1 ハッシー中佐と「会議の政体」


(1)日本国憲法と「会議の政体」


ア ハッシー中佐の政体構想

 日本国憲法第74条に関する前回の記事を書き進めるうち,我が現行憲法に係る1946213日のGHQ草案作成に向けてのGHQ民政局内での作業において,強い執行権者(a strong executive)を求めるエスマン中尉の意見に基づく同月8日以降の修正(執行権は,内閣の首長としての首相に属するものとする。)が,同月12日の同局内草案作成グループの運営委員会におけるハッシー中佐の次の意見によって覆され,現行憲法65条の条文(「行政権は,内閣に属する。」)が実質的に定まったというエラマン女史の記録に逢着しました。



ハッシー中佐は,我々は国会に連帯して責任を負う内閣制度を設立しなければならないものであって,首相であろうが天皇であろうが,独任制の執行権者によって支配される政府の制度を設立してはならない,と主張した。集団的ではなく個人的な責任は,SWNCC228に反するばかりではなく,日本において物事がなされる流儀に全く一致しないのである。


 ここでハッシー中佐が構想していた,日本において物事がなされる流儀に一致する政体とはどういうものか。首相が弱くてもかまわず,個人的な責任を負わなくともよいということは,どういう理論に基づくものか。

 実は,この疑問に対する回答も,国立国会図書館ウェッブサイトの「日本国憲法の誕生」電子展示会にありました。高見勝利教授の「「憲法改正草案要綱」に対する米国務省内の論評と総司令部の応答」(レファレンス200412月号5頁)において紹介されているところです。

 すなわち,19463月に日本国政府から憲法改正草案要綱が発表された後,アメリカ合衆国の国務省の調査・情報局(Office of Research and Intelligence)極東情報部(Division of Far East Intelligence)内において当該要綱の分析が行われ,同月20日付けの「状況報告―日本」に綴じ込まれた「提示された日本の憲法(The Proposed Japanese Constitution)」に関する報告書において,エスマン中尉同様,「強くて安定した執行部の展開を不可能とするように思われる。」との批判的見解が示されていたところ(高見・前掲9頁),当該文書に接した東京のGHQ内では,ハッシー中佐が,同年429日付けのホイットニー民政局長あての覚書において,次のような反論を展開していました。



統治の安定及び効率(stability and efficiency in government)という立場からすると,強い執行権者(a strong executive)が望ましいかもしれない。しかしながら,降伏前の日本の統治機構における最大の病弊(the chief evil of the pre-surrender Japanese government)は,極めて強力かつ独立の執行部の存在(the existence of an all-powerful and independent executive)であった。憲法草案においては,そのような状況が再び出現することがないように,選挙された国民の代表者たちから成る国会に統治権を委ねるものである(The draft constitution places the powers of government in the Diet, the elected representatives of the people)。天皇に何らかの執行権を残すべきだとの示唆(the suggestion that any executive power be retained by the Emperor)は,基本的占領政策に全く整合せず,かつ,反するものである。(拙訳)


 国会に統治権を委ねる(...places the powers of government in the Diet),というのですから,日本国憲法において予定されていた政体は,少なくともGHQ草案の段階では,いわゆる典型的な議院内閣制ではなくて,やはり,むしろ「会議の政体」又は議会統治制(Gouvernement d'Assemblée)とされるものであったということのようです。


イ 小嶋和司教授による日本国憲法の政治機構論

 日本国憲法は,実は議院内閣制ではなくて,むしろ「会議の政体」又は議会統治制的なものを採用しているものではないかという点は,いわゆる解散権論争に関連しつつ,既に1953年において,小嶋和司助教授(当時)によって指摘されていました。



日本国「憲法が議院内閣制の基礎原理を欠き,とくにある点――その「原動力」と期待さるべき機関
天皇においては,フランスとは比較にならぬくらいにその権能を否定し,「会議の政体」と呼ばるべき要素を多分にもっていることは否定できまい。このような政体は,ヴデルのごとく議会政と会議の政体とのコンプロミスととらえるか,テリイのごとく「議会主義」なるあたらしい範疇,ないしすくなくともデュヴェルジェのごとく「会議の政体につよく浸透された議院内閣制」ととらえることが必要である,と筆者はおもうのであるがはたしていかがであろうか。これをしも単純に,しかも一辺倒的に「議院内閣制」とのみ述べて,それを疑うべからざるテーゼのごとく信奉する一般の態度は,はたしてそれで公正といえるのであろうか。」「司令部提示案は一院制だったというからこれなら「会議の政体」という論者も出現したはずである」。(小嶋和司「憲法の規定する政治機構―はたして議院内閣制か―」(初出1953年)『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』(木鐸社・1988年)376頁,377頁)


