1 つかみ:2000年5月参議院憲法調査会の二人の参考人

 日本国憲法の「内閣」の章に係るGHQ草案(の更に原案)の作成に携わったミルトン・J・エスマン教授(19462月当時米国陸軍中尉)が健康上の理由で欠席した200052日の第147回国会参議院第7回憲法調査会(村上正邦会長)には,当時のGHQ民政局(Government Section)の関係者たる参考人として,ベアテ・シロタという女性とリチャード・A・プール(Richard A. Poole)氏(19462月当時米国海軍少尉)とが出席していました。

 シロタ女史はここでは取り上げることとはしないとして,今回は,プール氏について若干御紹介したいと思います。同氏は,19462月のGHQの憲法草案作成作業において,ジョージ・A・ネルソン(George A. Nelson)氏(当時米国陸軍中尉)と共に天皇,条約及び授権委員会(Emperor, Treaties and Enabling Committee)の担当者だった人物です。


2 リチャード・A・プール

 プール氏は2006226日に死去していますが,墓所のあるアーリントン墓地のウェッブサイトにある記事によると,同氏は,アメリカ合衆国国務省の職業外交官だったそうです(官僚外交官が大使になる日本とは異なり,大使が政治任用職である米国ですから,大使までは務めなかったようです。日本の外務省職員の方が米国国務省の職業外交官よりも優秀なわけですね。)。日本進駐前の経歴を見ると,ハヴァフォード大学(Harvorford College.ちなみに,1903年から1904年まで有島武郎が留学した場所のようです。)の卒業で,19414月から194211月までモントリオールで,19433月から194411月まではバルセロナでそれぞれ副領事を務め,同月,国務省の職員に対する兵役就任の制限の緩和に伴い,海軍入りしています。志願ですね。「人の嫌がる軍隊に志願で出てくる○○もある」という健全な常識が庶民に共有されている我が文化国家日本とは異なり,おどろな黒船を駆って世界に横行し,「東亜ノ禍乱ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムト」し「剰ヘ与国ヲ誘ヒ帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ更ニ帝国ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ与ヘ遂ニ経済断交ヲ敢テシ帝国ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加」え,我が帝国の「隠忍久シキニ弥リタルモ・・・毫モ交譲ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々経済上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメムトス」るようなことまでした好戦国家アメリカはまた非文化国家であって,我が国であれば○○がするようなことをする青年も多かった,ということなのでしょう。

 ところで,我が国の戦後法制改革に関与したアルフレッド・オプラー博士に関する論文等のある長尾龍一教授の「学者支配としての占領改革」という文章(1987年。同教授の「OURANOS」ウェッブサイトに掲載)に,「〔同教授が当該文章でものした〕スケッチからも分かるように,民政局は軍人の集団であるよりも,学者や知識人の集団だったのである。」という,おやと思わせる記述があります。しかしながら,当該「学者や知識人」の「スケッチ」においては,プール氏は取り上げられていません。他方,同教授の当該文章にはまた,「敗戦後のGHQの支配は,頭の杜撰な軍人の支配で,教育程度の低い単細胞人間たちに,卑屈な日本人たちがいいように引き回されたというイメージ」が少なからぬ人々に抱かれているとの記述もあります。「火のない所には煙は立たない」ということは日常よくある話ですし,多数の意見はそれとして尊重すべきことは,大人がその知恵としているところです。やはり,頭が「杜撰」な「教育程度の低い単細胞人間」こそがGHQのアメリカ人の原則型だったのでしょうか。

 長尾教授の「スケッチ」で「学者や知識人」の一員として特に言及されていない以上,「少なくない」人々の「イメージ」に無難に従って,プール氏も,頭が「杜撰」な「教育程度の低い単細胞人間」たちの一人であって,日本に関してはもちろん全く無知であったものと判断すべきでしょうか。となると,プール氏がその一員であった職業外交官など,学者でないことはもちろん,知識人の仲間には入らないものであって,いわんや外交官上がり風情が,一国の憲法の改正等に関する責任ある仕事をするなどとんでもない,という主張までが演繹されてくることになるようです。しかしこれは,現状にかんがみ,少々剣呑に過ぎる暴論でしょう。

