1 フン人

ローマ帝国が西のウァレンティニアヌス,東がウァレンスの兄弟皇帝(前者が後者の兄。なお,valensは動詞valere(健康であること。)の現在分詞形なので,しいて弟皇帝ウァレンスの名を日本語訳すると「健次郎」ということになりましょうか。)によって統治されていた西暦4世紀の後半,ドナウ川の北,その東北方面に住むゴート人に対してフン人が東方から圧迫を加えます。

フン人とは何者か。

 

   Prodigiosae formae, et pandi; ut bipedes existimes bestias; (Ammianus)

 

   奇異な外観で,かつ,湾曲した者らであって,二本足の獣らと思いなされる。(アンミアヌス)

 

更にギボンの『ローマ帝国衰亡史』第26章には,「スキュティアのこれら野蛮人は,・・・古代の橋梁上にしばしば設置された歪んだ形の境界(テル)()()の像になぞらえられた。」(“These savages of Scythia were compared … to the mis-shapen figures, the Termini, which were often placed on the bridges of antiquity.” (Gibbon, The History of the Decline and Fall of the Roman EmpireChapter XXVI; p.1044, Vol. I of the Penguin Books, 2005))とあるところです。

 

    Species pavenda nigredine … quaedam deformis offa, non facies; habensque magis puncta quam lumina. (Jornandes)

 

     恐るべき黒さの外観・・・いわば奇形の肉塊であって,顔ではない。しかして,目というよりはむしろ点を有している。(ヨルダネス)

 

   A fabulous origin was assigned, worthy of their form and manners; that the witches of Scythia, who, for their foul and deadly practices, had been driven from society, had copulated in the desert with infernal spirits; and that the Huns were the offspring of this execrable conjunction. The tale, so full of horror and absurdity, was greedily embraced by the credulous hatred of the Goths; but, while it gratified their hatred, it encreased their fear; since the posterity of daemons and witches might be supposed to inherit some share of the praeternatural powers, as well as of the malignant temper, of their parents. (Gibbon pp.1044-1045) 

 

   彼らの体型及び所作にふさわしい荒唐無稽な出自が彼らに帰せられた。すなわち,スキュティアの魔女らがその死穢に満ちた不潔の所業のゆえに人界から追放され,荒野において地獄の霊らと交尾した,しかしてフンは,この穢らわしい交配から生まれた子孫だというのである。恐怖と不条理とに満ちたこの説話は,ゴート人の信じやすい憎悪によって貪るように受け容れられた。しかし,彼らの憎悪は満足される一方,彼らの恐怖は増大した。悪魔らと魔女らとの後裔は,彼らの親たちの邪悪な気性と共に超自然的な力の一部をも受け継いでいるものと考えられ得たからである。(ギボン)

 

なお,フン人の後裔については,「マジャール/ハンガリー人が定住しキリスト教に改宗した後で,みずからの歴史の著述に取りかかったとき,ヨーロッパの民とは言えなかったので,彼らはこの光威あるフン族の子孫であると称し」たそうですが(カタリン・エッシェー=ヤロスラフ・レベディンスキー(新保良明訳)『アッティラ大王とフン族』(講談社・2011年)241頁),しかし「現代のハンガリーにおいてはフンの神話はもはや史実とは見なされていない」そうです(同248頁)。そうであれば,「本邦の域外の国若しくは地域の出身である者」であるフン人の「子孫であって適法に居住するもの」たるハンガリー人の方々は現実には存在せず,したがって,フン人に係る前記非友好的描写をしてしまった上で当該描写がそれらの方々に対する「本邦外出身者を著しく侮辱」する類型の「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」に当たるのではないかしらとくよくよ心配することは,取り越し苦労にすぎなかったということになるようです(本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律(平成28年法律第68号)2条・3条参照)。5世紀半ばのアッティラ大王の死後「分裂し弱体化したフン族は,以後,新たな遊牧民集団の中に溶解してゆく定め」だったのでした(エッシェー=レベディンスキー222頁)。

 

2 ドナウ河畔のゴート人とウァレンス政権の対応

 前記の恐ろしいフン人の圧迫を受け,フリティゲルン(Fritigern)及びアラウィウス(Alavivus)に率いられた西ゴート人は,ローマ帝国の東北国境であるドナウ川の北岸に急ぎ移動し,ローマ帝国の東帝の保護を懇請するに至ります。

 

   ・・・〔シリアのアンティオキアにいた〕皇帝〔ウァレンス〕の注意は,ドナウ川国境防衛の任務を与えられていた文武官らからもたらされた重大情報に対して最も真摯に振り向けられた。北方は凶暴な騒乱下にあること,未知かつ怪物的な野蛮人種であるフン人の侵入によってゴート人の支配が覆されたこと,その自尊心は今や塵にまみれ辱められたかの好戦民族が哀れみを求める群衆と変じてドナウ川の岸辺を何マイルにもわたって覆っていることが彼に報知された。

彼らは,腕を差し伸ばし,哀れにも悲嘆にくれ,声高に彼らの過去の不運と現在の危険とを嘆いております。彼らの安全に係る唯一の希望は,ローマ政府の慈悲のうちにしかないということを認めております。皇帝の寛仁大度が彼らにトラキアの荒蕪地の耕作を認めてくれるのであれば,最も強い義務と感謝との覊束によって,国家の法を守り,その国境を防衛し続けて已まざる旨極めて厳粛に表明しております。

これらの保証の言は,彼らの不幸な同胞の運命を最終的に決定すべき回答をウァレンスの口から聴くべく焦慮しつつあったゴート人派遣外交使節によって確認された。

東帝は,前年の終わり頃3751117日)に死亡していた兄〔ウァレンティニアヌス〕の知恵及び権威によって今や導かれてはいなかった。しかして,ゴート人の苦境は即時かつ断乎たる決定を求めていたため,引き延ばされた末の,かつ,曖昧である方策こそが全き慎重に係る最も称賛すべき努力であると考えるところの弱くかつ臆病な人々にとっての常套的愛好策は,彼の選択肢から取り除かれてしまっていた。

