「我に自由を与えよ,しからずんば死を与えよ。」


有名なこの言葉は,アメリカ独立革命が胎動していた1775323日,イギリス総督が駐在する首都ウィリアムズバーグを避けてリッチモンドのセント・ジョン教会に集会していた植民地人の第2回ヴァジニア会議(Virginia Convention)において,植民地人の武装防衛準備を主張するパトリック・ヘンリーの名演説中の名せりふです。



……後退は,屈服及び隷従以外の何物でもない。我々の鉄鎖が準備されている。ボストンの平原では,その金属音が鳴っているのが聞こえているであろう。戦争は避けられない。では,それを来たらしめよ。私は繰り返す,議長,それを来たらしめよ。

議長,事態を緩和しようとしても,それはむなしい。紳士諸君は唱えるであろう,平和,平和と。しかし,平和は存在しない。戦争は現実に始まっているのである。北部から吹き付ける次の強風は,大いなる剣戟の響きを我々の耳にもたらすであろう。我々の同胞は,既に戦場にある。なぜ我々は,手をつかねたままここにいるのか。

紳士諸君は何を求めているのか。彼らは何を得るのであろうか。

鉄鎖と隷従とをもってあがなうべきほど,生命は貴く,平和は甘美なものであるのか。やめていただきたい,全能の神よ。

他の人々がどういう途をとろうとするのか,私は知らない。しかし, as for me, GIVE ME LIBERTY OR GIVE ME DEATH!



 米国建国史中の劇的場面の一つです。

 赤毛で大柄な,当時38歳のパトリック・ヘンリーの雄弁の力があずかり,また,新開の西部諸郡及び若手の代議員の賛成があって,武装防衛準備案は辛くも6560で可決されました。

 売れっ子弁護士であったパトリック・ヘンリーは,ヴァジニアにおける対イギリス独立革命の指導者となります。

 パトリック・ヘンリーの「自由か死か」演説があった翌月の19日には,緊張が高まっていたマサチューセッツ(首都ボストン)のレキシントン及びコンコードでイギリス本国軍と植民地人との間に武力衝突が発生。アメリカ独立戦争が始まります。

1776年にヴァジニアイギリスから独立を宣言。パトリック・ヘンリーは13邦中の最大邦である独立ヴァジニアの初代知事に選出され,合衆国の建国の父の一人として米国史に名をとどめることになります。


 さて,このパトリック・ヘンリー大弁護士,政治家として偉大であったのみならず,弁護士業においても売れっ子だったということですから,さぞや弁護士資格試験も優秀な成績で合格したのだろうな,とつい考えてしまうところです。


 ところがさにあらず。


 商店経営に2度失敗し,義父の居酒屋でバーテンダーをし,そして法律家道を志したパトリック・ヘンリー先生の弁護士資格試験に向けての法律修行は,極めて横着かつ短いものでありました。6週間ほど法律書を読んだだけであります。(とはいえ,法律教育の制度がいまだに整備されていなかった当時のヴァジニアでは,下級裁判所又は郡裁判所だけで仕事をするつもりであれば,法律書を読み,無給の法律事務員をして,数箇月から数年がたったところで,筆記試験及び口頭試験からなる弁護士資格試験を受けてしまうのが普通であったそうです。)

有名な法学者で,かつ,ジェファソンや後の米国連邦最高裁判所首席判事であるジョン・マーシャルの師匠でもあったジョージ・ウィス(Wythe)が試験委員の一人であったのですが,真面目なウィス先生はパトリック・ヘンリー受験生の前記修行成果にぞっとした余り,当該受験生に与える弁護士免許状への署名を拒否したと伝えられております。


知人の一人であった秀才ジェファソンは,弁護士パトリック・ヘンリーの能力について,その得意とする雄弁が物をいう郡裁判所での「陪審裁判案件以外については,全くなってなかった」との評価を後に下しています。更にいわく,パトリック・ヘンリーは「最も簡単な案件についても,法律的な批判はいうもおろか,文体及び思考の正しさに係る通常の批判に耐えられる書面を書くことができなかった。というのも,彼の頭の中には,思考の正確というものが全く欠落していたからだ。彼の想像力は,豊富で,詩的で,崇高だったが,しかし漠然としていた。彼は最美の言葉で最強のことを語った。しかし,論理がなく,構成もなかった。」と。