 いずれにせよ,憶測及び偏見に基づく議論は不毛です。まず,147回国会参議院第7回憲法調査会におけるプール氏の自己紹介を聞いてみましょう。



 まず,私は横浜生まれでございまして,誕生日は1919年の429日です。もうかなり年をとってしまったんですけれども
陳述時81。たまたま私の誕生日は実は昭和天皇と同じ日ということでございまして,これは単なる偶然なんですけれども,その後になりまして複雑なことになりました。日本では五世に当たります,私の兄弟も含めまして私の代で。私の曽曽祖父の一人は,1854年にペリー提督が締結した条約のもとで日本に初めて派遣された二人の米国領事の一人でございまして,以来,私の家族の各世代はそれぞれ,私の世代も含めてずっと日本に滞在した経験を持っているという家系です。私の先祖のうちの4名は,実は日本のお墓に眠っております。

 横浜に住んでおりまして,1923年の関東大震災が起こりまして,幸いにも命は助かりました,その他はすべて失ってしまったんですけれども。その後神戸で2年過ごしまして,予想に反して私の父は,当時勤めていた会社の命令でニューヨークの事務所の長になるということで転勤を余儀なくされましたので,1945年に私が日本に戻ってくるまで私の家族は日本を離れていたわけです。

 ・・・

 ・・・国際法,商法ですとか憲法ですとか海洋法ですとか,国際関係,歴史等々の学問を修めておりました。そして,常に私は日本に対して関心を生涯を通じて持ち続けておりました・・・


 さて,どうしたものでしょう。アメリカ合衆国政府の人事は,なかなかどうして,横着ではありませんね。

 大日本帝国占領という大きな仕事をするに当たっての,意思的な方向性がそこにあるようです。プール青年をもって,遠い先祖の代から日本に縁もゆかりもなく,日本のこと,さらにはその政治外交の組織について全く何も知らない無知な一水兵であるとはとてもいえないでしょう。外交官たらんとして学問を積むリチャード少年の脳裏には,上記陳述にあるとおり,当然日本との関係が常に強い実感を伴う現実的課題としてあったものでしょう。日本統治の仕事の人事は,漫然たる在外勤務人事のローテーションの外にあるべきものとして構想されていたように思われます。日本の制度,伝統及び文化に敬意を払いつつ,きちんと仕事をすることが期待されていたのでしょう。((An aside) U.S. President George W. Bush once compared the then-coming American occupation of Iraq to the Japanese occupation. He was prescient, though not perfectly precise. In reality, the Iraqi occupation seems to have turned out to resemble more the Japanese occupation in China than the Japanese occupation by the U.S.)


3 プール少尉とGHQ憲法草案の天皇条項

 確かに,プール少尉は,新たな日本の天皇の在り方をGHQの憲法草案にまとめる過程において,宮中における天皇の側近の確保についてまで丁寧に配慮した,次のような条項を提案しています。



Article VI.  The Emperor shall be served by two Privy Ministers, appointed by him with the advice and consent of the Cabinet: A Lord Keeper of the Privy Seal, who shall assinst him in the discharge of his official duties, and a Lord Chamberlain, who shall assist him in the management of his household and expenditures of The Throne.

     The Imperial Household shall be managed in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact.

     Appropriations for the expenditures of the Throne shall be included in the annual national budget.

(第6条 天皇は,内閣の助言と同意により,2人の宮務大臣を任命する。内大臣は,国務について天皇を輔弼する。宮内大臣は,宮務及び皇室経費について天皇を輔弼する。

 皇室については,国会の定める皇室典範による。

 皇室経費は,毎年の国の予算に計上されるものとする。)


 しかし,プール少尉ら天皇委員会の第1次案における上記提案条項は,194626日に開催された同委員会と運営委員会(ケーディス大佐,ハッシー中佐及びラウエル中佐並びにエラマン女史)との打合せにおいて,運営委員会側から散々批判され,削るべく命じられるに至りました。エラマン・ノートには次のようにあります(児島襄『史録 日本国憲法』(文春文庫・1986年(単行本1972年))275-276頁も参照)。