人類のうちに同一の情熱及び利害が存続する限り,古代の政策検討の場において議論された戦争と平和,正義と政策とに係る問題は,現代の議論の主題として何度も登場するであろう。しかしながら,最も経験豊かなヨーロッパの政治家も,絶望と飢えとによって衝き動かされて文明国家の領域内に定住することを請い求める蛮族(バーバリアンズ)の無数の大群を受け入れ,又は拒絶することの適切性又は危険を衡量すべき場に引き出されることはかつてなかったのである。(ギボン10461047頁。改行は,筆者によるもの)

 

 「最も経験豊かなヨーロッパの政治家も,絶望と飢えとによって衝き動かされて文明国家の領域内に定住することを請い求める蛮族(バーバリアンズ)の無数の大群を受け入れ,又は拒絶することの適切性又は危険性を衡量すべき場に引き出されることはかつてなかったのである。」とのギボンの観察は,18世紀後半の当時には当てはまったとしても,21世紀の今日においてはそうではないように思われます。

 

公共の安全に本質的にかかわる当該重要論題がウァレンスの大臣らの議に付された時,彼らは当惑し,意見は分かれた。しかしながら,彼らはやがて,彼らの君主の自尊心,怠惰及び貪欲にとって最も好都合であると見られたところの調子のよい感情に黙従するに至った。総督や将軍といった称号で飾られた奴隷どもは,帝国の最辺境において受け入れられていた部分的及び偶発的植民とは余りにも大きく異なるものであるこの民族大移動に係る恐怖を隠蔽し,又は無視した。彼らはしかし,ウァレンスの帝位を守護するために地上の最も遠い国々から無数かつ無敵の異邦人の軍隊を招来するにいたった幸運の物惜しみなさを称賛した。彼は今や,毎年の徴兵の代替として属州民から貢納される莫大な量の黄金を,その帝室金庫に加えることができるのである。

ゴート人の祈りは聴き届けられ,彼らの服務は帝室によって受け入れられた。彼らの将来の居住地として適切かつ十分な地域が割り当てられるまでの大集団の移動及び生存のために必要な準備をするよう,トラキア管区の文武の長官に対して命令が直ちに発せられた。しかしながら,皇帝の気前のよさには,二つの苛酷かつ厳重な条件が付されていた。これらは,ローマ人の側では用心ということで正当化され得たであろうが,困窮のみが,憤然たるゴート人をして同意に至らしめ得たものである。

ドナウ川を渡る前に,彼らは武器を引き渡すことを求められた。

また,子供らは彼らから引き離され,アジア各州に分散されるべきことが要求された。そこにおいて子供らは,教育のわざによって文明化され,彼らの親たちの忠誠を確保するための人質としての役割を果たすこととなろう。(ギボン1047-1048頁。改行は筆者によるもの。)

 

3 古代ローマの民族構成及び婚姻奨励策並びにウァレンス政権のゴート人受入れ政策

 

(1)民族構成

本来ローマ帝国は外国人の受入れについて鷹揚な国柄ではありました。1世紀の初代皇帝アウグストゥスの時代について,既に次のようにいわれていました。

 

 ・・・風俗の改革は失敗だった。離婚と産児制限が家庭を破壊し,旧家の血統は絶えようとしていた。ローマ市民の4分の3は解放奴隷の子であるという事実がすでに明らかになっていた。(I・モンタネッリ(藤沢道郎訳)『ローマの歴史』(中公文庫・1996年)319頁)

 

奴隷の供給源は主に戦争捕虜だったそうです(オッコー・ベーレンツ=河上正二『歴史の中の民法―ローマ法との対話』(日本評論社・2001年)132頁)。したがって,要するに,「ローマ市民の4分の3は解放奴隷の子である」ということは,生粋のローマ人は既に少数者にすぎない存在となってしまっていたということでしょう。紀元後1世紀末には「ローマの人種的構造そのものが変わってしまっていた。外国人の血が一滴も混じらぬ純血のローマ人など,もはや存在しなかったろう。ギリシア人,シリア人,ユダヤ人などの「少数民族」は,全部一まとめにすればローマ市の絶対多数を占めていた。」ということになっています(モンタネッリ390頁)。

 

(2)婚姻奨励策

なお,現代の日本と同様,離婚を云々する以前に,古代ローマにおいてもそもそもの婚姻数の減少が問題になっていたところです。既に共和政の段階から「堕落を始めた風俗が,市民が婚姻を厭うようにすることに大いに貢献した。無邪気な歓びに対する感受性を失った者にとって,婚姻は苦痛以外の何物でもない。」という状態でした(Montesquieu, De l’Esprit des lois, XXIII, 21)。そこで婚姻奨励法があり,「カエサルは,沢山の子供を持っている者に手当を与えた。彼は,45歳未満で夫も子もない女性に対し,宝石を身に着け,又は輿を用いることを禁じた。これは虚栄心を利用した優れた非婚対策である。アウグストゥスの法律は,より厳しいものであった。彼は未婚者に対して新たな罰金を科し,既婚者に対する手当及び子持ちの者に対するそれを増額させた。タキトゥスはこれら一連の法律をユリウス法と呼んだ。」ということです(Montesquieu, ibid.)。しかし,古代ローマ人男性は,現代の心優しい日本人男性のような安心・安全な草食動物ないしは草では全くありませんでした。「諸君が独身でいるのは,一人で生活するためでは全くない。諸君は皆,食卓及び寝台を共にする相手を持っていて,放縦の中にのみ安心を求めているのだ。独身のウェスタ聖女の例を持ち出すのか?そうであれば,諸君が貞潔に関する法律を守らないのならば,彼女らと同様に諸君を罰しなければならぬ〔すなわち,棒で叩いて生き埋めにする〕。」などとアウグストゥスが彼らに対してぶっているところです(Montesquieu, ibid.)。

 

