダ王国滅亡後,新バビロニア帝国は五十年ほどしか続かなかったことになります。

なお,エレミヤについては,後の東京大学教養学部長・総長である矢内原忠雄による伝記(『余の尊敬する人物』)が,先の大戦における対米英蘭戦前の1940年に岩波新書で出ていました。

 

(2)バビロン捕囚期の意義:Erinnerung

新バビロニアによってユダ王国は滅ぼされ,ダビデの子孫はもはや王ではなく,エルサレムの神殿も破壊され,民族の指導層はバビロンに連行されてしまいました。このバビロン捕囚期,ユダヤ人は全てを失ったかのように見えました。

 

・・・神とのつながりを保証する具体的なものは,すべて失われてしまったかのような状況だった。けれども全くすべてが失われてしまったのでもなかった,残っていたのは「思い出」である。(加藤隆『旧約聖書の誕生』(筑摩書房・2008年)205頁)

 

・・・捕囚の状態では,過去の出来事を想起することで,現在の神と民との関係が確認されている。・・・そして過去を想起して現在の神と民との関係を確認するというメンタリティーは,今日も存続している。(同206-207頁)

 

・・・出エジプトの出来事は捕囚時代のユダヤ人にとって,たいへん重要な意味をもつことになった。エジプトで奴隷状態にあったヘブライ人たちを,出エジプトの際に神が導いて解放した。捕囚時代のユダヤ人たちは,現在,バビロニア帝国の支配下で奴隷のような状態に置かれている。過去において神は自分たちの祖先を奴隷状態から解放したのだから,今,奴隷状態にある我々も神は必ず解放するに違いないと考えたのである。(同207頁)

 

 ここで,「思い出」ないしは「想起」が出て来ます。

 ヴァイツゼッカーの「荒れ野の40年」演説にも次のくだりがあったところです。

 

 ・・・思い出(Erinnerung)は,ユダヤ人の信仰を構成する(gehört)ものだからです。

  「忘却しようとする意思は,捕囚(Exil)を長引かせる。

 そして,救済の秘密は,思い出(Erinnerung)と言われる。」

  このよく引用されるユダヤ人の知恵の言葉が言わんとしていることは,確かに,神に対する信仰は歴史における神の働きに対する信仰である,ということであります。

 

(3)再び戦後70

 

ア Japanische Erinnerung?

 さて,日本は,戦後70年間,過去の何を思い出し,何を想起し続けたものか。

 どちらかというと,1945年の日本の敗戦は,紀元前587年のユダ王国の滅亡よりは紀元前597年の同王国の敗戦に似ていて,ただし,戦勝帝国に無謀な叛乱を起こして亡国にまで至るものではなかったもの(しかも,占領期間が七十年どころか7年(1952年4月28日の「主権回復」)で終わったもの),ということのように見えなくもないところです。亡国もなく離散もなければ,思い出,想起又はErinnerungに係る特段の必要は感じられなかったということでしょうか。基本的に我が国民は,人として自然なことですが,現在志向であるように思われます。

 

イ Das Joch des Imperiums

 紀元前597年のユダ王国の敗戦後の紀元前594年,預言者エレミヤは,同王国の新バビロニア帝国に対する服従の必要を説き,かつ,可視化させるべく,索(なわ)と軛(くびき)とを作って自分の項(うなじ)に置きます(エレミヤ記第272)。その姿で首都エルサレムをうろうろするのですから,嫌味で目障りですね。何だこんなもんみっともないと,卑屈な軛をエレミヤの項(うなじ)から取り上げて壊した上で,ネブカドネザルの覇権など2年のうちにこんなふうにぶっ壊されるのだ,と会衆の前で見得を切る預言者ハナニア(エレミヤ記第2810-11)の方が普通の「愛国者」らしいところです。エレミヤはいつも売国奴っぽい。しかし,こういう「愛国者」の熱気に当てられてしまって敗戦ユダ王国は新バビロニア帝国に叛旗を翻し,紀元前587年の悲惨な滅亡・亡国を招いたのですから,そういう勇ましい有力者のいなかった戦後日本は結構なことでした。

 

ウ Weltmachtwechsel

 とはいえ,「七十年」が経過して,さしもの戦勝帝国の覇権も揺らぎ,次の新秩序が見えて来たときにどう対処するのかは難しい問題です。仮にユダ王国が新バビロニア帝国下の優等生的属国として存続していた場合,キュロス大王率いるペルシヤ帝国勃興の新事態にはどのように対応したものでしょうか。「エレミヤ先生は「70年」と言っておられたから,まだ70年たっていない以上飽くまで新バビロニア帝国の軛を担い,共にペルシヤ人に抵抗すべきだ。必要ならばバビロニア様のために国外派兵もあり得べし。」と妙に杓子定規過ぎるのも,勝ち馬に乗り損ねてしまうようでいけなかったでしょう。

 しかし,機会主義的なのも,余り格調が高くないですね。

 「捕囚の七十年」でなければ,「古希の七十年」ですか。確かに,戦後70周年の今年2015年,我が国民の高齢化は,我が国にとって避けて通れない大問題です。

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 東京大学教養学部の矢内原公園(目黒区駒場)