 運営委員会は,第6条において4人の宮務官(four Imperial officers)(2人の宮務大臣,1人の内大臣及び1人の宮内大臣)が認められていることに異議を唱えた。ケーディス大佐は,これは,国会ないしは人民にではなく天皇に責任を負う憲法外的官職を正統化するものであるのみならず,自由主義的憲法においては(under a liberal Constitution)事務員に毛の生えたような職務を有するものでしかない役人(officials whose duties...could be little more than clerkly)を不当に高い位置に置くものだと言って反対した。ラウエル中佐は,当該条項は,彼らを養うための予算の議決を国会に義務付けるものだね,と指摘した。プール少尉は,当該条項について,天皇のお付き(the personal officers of the Emperor)の厳格な制限であり,したがって,宮中のスタッフ(the Imperial Household Staff)のそれ以上の増加ないしは拡大に対する憲法上のチェックであると言って弁明した。運営委員会は,全員一致で,当該条項は宮中を過大に重要視するものであると決し,同章の最終草案から当該規定を削るように命じた。


 若手組の方に立憲君主の尊厳を尊重する意思がより多く見られたのに対して,大人組の方が大胆でした。大人組の方には,日本の伝統のほかにも,いろいろ配慮しなければならないことがあったのでしょう。GHQの目の上の瘤たるべき極東委員会には,共産主義ソ聯もいれば,白豪主義オーストラリアもいたのでした。

 なお,「4人の宮務官」というのは,運営委員会側の誤読であるように思われます。プール少尉らの原案の英文をよく見ると,「2人の宮務大臣」=「内大臣」及び「宮内大臣」の意味であって全体で2名であり,「2人の宮務大臣」+「内大臣」+「宮内大臣」=「4人の宮務官」ではないようです。"...Cabinet: A Lord Keeper..."と,コロンでつながっているのであって ,セミコロンが使われているわけではありません。本職のアメリカ人も英語を読み間違えることがあるということか。それにしても,「2人の宮務大臣」のつもりが「4人の宮務官」と勘違いされて,その養人のための予算が云々とまでねちねちと,運営委員会のおじさんたちに2倍おこられたプール少尉はお気の毒でした。

 ところで,プール氏の参議院憲法調査会における前記自己紹介でいう「たまたま私の誕生日は実は昭和天皇と同じ日ということでございまして・・・その後になりまして複雑なことになりました。」との「複雑」な事情とは,伊藤久子氏の「横浜のプール家」(有鄰463号(2006610日)4頁)に引用された鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(創元社・1995年)記載のインタビューによると,次のようなことだったようです。



プール元少尉:「
日本の憲法草案起草の各委員会のメンバー発表の最後に近くなって,ケーディス大佐があたりを見回して,天皇は君,プール少尉にまとめてもらうと言うんですよ。」


ケーディス元大佐:「君
プール少尉はたしか昭和天皇と誕生日が同じだったろう?それが君を選んだ理由だよ,なんて言った覚えがありますよ。」


 よく知っていましたね。日本のことも,スタッフのことも。

 ちなみに,プール少尉が大日本帝国の横浜市に生まれた日は,後の昭和天皇である皇太子裕仁親王成年の日(旧皇室典範13条)でもありました。


4 米国初代箱館領事エリシャ・E・ライス

 伊藤久子氏の上記記事からは,プール氏の自己紹介にある「私の曽曽祖父の一人」である「1854年にペリー提督が締結した条約のもとで日本に初めて派遣された二人の米国領事の一人」がだれであるかも分かります。



 
リチャード・プール元少尉の父チェスターは1916年に,横浜生まれのアメリカ人ドロシー・キャンベルと結婚。岳父は少年時代の遊びの師匠ウィリー・ウォリー・キャンベルである。ドロシーの母方は古くからの居留民で,母キャラ(旧姓ライス)の父は駐横浜副領事,祖父は初代箱館領事という家系だった。


 「曽曽祖父・箱館初代領事ライス→曽祖父・横浜副領事ライス→祖母キャラ・ライス→母ドロシー・キャンベル→リチャード・プール元少尉」という家系になるようです。

 なるほど。駐箱館初代米国領事のライスですか。

 いや,ちょっと待て。

 我々が学校で習った日本史の授業では,1854年の日米和親条約に基づき日本に初めて派遣されたアメリカ合衆国の領事といえば,駐下田領事のハリス(後に駐日初代米国公使)だけだったはずです。下田のほか箱館も開港ということにはなっていましたが,箱館に米国領事を置くことになっていたとは学校教育では習っていません。

 日米和親条約の当該条項は,次のとおり。



第十一条 

両国政府に於て無拠儀有之候時は模様により合衆国官吏之者下田に差置候儀も可有之尤約定調印より十八ヶ月後に無之候ては不及其儀候事


Article XI

There shall be appointed by the Government of the United States, Consuls or Agents to reside in Simoda at any time after the expiration of Eighteen months from the date of the Signing of this Treaty, provided that either of the two governments deem such arrangement necessary.