(3)ゴート人受入れ政策

ウァレンス政権の見解としては,ゴート人の大量受入れはよいことであり,国防上も国家財政的にも望ましいということだったのでしょう。国民経済的観点からすれば,「中小・小規模事業者をはじめとした人手不足は深刻化しており,我が国の経済・社会基盤の持続可能性を阻害する可能性が出てきている。このため,〔略〕従来の専門的・技術的分野における外国人材に限定せず,一定の専門性・技能を有し即戦力となる外国人材を幅広く受け入れていく仕組みを構築する必要がある。」というようなことでしょう(2018615日閣議決定「経済財政運営と改革の基本方針2018について」の別紙である「経済財政運営と改革の基本方針2018~少子高齢化の克服による持続的な成長経路の実現~」26頁)。3世紀末から5世紀後半までのローマ経済の状態は,「奴隷が解放されてコロヌスと呼ぶ土地に束縛された小作人になる。都市の住民は同職仲間の構成員としてコレギウムをつくらされ,国家的負担を負わなければならない。職業は世襲化されて,自由闊達の空気はどこにもみられない。貨幣の流通は減少して,公課も生産物や労働による傾向をしめして来る。これは文字通り動脈硬化の社会であり,そこから新しい企業の発生する余地はまったく望みえない。残っているのは,理念的に高められた皇帝権と役人の制度だけである。」というものだったようです(増田四郎『ヨーロッパとは何か』(岩波新書・1967年)75-76頁)。奴隷については,ローマ軍がなかなか勝てなくなってしまったことから補給難であり,価格が高くなってしまっていたとのことです(増田68-69頁)。

武器の携帯にゴート人はこだわったようですが,困ったものです。我が出入国管理及び難民認定法(昭和26年政令第319号(いわゆるポツダム命令の一つ。昭和27年法律第1264条・1条参照)。以下「入管法」と略称します。)5条1項8号は,「銃砲刀剣類所持等取締法(昭和33年法律第6号)に定める銃砲若しくは刀剣類又は火薬類取締法(昭和25年法律第149号)に定める火薬類を不法に所持する者」である外国人は本邦に上陸することができないものとしています。

子供の教育についてはアジアの地で行われることになっていましたが,これは,「外国人が〔我が国〕社会で円滑に生活できる環境を整備し,共生社会が実現されるよう,生活者としての外国人に対する〔国〕語教育及び子供の教育の充実について,体系的な取組を進めてまいります。〔略〕子供の教育に関しては,学校におけるきめ細やかな指導の充実,教員定数の改善等に努めてまいります。加えて,ICTを活用した取組の全国展開や,高校生に対するキャリア教育,夜間中学の充実,就学促進等を総合的に進めることが重要と考えています。」というような取組が現地においてされることを期待してのことだったのでしょう(2018724日の日本国の外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議(第1回)における林芳正文部科学大臣発言参照)。

 

4 ゴート人のドナウ正式渡河前の状況等

ウァレンス帝が高邁な寛仁大度を示しつつある一方,現場ではどうしても混乱が生じます。

 

   疑わしく,かつ,遠隔地で行われている交渉が未だに結論を得るに至っていないこの期間中に,辛抱できないゴート人は,その保護を求めていた当の政府の許可を得ぬまま,ドナウ渡河の性急な試みをいくつか行った。彼らの動きは,川沿いに駐屯していた軍隊の警戒態勢によって厳しく監視されていた。そして,彼らの最先頭部隊は少なからざる殺戮と共に破された。しかしながら,これがウァレンス治下の臆病な政策決定というものなのだが,任務の遂行によって国に尽くした勇敢な将校らは,馘首によって罰せられ,かろうじて彼らの生首が留められたのであった。(ギボン1048頁)

 

我が国の内閣総理大臣は,2018724日に,国務大臣,報道関係者らを前に次のように発言しています(外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議(第1回))。

 

〔前略〕一定の専門性・技能を有し即戦力となる外国人材を幅広く受け入れていく仕組みを構築することは急務であります。新たな制度による外国人材の受入れは,来年〔2019年〕4月を目指して,準備を進めてまいりたいと考えていますので,法案の早期提出,受入れ業種の選定等の準備作業を,速やかに進めていただくよう,お願いします。

 また,新たな制度による受入れを含め,在留外国人の増加が見込まれる中,日本で働き,学び,生活する外国人の皆さんを社会の一員として受け入れ,円滑に生活できる環境を整備することは重要な課題です。本日の閣議決定により,法務省が外国人の受入れ環境の整備に関する総合調整を行うこととなりました。法務省の司令塔的機能の下,関係府省が連携を強化し,地方公共団体とも協力しつつ,外国人の受入れ環境の整備を効果的・効率的に進められるよう,関係閣僚の御協力をお願いします。〔後略〕

 

 「本日の閣議決定」たる2018724日の閣議決定「外国人の受入れ環境の整備に関する業務の基本方針について」においては,「今後も我が国に在留する外国人が増加していくと考えられる中で,日本で働き,学び,生活する外国人の受入れ環境を整備することによって,外国人の人権が護られ,外国人が日本社会の一員として円滑に生活できるようにしていく必要がある。」と謳われています。「日本で働き,学び,生活する外国人」も「日本社会の一員」であり,その「人権が護られ」なければならないものとされています。

 以上は行政・立法に関する最近の動きですが,司法の場においても,上記閣議決定等に示された来たるべき我が新しい国のかたち及び前記ドナウ川守備隊馘首処分事件の前例に鑑みた上で更にしかるべき忖度も行われることがあれば,不法(オーバー)残留(ステイ)に係る入管法違反被告事件(同法7015号により3年以下の懲役若しくは禁錮若しくは300万円以下の罰金又はその懲役若しくは禁錮及び罰金の併科)の量刑相場(起訴されてしまった以上は,前科がなくとも最低懲役1年・執行猶予3年(第一東京弁護士会刑事弁護委員会『量刑調査報告集Ⅴ』(20183月)137-138頁参照))の低減までが20194月よりも前からなされ得るかもしれないとの淡い期待が抱懐されるところです(ここで量刑相場の低減が望まれるのは,執行猶予が付いても,懲役「1年」に処せられたこのとある以上,被告人は以後ずっと入管法514号の上陸拒否事由にひっかかってしまうからです(ただし,同法5条の2)。ちなみに,外国人ノ入国,滞在及退去ニ関スル件(昭和14年内務省令第6号)においては不法残留に対する罰は50円以下の罰金又は拘留若しくは科料にすぎませんでした(19条)。)。しかしながら,そのような期待は,甘いものと断ぜざるを得ません。新しい国のかたちなのだと弁護人がいろいろ頑張って弁論してみても,「弁護人は熱心に活動してくれました。それに対する感謝の心を忘れてはいけませんよ。」というような訓戒が判決宣告後裁判官から被告人に対してされるようなことはあるかもしれませんが(刑事訴訟規則221条),量刑相場はなかなか揺るがないでしょう。