 小嶋教授は,フランスの憲法及びそれをめぐる学説を素材にして議論を組み立てています。ところで,GHQ草案は19462月段階での作成ですから,むしろ「会議の政体」ということでは,フランス第四共和制の憲法よりも日本国憲法の草案の方が先行していたというべきかもしれません。(なお,ハッシー中佐は,「日本の新たな議会」は「主にイギリスをモデルとして作られた」とも述べています(高見・前掲12頁)。)


ウ ハッシー中佐の問題意識をめぐって


(ア)大日本帝国憲法下の執行権に関する病弊

 なお,前記ハッシー中佐の民政局長あて覚書の英文の細かいところに注目すると,占領前の我が国の統治機構の病弊は「極めて強力かつ独立の執行部の存在(the existence of an all-powerful and independent executive)」としており,執行部について"an executive"と単数形を用いていますが,これはやや誤解を招く表現です。確かに,帝国議会や臣民から見れば執行権は極めて強力かつ独立」であったかもしれませんが,実は大日本帝国は,その執行部内における各部間の割拠性と不統一とを最後まで克服することができず(すなわち,単数形で表現され得るような一体的効率的なものとして執行権を行使することができず),苦しみ続けていたところです。

 この点に関して,先の大戦たけなわの1942年,当時の内閣制度について三つの病弊が指摘されています。すなわちいわく,①「閣僚の平等性に基づく内閣の弱体性」(「閣僚平等主義の内閣制度の下に於ては,閣議の決定はいは契約主義的原則に依存し,各閣僚の意見の一致に基づくことを必要とする。其の結果,内閣の力を弱むること甚だしいものがある。」「内閣の首班たる内閣総理大臣の地位は,少くとも法制的には著しく無力」),②「閣僚の過剰性に基づく弱体性」(「凡そ会議は其の人的構成に於て規模が大になればなるほど,其の審議は形式化する」)及び③「閣僚の行政長官化に依る内閣機能の喪失」(「各大臣は多くの場合,其の主管事務の技術的専門家たり得ざる結果,之れに対して専門的権威を有せず,従つてやもすれば部内の統制力を缺くの虞れ無しとせず,結局各大臣は閣議に於ては各省事務当局の代弁者たるに過ぎない結果になり勝ちである。」「現在の実情を見るに,各種政策の企画・立案は,根本に於て各省官吏の手になるものであり,特別例外の場合を除いては,一般に内閣は唯之を審議決定するに止まり,何等其の創意発案に出づるものはない。又各種政策の指導統制の機能も,閣内に於ける種々の勢力やイデオロギーの対立と,並びに各省本位の割拠主義的相剋の現象に依つて著しく妨げられ,内閣はともすれば各種勢力の寄生的存在となり,結局無責任な妥協によつて其の存在を保持するといふ結果とならざるを得ないのである。」)の3点です(山崎丹照『内閣制度の研究』(高山書院・1942年)368頁,369頁,370頁,371頁)。

 また,内閣の外においては,統帥部が内閣から独立しており,かつ,統帥部内においても陸軍と海軍とがなお並立していました。大本営令(昭和12年軍令第1号)2条は「参謀総長及軍令部総長ハ各其ノ幕僚ニ長トシテ帷幄ノ機務ニ奉仕シ作戦ヲ参画シ終局ノ目的ニ稽ヘ陸海両軍ノ策応協同ヲ図ルヲ任トス」と規定しており,天皇の下,そのまま,陸軍の参謀総長と海軍の軍令部総長との両頭体制となっています。なお,大本営が設置されたとしても,それは飽くまでも統帥機関であって,国務を担当する政府とは別個のものでした。19371120日の大本営陸海軍部当局の談話に「巷間往々にして大本営は統帥国務統合の府なりとし,或は戦時内閣の前身なりと臆測するが如きものあるも,これ全く根拠なき浮説」とされていたところです(山崎・前掲274-275頁参照)。