 しかし,パトリック・ヘンリー弁護士は実務において高く評価されていました。財産を分与せよと未亡人が亡夫の家族を訴えて勝訴した,ウィリアムズバーグの社交界で評判になった訴訟における原告訴訟代理人の一人であった彼が,「法によって裏付けながら正義主張してい彼は,輝いていた。」と依頼人の母親からベタぼめされた旨の記録が残っています。


  なお,上記事件に係る夫婦の関係は,夫の生前,余計な話ですが,京都地方裁判所昭和62512日判決(判時125992頁)のものと同様でした。京都地方裁判所の当該判決は,夫婦の重要事ができない夫に対する妻からの離婚請求を民法77015号に基づき認めたものですが(更に200万円の慰謝料支払が認められました。),ヴァジニアの夫婦については,夫の家族から依頼を受けたジェファソンが,夫の側からする請求をうけて植民地議会の個別立法によって離婚が認められないか(裁判での離婚は無理だったそうです。),イギリス本国と北アメリカ植民地との法域の相違に関連する問題をも含種々法的な調査研究を行っていたところでした。


 ところで,パトリック・ヘンリーの法律家としての能力に辛口の評価を下していた秀才弁護士ジェファソンでしたが,それでは,夫子御自身の弁護士業の業況はどのようなものだったのでしょうか。

 

 うまくいかなかったようです。


 嫌気がさして1774年に弁護士業をやめるまでの平均収入は,依頼者からの報酬の徴収率がなかなか5割を超えず,1993年の貨幣価値で年2万ドル程度であったといわれています。

 奴隷をも抱える地主としての収入がなければ,弁護士業だけではジェントルマンとしてやっていけなかったわけです。ジェントルマンの余技として法律家をやっているような形になっていたようです。
 (なお,ジェファソンは,晩年,巨額の負債に苦しめられます。)



 さて,前回に続いて「二回試験」に向けて司法修習生を励ますつもりで書き始めた今回の記事ですが,これをどう締めくくるべきでしょうか。


 弁護士資格を得る「二回試験」での成績が悪かったパトリック・ヘンリーはそれでも弁護士として輝き,他方ジョージ・ウィス門下の秀才であったジェファソンは弁護士報酬債権を厳しく取り立てるわけにもいかずに苦しむ羽目に陥ったのだから,実務は実務,成績にまで今からそう神経質にならず,まずは司法修習生考試に合格することを考えて,効率よく考試対策をしようよ,と言えば,司法修習生に対する励ましになるでしょうか。


 無論,「えっ,この成績ではもしかしたら合格させられないんじゃないの。」と,かつてのジョージ・ウィスのごとく司法修習生考試委員会委員長が懸念されるような司法修習生であっても,運命の力によって明日の日本の偉人となる多様な可能性は,常に存在しているところです。



(つけ足しの後日談: アメリカ独立戦争終盤の1781年にイギリス軍のヴァジニア邦侵寇がありましたが,その当時の同邦知事であったジェファソンの「ヘマ」に関する邦議会における調査をめぐって,ジェファソンとジェファソンの先代知事パトリック・ヘンリーとは仇敵の間柄となります。その後1784年12月8日付けのジェイムズ・マディソンあての書簡においてジェファソンなおいわく。「ヘンリー氏が生きておられる限り,また変な憲法が作られて我々にとって永久に厄介なことになるのではないでしょうか。・・・我々がなすべきことは,私が思うには,敬虔な心をもって,彼に死が与えられんことを祈ることであります。(What we have to do, I think, is devoutly to pray for his death.) 」セント・ジョン教会でのGIVE ME DEATH「死を与えよ」演説から9年余を経ての,救国の雄弁家パトリック・ヘンリーに対する「死ねよ」との辛辣な批評でありました。パトリック・ヘンリーは,ジェファソンの毒気を浴びながらも1799年まで生きます。)


(参考)Randall, W.S., Thomas Jefferson: a life33-34, 45-46, 75, 163-164, 167-168, 222-227, 344-345



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ウィリアムズバーグ旧市街の裁判所の建物(手前にさらし台があります。)