 なお,2018724日の閣議決定においては「外国人の人権」を護るものとされていますが,外国人には本邦に入国する自由(権利)はないと解する最高裁判所昭和32619日大法廷判決(刑集1161663頁)の判例を否定するものではないでしょう(同判決は「憲法22条は外国人の日本国に入国することについてはなにら規定していないものというべきであつて,このことは,国際慣習法上,外国人の入国の許否は当該国家の自由裁量により決定し得るものであつて,特別の条約が存しない限り,国家は外国人の入国を許可する義務を負わないものであることと,その考えを同じくするものと解し得られる。」と判示)。しかしながら,更にマクリーン事件に係る「憲法上,外国人は〔略〕在留の権利ないし引き続き在留することを要求し得る権利を保障されているものでもないと解すべき」であり,かつ,「出入国管理令上も在留外国人の在留期間の更新が権利として保障されているものではない」とする判例(最高裁判所昭和53104日大法廷判決民集3271223頁)が維持されるとしても,在留期間の更新の許可に係る入管法21条の「広汎」な「法務大臣の裁量権の範囲」(同判決)も,いったん「日本社会の一員」として受け入れられた外国人については,「護られ」るべきその「人権」によって制約されるものとして,少なくとも行政上の法運用はされていくのでしょう。「在留期間中の憲法の基本的人権の保障を受ける行為を在留期間の更新の際に消極的な事情としてしんしゃくされないことまでの保障が与えられているものと解することはできない」ということであれば,日本社会の一員として受け入れられた「外国人の人権が護られ」ているとはなかなか胸を張って言いにくいところです。ただし,「国籍や民族などの異なる人々が地域社会の構成員として共に生きていく多文化共生の推進は,地方自治体の重要な課題」とされているところ(外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議(第1回)における野田聖子総務大臣の発言),ここでの「多文化共生」の概念にこだわれば,形としては「地域社会の構成員」ではあっても,日本文化の共同体たる「日本社会」の一員としての受入れまでは,まだなかなかということでしょうか。

 

5 ドナウ渡河のゴート人の数に関して

さて,376年にドナウ川を越えたゴート人の数はといえば,アンミアヌスによれば次のとおりだとか(ギボン1049頁)。

 

  Quem si scire velit, Libyci velit aequoris idem

   Scire quam multae Zephyro truduntur harenae (Vergilius, Georgica)

 

しかしてそれ〔の数〕を知ろうとする者は,どれほど多くのリビア平原の砂粒が西風によって動かされるかを知ろうとするもの(ウェルギリウス『農耕歌』)

 

ただし,ギボンは,渡河したゴート人の戦士の数は約二十万人で,ゴート人全体(女性,子供及び奴隷を含む。)では百万人近くになったのではないかとしています(1049頁)。しかし,この数字はいかにも大き過ぎるようです。秀村欣二教授によれば「375年ついにヴォルガ川を渡ったフン族の圧迫をうけた約六万の西ゴート人は,首長フリティゲルンにひきいられてドナウ川南岸のローマ領内に定住することを求めた。」ということで,渡河の許可を求めたゴート人の数は約六万人とされています(村川堅太郎責任編集『世界の歴史2 ギリシアとローマ』(中央公論社・1961年)468頁)。堀米庸三教授は「アラン族を征服したフン族は,375年,ドン川をこえ,怒涛のようにドニエプル下流地帯の東ゴート族におそいかかった。〔中略〕フン族は息つく間もなくドニエストル,ドナウ間にすむ西ゴート族をおそった。その勢いにおしまくられた西ゴートの一部は,北方のカルパティア山脈の麓に退いたが,キリスト教を奉ずる他の一部は,東ローマの許可をえてドナウ川をわたり,ローマ帝国内に移った。これはゲルマン人が部族集団のままでローマ領内に入った最初で,まさに劃期的意味をもつ事件である。彼らの数は約四万,うち八千が戦士だった。」と述べており(堀米庸三責任編集『世界の歴史3 中世ヨーロッパ』(中央公論社・1961年)4-5頁),ギボンの張扇は25倍もの誇張をしたものとされています。「近年の研究を見ると,376年にドナウを渡った人々の数は,多く見積もって数万と推定する学説が多いように思われる。もしこれが正しいならば,それまでの例に比して376年の移動が格別に大規模だったとはいえないだろう。」ということになるようです(南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』(岩波新書・2013年)164頁)。

なお,2017年末の日本国内の在留外国人の数は2561848人ですが,これは,その前年3月に東日本大震災があった2012年の末には2033656人であったところ,2013年には32789人,2014年には55386人,2015年には110358人,2016年には150633人,2017年には179026人がそれぞれ順次増加してきたものです(2018327日法務省入国管理局報道発表)。外国人労働者数について見れば,201710月末には1278670人であって,この数字は,201210月末の682431人から1年ごとに35041人,70116人,120272人,175860人,194950人がそれぞれ順次増えて5年間で約1.9倍になったものです(20181012日の外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議(第2回)資料・法務省入国管理局)。毎年数万を超える外国人が流入しているということであれば,21世紀の日本は4世紀後半のゲルマン民族大移動期のローマ帝国と似たような状況にあると考えることも許されるのでしょう。


6 ゴート人,下モエシアに入る。

丸腰で平和的にローマ帝国内に移住するはずだったゴート人らですが,やはり蛮族たるもの,武器は手放せません。

 

 ・・・彼らの武器を名誉の印かつ安全の担保とみなす蛮族(バーバリアンズ)は代価を提供するにやぶさかではなかったし,帝国官吏らの好色及び貪欲は,それらの受取りに向け容易に誘惑された。彼らの武器を保持するために,驕慢戦士らは,若干の逡巡はあったものの,彼らの妻及び娘の肉体を提供することに同意した。麗しい娘又は顔立ちのよい青年の魅力が検査官の黙認を確保した。彼らは彼らの新たな同盟者の縁飾りのあるカーペット及びリンネルの衣類に対してしばしば物欲しげな視線を向け,あるいは彼らの農場を家畜で,彼らの家屋を奴隷で満たすという卑しい考慮の前に彼らの義務を犠牲に供した。(ギボン1049頁)