(イ)「会議の政体」の担い手

 ちなみに,ハッシー中佐の英文ではまた,"the Diet, the elected representatives of the people"と記されており,統治権を委ねられる「国会」と,複数形の「選挙された国民の代表者たち」とが同格に置かれています。これは,うがって考えると,国会に統治権がある政体下で統治権が現実に行使されるに当たっては,ハッシー中佐としては,その構成員の個性が捨象された機関ないしは制度としての「国会」(これでは官僚機構ですね。)にではなく,むしろ個々の議会政治家の国政上の識見・力量に期待するところが大きかったということでしょうか。やはりうがち過ぎでしょうか。


(2)「会議の政体」対「政治的美称説」及び自由民主党改憲草案41条

 いずれにせよ,日本国憲法における政体が,「会議の政体」ないしは議会統治制を採るものであるとすれば,その第41条の「国会は,国権の最高機関であつて」という規定には,単に政治的美称にとどまらないはっきりした実質的意味があるということになるわけです(英文の"The Diet shall be the highest organ of state power"は,GHQ草案40条と同じ。)。

 しかしながら,この点,2012427日決定の自由民主党日本国憲法改正草案においては,前文において,日本は「立法,行政及び司法の三権分立に基づいて統治される」ものと規定され,更に内閣総理大臣による衆議院の解散決定権も明示されていますから,立法部が執行部に対して優位に立つ統治構造である議会統治制ないしは「会議の政体」は確定的かつ意識的に放棄され,両者間の均衡を旨とする議院内閣制が選択されているものと考えられます。

 そうであれば,日本国憲法41条も改正されるのかといえば,同草案では次のとおり。

 


 
(国会と立法権)

41条 国会は,国権の最高機関であて,国の唯一の立法機関である。


 丁寧に「つ」が「っ」に改められるほかは,見出しが付くだけで,あとは変化なしです。

 国会の「国権の最高機関」性の部分は,政治的美称にすぎないことを重々承知の上(見出しでは,「国権の最高機関」になぜか触れられていませんから,そうなのでしょう。),あえてかつてのGHQの指示に係る当該文言をここに改めて受け容れることを表明するということでしょうか。単なる政治的美称ならば,「自主憲法」の手前,GHQの発案に係る実益のない文言は実害なく切り捨ててさっぱりした方がよいようでもありますが,どうも煮え切らないようです。

 しかし,自由民主党の「Q&A」を見ると,「国会,内閣及び司法の章では,大幅な改正はしていません。統治機構に関することは,それぞれ個別の課題ごとに,更に議論を尽くす必要があると考えたからです。」と述べられていますから,何のことはない,同党の2012427日付け憲法改正草案は,憲法にとって正に主要な部分である統治機構の部分については必要な検討を終えていない,これから「更に議論を尽くす必要がある」ところの未完成品ということのようです。「おっ,いよいよ憲法改正か」と勢い込んで上記「Q&A」を読んでいて,思わず力が抜けるところです。


2 エスマン中尉と「押し付け」憲法論


(1)若き俊秀と敗戦日本
 さて,日本の新憲法における執行権の在り方について,はしなくもハッシー中佐と対立することになったエスマン中尉ですが,コーネル大学のエスマン名誉教授に関するウェッブページでは,日本に進駐して来るまでのエスマン青年の経歴を次のように紹介しています。


 1939年 コーネル大学で政治学(Government)の学士号(A.B.)取得

 1942年 プリンストン大学で政治学(Politics)の博士号(Ph.D.)取得

 194211月に陸軍に入隊

 1944-1945年 ハーヴァード大学において軍政について訓練受講

        (Military Government Training


となっています。

 さすがは大日本帝国。アメリカ合衆国政府も心して,選ばれた俊秀を送り込んできていますね。

 「コーネルだか,プリンストンだか,ハーヴァードだか,博士だかしらんが,まだ27歳の若輩者じゃないか。アメリカ人は長幼の序ということを知らんのか。日本の青年ならばその年齢なら,まだ一人前にものなど言えず,わしら権威者のために,従順におとなしく,献身的に下働きをするものだっ。」という不満も脳裏をかすめたかもしれませんが,現に戦争をしくじった当時の大日本帝国の年配の指導層としては,その「指導」下においてあまた散華させてしまった若者たちのことをも思えば,他国人とはいえ,若いからとて一人前以上の学識ある青年に対して偉そうな態度をとるわけにはいかなかったでしょう。(エスマン中尉については「「民政局に勤務した40〜50人に及ぶ専門家の中でも, 最優秀の逸材の一人でした」と上司であったジャスティン・ウィリアムズ氏はほめちぎってい」たそうです(鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(角川文庫・2014年(単行本1995年))56-57頁。)