 日本語文では「両国政府に於て無拠儀有之候よんどころなき儀これありそうろう」なので,幕府の同意なしに「合衆国官吏之者」が下田に来ることはあるまいと思っていたのに,英語文に基づき両国政府のうちアメリカ合衆国政府がnecessaryと判断したことによってConsulハリスがやって来て,幕府役人は狼狽したという話は聞いたことがあります。しかし,そもそも英文でも,日米和親条約11条にはSimodaはあってもHakodateはありませんね。

 となると,プール元少尉の御先祖は,本当に日米和親条約に基づきアメリカ合衆国政府から箱館に派遣されて来た領事だったのか,甚だ疑問ということになります。どういう事情があったのでしょうか。これは日米同盟関係における最初の秘密事項だったのでしょうか。駐日アメリカ合衆国大使館の同大使館の歴史を紹介する日本語ウェッブページにも,1856年(安政三年)821日のハリス領事による下田玉泉寺でのアメリカ合衆国領事館開設の話はあっても,「ライス領事」の話は見つかりません。ハリスに比べて日米交流史上日の当たらない扱いを受けているライスとは,一体どのような人物だったのか。

 ライス「領事」の正体の問題については,ざっとインターネットの日本語サイトを検索したところでは,函館市のウェッブサイトの『函館市史デジタル版』の次の記述が一番詳しいようです。



・・・居留外国人の第1号でもあった最初のアメリカ領事は,安政41857)年4月に来箱して浄玄寺に止宿した,ライスであった。その時アメリカ国務長官からの書簡を持参してきたが,それには「コマーシャル・エージェント(Commercial Agent)」という名目で派遣するとあった・・・。しかし,日米和親条約では,箱館には領事を置くという規定はなかったのである。箱館奉行が老中に照会したところ,当初は駐日総領事ハリス(Harris, T.)でさえ,ライスの正体をいぶかった。ハリスも自国政府からライスの来日を知らされておらず,また「アゲント」と唱えているのは,自国の官名ではない・・・と断言したほどである。一方,下田条約が調印され,安政56月から箱館には下官吏(Vice-Consul)が置かれることとされた。ライスについては,後日ハリスが書簡を確認するに至って,その身元に間違いはなく「国事江渉り候儀」には関係せず,「全商売筋一通之取扱」で来たようであると言い,「アゲント」を「コンシュル四等官のうち最下官」と認め,前言を翻す見解を示し・・・,結局ライスの扱いについては老中から箱館奉行へ達しが出され,「今さら帰すこともできないので,来年六月に新しい下官吏が来たら帰すことにして,それまでは今まで通りにさせておくこと」とされたのである・・・。

 その後も条約にある新しい下官吏なるものは来箱せず,同じ肩書きのままのライスが残留した。・・・ところでライスは後年の記録では元治元(1864)年に「Consul」に任命されているが・・・,前々年の文久2年に箱館に戻ってきて以来,「Consul」という肩書きで文書を提出している。ライスの身分には各国の領事も不審を抱いており,奉行も真相がわからず,慶応2年になって江戸の公使に確認を依頼した。これで明らかにされたことは,(1)アメリカ領事の階級の第3位に「貿易方エセント」があり,他国にはない名称であること,(2)ライスは他国の領事の蔑視を恐れて「コンシュル」と称しているらしいこと,(3)各開港場の貿易量の大小に応じて領事の階級を考慮しており,箱館は貿易が盛大の場所ではないこと,(4)ライスはエセントであっても,コンシュル同様の職であること,ということである・・・。・・・『アメリカ領事報告』(国立国会図書館蔵)には,1869(明治2)年9月のライスの書簡に領事拝命を感謝する旨が記されているから,実際にはこの時点で初めて領事になったと思われる。

 

 1954年の日米和親条約調印から15年,ライス自身の来日から12年かかっての領事拝命ですか。最初は下田のハリス領事からも知らないと言われましたが,幕府の「今さら帰すこともできないので・・・」という事なかれ主義に助けられて箱館に残ることができて,その後は薄給の公務の傍ら商売関係にいそしみ,諸外国領事や幕府役人の冷たい目もありましたが,がんばりました。