 

さて,大勢の移住民の面倒を見るのは大変な仕事です。

 

   規律なく未定住の野蛮(ネーション・オブ)民族(・バーバリアンズ)ついては,最高度の沈着及び最巧緻な管理を必要とした。百万人近くの普通ではない臣民の毎日の生存は,恒常的かつ手際のよい業務精励によってのみ扶持され得るものであったし,手違い又は事故によって不断に障碍され得るものであった。彼らが恐怖又は蔑視いずれかの対象であると自ら認識した場合においては,ゴート人の不遜又は憤懣は彼らをして最も極端な行動に駆り立て得たところであって,国家の安危は,ウァレンスの将軍らの廉潔と共に慎重にかかっているものと見受けられた。

この重大な危機に際してトラキアの軍政はルピキヌス及びマクシムスによって担われていたが,彼らの欲得ずくの性根においては,わずかな私的利得の望みですら公共の利益に係る全ての考慮よりも重きをなすものとされていたし,彼らの罪を軽減するものは,彼らの性急かつ犯罪的な行政がもたらす有害な効果を認識し得ない彼らの無能のみであった。

君主の命令に従い,かつ,適正な気前のよさをもってゴート人の需要を満たす代わりに,彼らは飢えた蛮族(バーバリアンズ)の生活必需品に対して吝嗇的かつ圧制的な税を課した。最も粗末な食品が途方もない値段で売られた。さら,健康的かつ十分な食糧供給の代わりに,犬肉及び病死した不衛生な動物の肉によって市場は満たされていた。パン1ポンドの貴重な調達を得るために,ゴート人は,費用はかかるが役に立つ奴隷の所有を諦めた。また,少量の肉が,貴重な,しかし役には立たない金属〔銀〕10ポンドによって貪るように贖われた。財産が尽きると,彼らはこの不可欠の交易を,息子や娘を売却することによって継続した。全てのゴート人の胸を鼓舞する自由への愛にもかかわらず,彼らは,悲惨かつ救いのない独立の状態で斃死するよりは子供たちは奴隷状態で生き延びた方がよいという屈辱的な道理に屈した。

最も活発な憤懣は,自称恩恵付与者による専制によってかき立てられた。彼らは,その後の乱暴な取扱いによって帳消しにしてしまったはずの感恩の債務の履行を厳格に求めるのであった。辛抱強くかつ義務に忠実な彼らの姿勢を評価してくれるように求めても取り合ってもらえないでいる蛮族(バーバリア)(ンズ)仮居住地(キャンプ)内において,不満の空気が知らず知らずのうちに高まり,さらには,彼らがその新たな同盟者から受けた無慈悲な仕打ちに対する不満が声高に述べ立てられた。彼らの周囲を見ると,そこには肥沃な属州の富と豊かさとがあった。彼らはその只中にあって,人為的飢餓のもたらす耐え難き苛酷を忍んでいたのである。(ギボン1050-1051頁。改行は筆者によるもの)

 

出入国在留管理庁の監督の下で受入れ機関又は登録を受けた登録支援機関が外国人労働者に対して「(1)入国前の生活ガイダンスの提供,(2)外国人の住宅の確保,(3)在留中の生活オリエンテーションの実施,(4)生活のための日本語習得の支援,(5)外国人からの相談・苦情への対応,(6)各種行政手続についての情報提供,(7)非自発的離職時の転職支援,(8)その他」の支援を行うこと(外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議(第2回)資料・法務省入国管理局)等を確保するほか,「外国人が安心して生活・就労できるよう,医療通訳等の配置等により,医療機関における外国人患者受入に関する環境整備を進めてまいります。さらに,外国人労働者について,都道府県労働局や労働基準監督署に設置している外国人向けの相談コーナーや相談ダイヤルなど,労働条件等に関する外国人労働者の相談ニーズに多言語で対応してまいります。また,適正な雇用管理を確保する観点からも,事業者の雇用主としての責任の下に適切な社会保険への加入が行われるよう,周知や確認等を含め実効性のある方策を関係省庁と協力しながら検討してまいります。」というような周到な配慮(外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議(第1回)における加藤勝信厚生労働大臣の発言)が求められていたところです。医療と社会保険とは重要です。

 前記のゴート人の苦境及びその結末について,ヒエロニムスは簡潔にいわく。

 

   Per avaritiam Maximi ducis, ad rebellionem fame coacti sunt.

 

   マクシムス司令官の貪欲によって,反抗へと彼らは飢えゆえに強制された。

 

7 マルキアノポリスの喇叭

ドナウ河畔から約70マイルの下モエシアの主都マルキアノポリスにおいて,ゴート人とローマ政府軍との最初の衝突が発生します。

 

 ・・・ルピキヌスはゴート人の族長らを豪奢な宴会に招待していた。しかして彼らの護衛のための随行員らは,武装したまま宮殿の入口前にたむろしていた。しかしながら,市門は厳重に警戒されていた。また,蛮族(バーバリアンズ)は,臣民及び同盟者としての同等の利用権を主張していたにもかかわらず,豊富な商品に溢れた市場の利用から厳しく排除されていた。彼らのへりくだった願いは,横柄さと嘲笑とをもって拒絶された。そして彼らの忍耐は今や限界に達し,間もなく,街の住人,兵士及びゴート人らは頭に血の上った口論,怒気に満ちた非難が相互に飛び交う争いを始めた。軽率な殴打がなされた。急いで剣が抜かれた。そしてこの偶爾紛争において最初に流された血が,長く,かつ,壊滅的な戦争のさきがけの信号となった。(ギボン1052頁)

 

 流血の紛争の発生を承け,フリティゲルンらはマルキアノポリスを脱出,彼らを歓呼と共に迎え入れたゴート人は戦争を決議します。いざ出陣。

 

   Vexillis de more sublatis, auditisque triste sonantibus classicis. (Amminanus)

 

      慣習に従って軍旗が掲げられ,そして嚠喨たる喇叭の響きが物悲しく聞こえて。(アンミアヌス)

 