 前記ウェッブページによれば,エスマン教授の研究関心分野は,「民族的,人種的及び宗教的多元主義の政治並びに民族紛争の制御過程」,「開発政策管理――主に第三世界諸国における開発計画,施策及び事業の立案及び執行並びに行政制度の確立」,「第三世界諸国における農林漁村地域開発の政治及び行政」などということになっています。同教授は,自国アメリカのことにしか関心がない狭い視野の人物ではなく,むしろ他国の民族,宗教,文化をそれぞれ尊重することの必要性をわきまえた懐の広い人物なのでしょう(1957年から1959年までは南ヴェトナムに,1966年から1968年まではマレーシア政府総理府に派遣されています。)。そして,このことは,日本進駐時の若いころからそうだったのではないでしょうか。アメリカ的価値観及び制度を一方的に押し付けようとする傲慢からは遠いところにいた人物であったようです。


(2)20世紀末の参議院憲法調査会における書面陳述をめぐって

 200052日,第147回国会の参議院第7回憲法調査会において,日本国憲法に係るGHQ草案の起草状況に関する参考人として呼ばれながらも健康上の理由で欠席したエスマン元中尉の予定陳述原稿が代読されており,記録されています。そこには,次のようなくだりがありました。



 当時,私は新憲法起草のために選択された方法には反対を表明した。権威主義的な明治憲法に取ってかわる民主主義を鼓舞する新しい政府の憲章が必要ではあったが,私は民主主義的考えを持つ日本の学者とオピニオンリーダーが新憲法起草の仕事に参画し担うことが重要だと考えた。それができないことには,新憲法は外国から押しつけられたものと見られ,占領時代が終わった後には存続できないと考えたからだ。当時の私は総司令部の中では若い下級将校だったために,私の反対意見は簡単に退けられた。しかし,その後の展開で私の考えが間違っていたことが証明された。すなわち,日本国民の大多数はマッカーサー昭和憲法を自分たち自身のものとして受け入れ,熱心にこれを擁護してきた。その理由は,憲法の条文がぎこちないものであったにもかかわらず,彼らの真の政治的願望を表現しているからである。


 この書面陳述をどう読むべきでしょうか。

 「GHQも自分たちがやっていることが「押し付け」だと明白に認識していたんだ。やっぱり現憲法は押し付け憲法なんだ。」というふうな話を大いに展開するための「つかみ」とすべきか・・・。

 しかしむしろ,エスマン教授が言いたかったのは「私の考えが間違っていたことが証明された。すなわち,日本国民の大多数はマッカーサー昭和憲法を自分たち自身のものとして受け入れ,熱心にこれを擁護してきた。」の部分であったように思われます。「押しつけ」憲法だとして日本人に受け入れられないのではないかとはらはらドキドキ心配していたけど,結果として,あなた方「日本国民の大多数」から喜ばれる大変よい仕事であったわけであった,よかったよかった,というわけです。この安堵をエスマン教授にもたらしたものは,GHQの占領政策を何が何でも正当化しようとする偏狭な独善に基づく主観的自己欺瞞(「諸国法の諸条項の単なる当てはめではない,経世済民の法に係る深いアカデミックな学識と高い哲学的思索とに基づく我が業績は常に真善美と共にあるのであって,男女よろしく余を師と仰ぐべし。」といった類のもの)ではなく,その後の日本現代史に表れた日本国憲法に係る我々日本人の意識及び姿勢の客観的な観察の結果であったようではあります。

 なお,19462月,エスマン中尉が前記の反対意見を述べたために,同中尉はホイットニー民政局長によって直ちにGHQの憲法草案起草チームから「追放」された,というような主張がインターネット上で一部流布しているようですが,どうしたわけでしょう。退けられたのは当該意見だけで,エスマン中尉は憲法草案起草チームに引き続きとどまって大いに活躍しています(ただし, イエスマンならぬEsman中尉は, 強い総理大臣が必要であるとの意見を述べ, 優秀過ぎて煙たがられ, 憲法草案起草の終盤には日光視察という新任務を割り当てられています(鈴木57頁, 267-268頁, 317頁)。組織人としての「見ざる, 聞かざる, 言わざる」🙈🙉🙊の研究でしょうか。)。 (エスマン教授は, 2015年2月7日, 96歳で亡くなりました。)

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 GHQのあった皇居お濠端の第一生命ビル