 アメリカ合衆国の駐札幌総領事館は,箱館(函館)にあった米国領事館について紹介する英文ウェッブページにおいて,"Elisha E. Rice, first U.S. Consul; Jan.18, 1865-Nov.2, 1870"と記載しています。

 なお,北海道庁の古文書紹介のウェッブページに,エリシャ・ライス貿易事務官が船で3日前漁に出たまま行方不明になったので,見つけ次第箱館に戻るよう諭すべしと各村に告げる箱館奉行所のお触書(安政六年五月十八日付け)が掲載されています。ちょっと図々しくてお騒がせなアメリカ快男児だったのですね,プール少尉の御先祖さまは。



箱館在留亜米利加官吏ライス并同国人九人,本邦水主之もの三人,端船弐艘江乗組,鯨漁として去ル十五日当港出帆之儘,今以不相戻候。自然其村々海岸江船寄候儀も有之候ハ
,早々当地江立戻候様可申諭候。此触書早々順達,留り村より可相返もの也


 しかし,むむ,鯨漁ですか。これは現在では,アメリカ合衆国国務省の人間がすると,懲戒処分ものの所業ではなかったでしょうか。(また,これに加えて,エリシャ・ライスは,ハリスのような堅物(唐人お吉の話は疑わしいとされています。)ではなかったもののようです。)
  上記鯨漁行方不明騒動のほかにも,エリシャ・ライス貿易事務官の起こした悶着やら騒動としては,次のようなものがあります(『函館市史』デジタル版)。後の超大国アメリカ合衆国も,出先の事務所レヴェルでは,当時はお金が余りなく,トホホなことも多かったようです。



もともとライスの滞留の理由も,在箱居留人への対応が念頭にあったのではなく,寄航船への必要品の売買にあったのは明らかである。・・・その結果,奉行所の役人たちは「一体彼国(アメリカ)は,士商混雑いたし,利得を専といたし候習風相聞,御国士商格別之訳,毎々ライス江申諭候得共,兎角疑惑いたし候様子」・・・と,ライスの行為によい感情を持たず,ライスとの関係はしっくりしていない。慶応
2年には,安政4年から64月までにライスに渡した食料品・欠乏品代と家賃の未回収分をめぐる係争があり,ライスの方も運上所は17000ドルの未払い金があるとして,この解決は明治にまで持ち越している。

 ・・・文久2年に再び箱館に戻ってきて領事館の建設を計画した。ところが整地は終わっても,ライスの構想になる3階建の館の建設費用が予想外に高額であり,将来は病院や牢獄も建設しようという意気込みにも関わらず,結局この工事はこのまま頓挫している・・・。 

  北海道編集の『新北海道史 第二巻通説一』(1970年)には,次のように伝えられています(747頁)。



 安政四年四月五日,米国貿易事務官ライス(
Rice)が鯨猟船に便乗して箱館に来港し,六日上陸して奉行堀利熙に面会し,大統領の書簡を提出して在留することを告げたので,浄玄寺別堂の一部を仕切ってこれを宿所に充てた。一人で止宿して病気その他の不慮のことがあっては迷惑だから,水夫を留置しておくようにさとしたが,かれはほかの米国船がまもなく入港するから一人で差支えがないと答えたので,奉行はその旨を書面で差し出させ,自由にさせることにした。かれは携えて来た農作物種子を奉行に贈り,牝牛を請い受けて搾乳を試み,奉行所の馬場で馬を乗りまわしてその妙技を見せ,さきに自国漂流民の残して置いたバッテイラ(短艇)をもらって港内を乗り回し,豚を屠ってその肉を奉行をはじめ応接掛の人々に分配し,道で足軽小頭鈴木三右衛門が足を痛めているのを見てこれを治療し,また馬を借りて駒ヶ嶽に登りたいと願い出て(遊歩区域外につき許されず),さらに奉行所と内談して・・・,またきわめて平民的で商人などに対して威厳を装わないなど,天真爛漫で米国人の本領を遺憾なく発揮したため,あるものは敬服しある者は嫌忌した。敬服された一面としては,欧米文化の紹介者としてであって,奉行は通辞をつかわして緬羊の飼育法を問わせ,武田斐三郎はかれについて英語の疑義を正したことなどがあり,嫌忌された一つの現れは,足軽若山蕃ほか一名が酔ってかれの宿所を訪ね口論の末抜刀し,そのために職を追われた事件などである。よかれあしかれ,かれの在留は箱館の官民に少なからぬ影響を与え,安政六年の開港準備にあずかって力のあったことは否定できない。