 日清戦争・成歓の戦いにおける我がラッパ手・木口小平及び白神源次郎の敢闘と戦死との有様が想起されるところです。(http://donttreadonme.blog.jp/archives/1072462801.html

 マルキアノポリスにおけるローマの将軍ルピキヌスには,成歓・平壌における清の提督葉志超にやや似たるところありしか。

 

  ・・・恐るべき敵をあえて挑発し,横着に傷害し,かつ,なおも軽侮し得るものと考えていた卑怯有罪のルピキヌスは,この緊急事態に当たって集められ得る限りの軍勢の頭としてゴート人に向かって進軍した。蛮族(バーバリアン)()は,マルキアノポリスから約9マイルの地で彼の接近を待ち受けていた。しかして,この機会においては,武器及び軍隊の練度よりも将帥の才幹こそが実効においてより優越するものであることが明らかになった。フリティゲルンの天才によってゴート人らの勇猛が,しかく巧妙に指揮されたので,彼らの密集した猛攻撃によってローマ軍団の戦列は打ち破られた。ルピキヌスは,敵前において,武器も軍旗も,士官らも最も勇敢な兵士らをも打ち棄てた。そして,彼らの無益な勇気は,彼らの指揮官の無様な逃亡を援護することに役立っただけであった。

「かの成功に満ちた日が,蛮族(バーバリアンズ)の苦難及びローマ人の安全に終止符を打ったのである。かの日からゴート人は,異邦人・流民としての不安定な境遇を脱し,市民かつ主人たる性格を帯び,土地の占有者の上に絶対的支配権を主張し,そしてドナウ川でされた帝国の北部諸属州を自らの権利のうちに保持したのである。」かくのごときが,その同胞の栄光を粗野な雄弁をもってたたえるゴート人歴史家〔ヨルダネス〕の言葉である。

しかしながら,蛮族(バーバリアンズ)の支配は,略奪及び破壊の目的のみのために発動された。自然のもたらす共通の便益及び社会生活における正当な交際を皇帝の属官らによって拒まれていたところ,彼らは当該不正に対する報復を帝国臣民に対して行なった。しかしてルピキヌスの犯罪は,トラキアの平和な農民らの破滅,村々の炎上及び彼らの無辜の家族の殺戮又は拉致によって償われたのである。(ギボン1053-1054頁。改行は筆者によるもの)

 

「ドナウ川を越えて属州モエシアに入る通路は無防備に開かれた状態となった。そして,フリティゲルンと協働する勢力が続々現れるようになった。そればかりではなく,すでにローマ帝国内に受け容れられていた集団からも,待遇に不満を抱いて,フリティゲルンの軍に加わる者が出てきた。」ということになります(南川165頁)。以前からアドリアノープル附近にいたゴート人が矛を逆しまにしてフリティゲルンの軍に加わり,トラキアの金山の鉱夫らがフリティゲルンの軍の手引きをします(ギボン1054-1055頁参照)。


8 アドリアノープルへの道

 377年に入っての状況。

 

   ウァレンス及び彼の属官らの軽率は,敵対者らの(ネー)国家(ション)を帝国の中心に招き入れてしまった。しかしながら,過去の過ちを男らしく認め,かつ,以前の約束を誠実に履行することがあれば,なおもまだ西ゴート人は宥和され得たであろう。これらの修復的かつ穏健な施策は,東の君主の臆病な気質に親和的であるようであった。しかしながら,この場合においてのみ,ウァレンスは勇敢であった。そして彼の時ならぬ勇敢は,彼自身及び彼の臣民にとって致命的であった。(ギボン1055頁)

 

困窮したゲルマン人(Germani)の大群の受入れを行う政策に対する批判の声に対してウァレンス皇帝は,人道の名において,„Wenn wir jetzt anfangen, uns noch entschuldigen zu müssen dafür, dass wir in Notsituation ein freundliches Gesicht zeigen, dann ist das nicht mein Land.“(「困難な時期にあって友としての顔を見せることについて今更謝罪をしなければならないことになるのだとすれば,それは私の国ではありません。」Angela Merkel am 15. September 2015)と反論することはできなかったようです。

 

  ・・・彼は,この危険な叛乱を鎮圧するために,アンティオキアからコンステンティノープルに進軍する意図を表明した。そして,彼はこの企図の困難性に無知ではなかったところから,西の全兵力を統帥する甥のグラティアヌス帝〔ウァレンティニアヌスの後継者〕の援助を要請した。(ギボン1055頁)

 

ドナウ川の河口近くのSalices(柳林)の地におけるフリティゲルン率いるゴート人と東西ローマ軍との戦いは,数多くの戦死者を残して勝負つかずとなりました。数年後に当該戦場跡を見たアンミアヌスはいわく。

 

  Indicant nunc usque albentes ossibus campi. (Ammianus)

 

  野辺は今もずっと骨また骨によって白い。

 

 ローマ軍の手ごわい抵抗を受けたフリティゲルンは,蛮族仲間(西ゴートの他の部族,東ゴート人及びタイファリ人)との同盟工作に精を出します(ギボン1058頁参照)。(タイファリ人については,アンミアヌスが “ut apud eos nefandi concubitus foedere copulentur mares puberes” (「彼らのもとでは,成人男子らが邪悪なconcubitusのちぎりによって結び付けられているほどである」)と記していますが,ここでnefandusとの形容詞を用いることについては,「生産性」方面的なところからする不当な偏見を助長するものであるとの意見もあることでしょう。)しかして「やがて,東の方のアラニ人やフン人すらも,対ローマの戦線に加わるほどとなる。こうして,ローマ帝国が長らく戦略的に避けてきた,様々な部族集団がローマ帝国に対して連帯するという事態が,この時初めてできあがってしまったのである。」ということになりました(南川165-166頁)。

 これに対するローマ側の動きはいかん。

 

西半の皇帝グラティアヌスが派遣した軍隊は,東半の軍隊と協力して,幾度もゴート族の集団と戦ったが,378年の2月にアラマンニ族の一派,レンティエンセス族がライン川を渡って属州ラエティア(現在のスイス地方)に侵入したため,グラティアヌス帝は東に送った軍隊を呼び返さざるを得なくなった。グラティアヌス帝はこの侵入者に勝利を収めると,再び叔父のウァレンス帝を援助するため,軍隊を東に向かわせた。宮廷が分割されていても,ローマ帝国は東西連携して動いていたのである。(南川166頁)

 

 アラマンニ人に対する勝利によって若年の西の皇帝が栄光に包まれている間,年長の叔父さんである東の皇帝は,浮薄な首都の住民の排外熱狂によって煽られます。

 

   それにふさわしい活躍をしたグラティアヌスが彼の臣民らからの称賛を享受している一方,アンティオキアからついに宮廷及び軍を撤収したウァレンス皇帝は,公共の災厄を惹起した者としてコンスタンティノープルの人民に迎えられた。首都において十日間(378530日から同年611日まで)の休息を終える前に,彼は,戦車競走競技場の放縦なわめき声によって,彼がその領域内に招き入れた蛮族(バーバリア)(ンズ)に対して進軍するよう要求された。しかして現実の危険から離れていさえすれば常に勇敢である市民らは,武器が供与されれば,彼らのみで属州をけしからぬ敵の劫掠から救うべく立ち上がるであろうと自信いっぱいに宣言した。無知な大衆の独りよがりな非難がローマ帝国の没落を早めた。公衆からの侮蔑を堅忍不抜に耐えるべきものとする動機を,彼の評判についても,また彼の心裡においても見出すことのなかったウァレンスの,向こう見ずな性急が喚起されたからである。彼はやがて,その部下らの成功した戦闘の結果によって,ゴート人の力を見くびってよいものと思うようになった。ゴート人は,フリティゲルンの努力によって,当時アドリアノープル近郊に集められていた。(ギボン1060-1061頁)

 

   Moratus paucissimos dies, seditione popularium levium pulsus. (Ammianus)

 

   ほんの数日滞在したところ,軽薄な住民の騒ぎによって押し動かされた。(アンミアヌス)

 

 いよいよ皇帝ウァレンス陛下御出陣。

 

9 アドリアノープルの戦い

 

(1)戦闘前夜

 

  ・・・宮廷宦官らの阿諛追従を誇りと歓びとをもって聴いていたウァレンスは,簡単かつ保証付きの征服のもたらす栄光をつかむべくじりじりしていた。彼の軍隊は,古参兵らの多くの増員によって強化されていた。しかして彼のコンスタンティノープルからアドリアノープルへの進軍はしかく高度の軍事能力をもって遂行されたため,その間の隘路を占領し,さらには軍隊それ自体又は輜重を襲おうとする蛮族(バーバリアンズ)の活動は阻止された。アドリアノープルの城壁下に設けられたウァレンスの陣営は,ローマの流儀によって,壕及び塁壁によって防備されていた。そして,皇帝及び帝国の運命を決すべき最も重要な会議が召集された。(ギボン1062頁)

 

その間フリティゲルンはキリスト教聖職者を交渉使節として派遣して来て,トラキアの荒蕪地への平和的入植並びに穀物及び家畜の十分な供与が認められれば和平がなお可能であるようなないようなことを述べさせローマ側を攪乱します。(ギボン1062頁参照)

 

 ・・・ほぼ同時に,リコメル伯が西から戻って来て,アラマンニ人の敗北及び服属を告げ,ウァレンスに対して,彼の甥が,勝利に輝く歴戦のガリア軍団の頭に立って急ぎ進軍し来たりつつあることを知らせた。しかして更に,グラティアヌス及び国家の名において,二皇帝の合作がゴート人に対する戦争の成功を確実にするまでは,あらゆる危険な及び重大な措置を控えるべきことが求められた。しかしながら,意志薄弱な東の君主は,自尊(プラ)(イド)及び嫉妬(ジェラ)(シー)に係る致命的幻想によってのみ衝き動かされていた。彼は煩わしい忠告をうるさいものとして斥けた。彼は屈辱的な援助を拒絶した。彼はひそかに,不名誉な,少なくとも栄光なき自らの治世と,髭のなお生えそろわぬ若者のかの名声とを引き比べた。そしてウァレンスは戦場に突出した。彼の僚帝の軍務精励が戦勝の幾分かを横取りしないうちに彼の幻想の戦勝記念碑を打ち立てるために。(ギボン1062-1063頁)

 

(2)ウァレンス敗死

 運命の37889日がやってきました。

 アドリアノープル近郊でウァレンス率いるローマ軍とフリティゲルンのゴート軍とが対峙します。しかし,直ちに戦端は開かれません。「フリティゲルンはなお彼の常套的術策を施し続けた。彼は和平の使節を送り,提案を行い,人質を要求し,しかして,日よけもないままに焼け付く日差しにさらされたローマ人らが渇き,飢え及び耐え難い疲労によって消耗するまで時間を徒過せしめた。」と伝えられています(ギボン1063頁)。午後になって戦闘が開始されます(南川163頁)。

  

  ・・・ウァレンス及び帝国にとってしかく致命的であったアドリアノープル戦の出来事は,数語で言い表すことができるであろう。ローマ騎兵は逃亡した。歩兵部隊は打ち棄てられ,包囲され,そして切り刻まれた。〔中略〕激動,殺戮及び狼狽の只中で,近衛部隊に置き去りにされ,恐らく矢によって傷つけられた皇帝は,なおいくらかの秩序及び堅忍をもって地歩を守っていたランケアリイ人及びマッティアリイ人の部隊の中に保護を求めた。〔中略〕従者らの手助けによって,ウァレンスは戦場から連れ出され,近くの小屋に運び込まれた。そこにおいて彼らは彼の傷に治療を施し,更に彼の安全を図ろうとした。しかしながら,この粗末な隠れ場所もすぐに敵によって包囲された。彼らは扉を押し開けようとした。彼らは屋上から矢を射かけられたことによって激高した。ついには遅滞に苛立った彼らは,乾いた薪束の山に火を着け,ローマ皇帝及びその取り巻きと共に小屋を焼き尽くした。ウァレンスは炎の中で絶命した。そして,窓から飛び降りた若者が,ただ一人脱出に成功して,この悲しむべき話についてあかしをし,ゴート人に対して,彼ら自らの短気によって取得し損ねたこの上もなく高貴な戦利品について告知することとなった。非常に多くの勇敢かつ優秀な士官が,アドリアノープルの戦いにおいて戦死した。これは,ローマがかつてカンネーの野で被った不運に比して損害の実数において匹敵し,その致命的な結果においては優に上回るものであった。(ギボン1064頁)