 エリシャ・ライスの人物及び家系については,プール元少尉の母堂であるドロシー(Dorothy Campbell Poole)さんの手記が,Antony Maitland's Genealogy Pagesというウェッブサイトに掲載されています。

 それによれば,エリシャ・E・ライスは,182057日メイン州ユニオン(Union)生まれの六尺豊かなニュー・イングランド人。1845年にメイン州の法曹資格を取得するも開業はせず。商売替えをして異国の新開港地箱館に移ることになるまでは,ウールのカーペット製造業を営んでいたそうです。民兵大佐。1885111日,コロンビア特別区ワシントン市で死去。

 プール元少尉の曽祖父で,横浜副領事になったのが,エリシャの長男のジョージ・エドウィン・ライス(George Edwin Rice)。19011217日に長崎で死去しています。

 ジョージの娘でプール元少尉の祖母に当たるキャラ("Calla": Clara Edwina Rice)は,1871921日の函館生まれ。キャラ(函館),ドロシー(横浜),リチャード(横浜)と,3代続けての日本生まれということになります。


5 今上帝と「知日派の米国人」

 さて,時は移って1994612日の日曜日,リチャード・プール元少尉も既に75歳の老人となっていました。しかし,御先祖のエリシャ・ライス大佐譲りのちょっと図々しいお騒がせ精神は健在でした。場所は,プール氏の住居にほど近いコロンビア特別区ワシントン市のケネディ・センター。我が宮内庁の同年の「天皇皇后両陛下のアメリカ合衆国御訪問の御日程について」ウェッブページを見ると,同日につき「コンサートご鑑賞,レセプションご出席(ケネディセンター)」と記載されています。アメリカ市民との当該レセプション会場が,その舞台となりました。

 プール元少尉の前記参議院第7回憲法調査会における陳述にいわく。



...and I had the temerity to introduce myself to the Emperor and to tell him of my role in helping draft the Constitution concentrating on the Articles on the Emperor. He smiled and said, "Yes, those are my instructions."... 

(私は,向こう見ずにも陛下に自己紹介し,実は日本の憲法の起草に加わったんだということ,特に天皇条項について私は役割を持っていたということを申し上げましたら,天皇陛下はお笑いになって,そうですね私に対する指示だったんですというふうにおっしゃったわけです。)


 プール元少尉は,お付きにいるのは重々しい宮務の大臣・高官らではなく,「事務員に毛の生えたような職務を有するものでしかない役人」たちだけだと知って安心していればこそ,「向こう見ず」になれたのかもしれません。いやいや,むしろ日本側においてこそまた,あの押しかけ箱館初代領事の子孫を,ケネディ・センターから「今さら帰すこともできないので」と諦めていたものでしょうか。



戦後,連合国軍の占領下にあった日本は,平和と民主主義を,守るべき大切なものとして,日本国憲法を作り,様々な改革を行って,今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し,かつ,改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し,深い感謝の気持ちを抱いています。また,当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います(
I also feel that we must not forget the help extended to us in those days by Americans with an understanding of Japan and Japanese culture.)。

(宮内庁ウェッブサイトの「天皇陛下お誕生日に際し(平成25年)」ての20131218日の「天皇陛下の記者会見」ウェッブページから)


 ここでの「知日派の米国人(Americans with an understanding of Japan and Japanese culture)」とは,それぞれ固有名詞を持った,生き生きとした(当時は若かった)知識人たちであり,そこには当然,ケネディ・センターでの上記邂逅があったリチャード・A・プール氏の姿が含まれていたものと拝察せられます。

 調べてみると,「敗戦後のGHQの支配は,頭の杜撰な軍人の支配で,教育程度の低い単細胞人間たちに,卑屈な日本人たちがいいように引き回されたというイメージ」は,現在,なかなか簡単には維持できないのではないでしょうか。

 いずれにせよ,観念的な議論は,難しいものです。