10 ローマ帝国の衰亡

 

(1)Secundum Iaponem

 南川高志教授によれば,378年のアドリアノープルの戦いの後わずか約30年で,「帝国」としてのローマは滅亡します。

 

   ・・・5世紀のローマ帝国西半の歴史的な動きを見るとき,5世紀初めに「帝国」としてのローマは滅亡したといってよいことがはっきり了解される。ローマ帝国は4世紀の370年代中頃まで,対外的に決して劣勢ではなかった。しかし,その大ローマ帝国があっけなく崩壊した。帝国軍が大敗北したアドリアノープルの戦いが378年。諸部族のガリアからイベリア半島までへの侵攻とブリテン島の支配権喪失が409年。ローマ帝国はごくわずかな期間に帝国西半の支配圏を失ったのである。政治史から見た場合,ローマ帝国の黄昏は短く,夜の闇は一瞬に訪れたかのごとくである。史上空前の繁栄を現出した大国家が,30年という年月で潰え去ったのだ。(南川201頁)

 

   ・・・従来歴史家は,この5世紀初めの出来事について,ブリテン島とガリア北部でのローマ支配の消滅として,地域的な影響・意義しか捉えてこなかったが,私は,この時点でローマ帝国の「帝国」としての意義が失われたと解釈する。私は〔略〕,担い手も境界も曖昧なローマ帝国を実質化している要素として,軍隊,特に「ローマ人である」自己認識を持つ兵士たちの存在と,「ローマ人である」に相応しい生活の実践,そして支配を共にする有力者の存在をあげたが,405年から生じた一連の出来事〔405年のラダガイススに率いられた蛮族の北イタリア侵入,ブリテン島やガリアのフロンティアから軍を集めたローマの将軍スティリコによるラダガイスス撃破(406年),ブリテン島におけるマルクスらによる皇帝僭称(同年),406年大晦日以降のヴァンダル人,スエウィ人,アラニ人,ブルグンド人及びアラマンニ人のガリア侵入,407年の僭称皇帝コンスタンティヌス3世のブリテン島からガリアへの進出,409年のブリテン島からのコンスタンティヌス3世の総督の放逐〕によって,これらが帝国西半から消え去ってしまったからである。(南川193-194頁)

 

南川教授は「ローマ帝国の衰亡とは何であったといえるだろうか。」と自問し,「それは,「ローマ人である」という,帝国を成り立たせていた担い手のアイデンティティが変化し,国家の本質が失われてゆく過程であった。それが私の描いた「ローマ帝国衰亡史」である。」と記しています(南川205頁)。アドリアノープルの戦いの後「外部世界に住む人々,そこからローマ帝国に移ってきた人々を,個別の部族を超えて「ゲルマン人」とまとめて捉え,野蛮視,敵視する見方が成長」し(南川183頁),そのようなことによるアイデンティティの変化による国家の本質の喪失が,西ローマ帝国滅亡をもたらした要素であった,ということでしょうか。「ローマ国家が,4世紀以降の経過の中で徐々に変質し,内なる他者を排除し始めた。高まる外圧の下で,「ローマ人」は偏狭な差別と排除の論理の上に構築されたものとなり,ローマ社会の精神的な有様は変容して,最盛期のそれとはすっかり異なるものとなった。政治もそうした思潮に押されて動くことによって,その行動は視野狭窄で世界大国に相応しくないものとなり,結果としてローマ国家は政治・軍事で敗退するだけでなく,「帝国」としての魅力と威信をも失っていった」そうです(南川206頁)。

 

(2)Secundum Gallum

フランス(かつてのガリア)のジャン‐クロード・バローは,次のように書いています。

  

   自らがそれ自身である限りにおいては,強大なローマ国家は,西方において無敵であり,かつ,その軍団をもって,蛮族を容易に域外の暗黒の地へと押し戻した。

   帝国及びそれと共にガロ=ロマン世界は,自らを殺して崩壊した。何世紀もの間彼らの義務感及び「公益」の精神を保持していた指導者らは,5世紀においてはこれらの徳目を完全に喪失していた。

   シャトーブリアンは,史実に鑑みながら書いている。いわく,「指導者階級は,三つの継起する時代を経験する。すなわち,卓越の時代,特権の時代及び虚栄の時代である。第1の時代を閲した後彼らは第2の時代に堕落し,しかして第3の時代において消滅する。」と。ローマ,次いでガロ=ロマンの貴族の力をなした諸徳――戦士の徳,偉大の意識及び国家意識――は枯れ果てていた。

   既に長いこと,ガリア人は戦う勇気を忘れ去っていた。フン人に抗して歌われた西方におけるローマの白鳥の歌であるカタラウヌムの野における最後の勝利〔451年〕の後,ゲルマン人たちの前には,略奪,凌辱及び殺戮のために開かれた大地が横たわっていた。彼らを撃退すべき軍団は,既にそこにはなかった。その時,ガリア中において待ち設けられていたのは,一種の内破としての文明の恐るべき後退であった。進歩は,当然のものではない。恐るべき退歩が発生可能なのである。(Jean-Claude Barreau, Toute l’histoire de France; Livre de Poche, 2011: pp.39-40

 

 (3)Secundum Germanum

しかし,ゲルマン人はそう悪くはないのだよと,ドイツ(かつてのゲルマニア)のマンフレット・マイは弁護します。

 

  ・・・しばらくの間ローマ軍は,彼らが全ての非ローマ民族,したがってゲルマン人をもそう名付けていたところの「蛮族」に対して防禦を行い得ていた。しかし,結局のところはゲルマン人の方が強盛であって,彼らはローマ帝国に進入した。とはいえ彼らは帝国を破壊しようとしたのではない。むしろその達成したところのものを彼ら自身のために利用しようとしたのである。しかしてローマの文化及び生活様式が,ゲルマン人の風俗及び習慣と徐々に混ざり合っていった。(Manfred Mai, Deutsche Geschichte; Beltz & Gelbeg, 2010: pp.15-16

 

 

弁護士 齊藤雅俊

大志わかば法律事務所

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